永岡製鉄の物語
@ichiho-k
序章(一)
灰色の高炉と、遙かな海を見下ろす丘に建つ永岡家の屋敷。秋の終わり、執事の青年と療養中の令嬢が交わした会話の中に、家の運命を揺るがす “跡継ぎ” の名が静かに浮かび上がる――。
部屋に差し入る午後の
そんなことを憂鬱な
「去年もそうだったけど、
「あの辺りはこちらと違って温暖でしょうから、野山の錦が
「嫌よ。今度はこちらの土地が寒くなるもの。道路の霜をざくざく踏みながら出て行って、真っ白な息を吐いて震えながらホームで汽車を待つなんてまっぴらだわ」
「駅までは自動車でお送りしますよ、いつものとおりに」
「それに、いくら伊豆でも十一月にもなれば冷えこんじゃうでしょ。せっかく療養に来たのに、却って湯冷めでもしてこじらせたら、わざわざ出掛けて行った意味がないわよ」
「確かにそうですね」僕は軽く笑って
「ねえ、聞いた。今度の
「…ええ、聞きました」『淳風会』というのは、この永岡家の同族の集まりとその会合のことだ。
「とうとう決まってしまったわ。うちの跡継ぎに
「よかったですね。やっと本式に決まりましたか」もちろん既に知っている話ではあったが、僕は思わず声を弾ませてしまった。
「ちっともよくないわよ」由佳さんはありありと浮かない顔をした。「本当はあっちの永岡家の彰平さんに、姉さんと結婚して養子に入ってもらえば、それで一番丸く収まったのよ。そもそも元来は向こうが本家なんだし。もしも姉さんがあんな…
僕は苦笑した。「確かに今の恵利さんに、どこぞのお婿さんを押し付けてうちの養子に、なんて考える人はまずいないでしょうね」
「それならいっそのこと」由佳さんは暗い目つきで明るい窓辺を睨みつけたまま、ひたすら恨めしげな口調で続けた。「うちの兄さんを呼び戻して相続権を復活させてやったらいいんだわ。兄さんがいろんな悪さをして
「
ようやくいつもの
「どうしてそんなに、元彌さんをうちに迎えるのがお嫌なんですか」手に取った土瓶の中身を湯呑みに注ぎながら、僕はさりげなく由佳さんに尋ねてみた。
「決まってるじゃない。理屈ばっかりの
「それも十年以上前の、僕らがまだ少年少女だった時代の話ですよ」僕は少し笑いながら応じた。「あれから元彌さんは、高校へ進学してずっと東京で過ごされて、あの名門の星川銀行に三年半も勤められたんですから。きっと僕らがびっくりするほど洗練されて帰ってこられるんじゃないかな」
「人間の持って生まれた根っこなんて、そうそう変わりゃしないわよ。あの孤高ぶった自信過剰が、その “非の打ち所のない経歴” ってやつを経て、ますます強化されているに違いないわ」由佳さんは
僕はそれを聞くと、両手に湯呑みを手にしたまま、ふと東側の窓へ目を向けた。だがそこからは距離があったので、白いカーテンの繊細な編目に濾された虚ろな灰色の空しか見えなかった。「むしろ、そのほうがいいかもしれませんね」
だがそう呟いた瞬間、彼女の射るような視線を感じた。そこで僕は咄嗟に向き直って、「まあそんなこともありませんよ。元彌さんは昔から、旦那様を誰よりも尊敬しておられました。ですから、その旦那様のお仕事をご自分が継いで、旦那様の成し遂げたことを土台に、もっと大きくこの永岡家の事業を発展させていきたい、それを願ってここへ入ってこられるんです。それなのに、その土台となるものを自らつついて崩してしまうような真似はされませんよ」そう応えて口元に微笑を添えながら、手元でまだつんと香りを立てる漢方の煎じ茶を彼女に差し出した。「少し冷めてしまいましたが」
由佳さんはぷいと顔を背けた。「要らないわ。今は体の調子も悪くないもの」
「昨日、会社で咳が止まらなくなって早引けしたばかりでしょう。今日も休みを取っておられるんだし、またしばらくは飲み続けないと」
「宝田先生からいただいた薬は今朝、吸入したわ。それでいいでしょ。それに」と由佳さんは主治医の名を出しながら、僕の手にある湯呑みに目を移すと、眉間にひどく皺を寄せて片手を口元に
「村上さんが、わざわざ街の薬屋さんまで一走りして調達してきたんですよ。そして、あの人が自分で調合して煎じてくれたんです。まるで我が子の風邪を気遣う母親みたいに、一生懸命に…」
「私の咳は、風邪とは違うわ。村上さんは昔から、私と自分ちの小っちゃい男の子たちをごっちゃにしてるのよ。あの子ら、冬には決まって咳やくしゃみをして鼻水垂らしているくせに、しょっちゅうここに遊びに来ては家中を駆け回って、さんざん風邪を撒き散らして帰って行くんだから。そんな時分に私が咳き込むものなら、すぐにお手製の大根の蜂蜜漬けを持って飛んできて、さあこれをお飲みなさい、喉にいいのよ、うちの子はいつもこれでけろっと咳が治るんだから、なんて言って私にまで飲ませようとするの。もう嫌で嫌で。あの、大根の
「村上さんの男の子たちは、別に遊びに来ていたわけじゃないんです。村上さんがうちに仕事に来るときには隣近所に面倒を見てもらっていたそうですが、それも都合が悪くて預け先がない日には、一緒にうちへ連れてきていただけなんです」僕は笑い出しそうになるのを堪えてそう言った。蜂蜜大根の味の批評も可笑しいが、そもそも由佳さんが話しているのはもう随分と古い出来事で、その頃には彼女自身も、村上さんの息子たちと大差ない、つまりまだ小学校にも行かない “小っちゃい女の子” に過ぎなかったのだ。「…村上さんには女の子がないから、息子たちと同じ年頃の由佳さんを、まるで自分の娘のように思っているところがあるんですよ。そして今でもそうなんです。村上さんは心配しているんですよ、由佳さんが早く体を丈夫にしないと…いつまで経っても
僕がこの話に触れると彼女がひどく嫌がるのは百も承知していたが、それでもつい口にしてしまった。僕はそろそろこの部屋から退散したかったのだ。それに、何だかんだと理由が付いてもう五年近くも棚上げされているこの縁談が、こうもたもたしているうちに万が一、他でもないこの僕のせいでうっかり駄目にでもなってしまったら…そう考えると実のところ、僕としても気が気でない心持ちだった。
次の話へhttps://kakuyomu.jp/works/822139840755369761/episodes/822139840935899942
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