永岡製鉄の物語

@ichiho-k

序章(一)

 灰色の高炉と、遙かな海を見下ろす丘に建つ永岡家の屋敷。秋の終わり、執事の青年と療養中の令嬢が交わした会話の中に、家の運命を揺るがす “跡継ぎ” の名が静かに浮かび上がる――。



 部屋に差し入る午後のも、どこかためらいがちに冴えたりかげったりする。それでも時折、元気で頓狂とんきょうもずの声など遠くみやかに響いたりする。ガラス戸はぴたりと下ろされ、今朝方焚いたストーブの炭火の匂いが、まだ微かに残っている。トルコレースのカーテンに包まれ、黒い格子で八つに区切られた抑揚のない灰色の空が、華やかな刺繍の向こうで息苦しい輝きをはらんでいる。そんな空がこの部屋には四つある、南側に二つ、東側に二つ。そして、ちぐはぐした季節の息遣いに合わせて、紫の絨毯じゅうたんのアラベスクが柔らかくその明暗を入れ替えている。大きく波立つ絹布のような滑らかな薄曇りの空は、天上の小柄な風が気紛れに吹き寄せた柔らかいまだら模様を透かして、日に日に痩せ細る日脚ひあしの濃淡にスポットライトのようなつれない移り変わりを与えている。こんなふうにして、あともう少し、去りゆく秋の苦し紛れの抵抗が続くのかもしれない…

 そんなことを憂鬱な無聊ぶりょうのうちに思いながら僕は、ベッドの上で、うつぶせに横たわっている由佳さんの背骨の両脇を、腰から首へ向けて徐々に移動しながら、指先に力を込めて押してきたところだった。花柄の彫刻が施された褐色の大きな頭板を持つその豪華なベッドは、彼女の夜寝よいのうちにその華奢きゃしゃな体を丸ごと一呑みしてしまうかと僕には見えるのだが、由佳さん本人には大のお気に入りなのだった。常日頃から彼女が、よくよく入念に、と神経質に要請してくる腰回りの指圧は、既に終わっている。彼女は窓の明るみに顔を向けて、ずっと他愛もない話を喋っていた。仕事場での出来事、友人との会話、女学校の思い出話…やがて話題が切れて静まると、待ってましたとばかりに、鳥のさえずりがまた窓の外から美しく割り込んできた。すると由佳さんはとうとう、東京から取り寄せている『都新聞』で読んだらしい、名だたる貴紳きしん方や女優のゴシップまで持ち出してきた。ひょっとしたら彼女も、見えない胸のうちで僕と同じように不毛に気を回し続けているのかもしれない…そう考えると僕は何だか哀しくなってきた。そうこうしているうちに話題は、もう何度繰り返し聞かされたかしれない、つい先ごろ一週間の休暇を取って滞在したばかりの修善寺の話に舞い戻った。彼女は毎年、秋の暮から初冬直前の十月半ば、繊弱せんじゃくな体、特に季節の変わり目には必ず発作に悩まされる呼吸器官の保養のために、伊豆へ数日かけて温泉浴へ出掛ける習慣となっている。

 「去年もそうだったけど、紅葉こうようがいまいち早過ぎて物足りないのよね。もう林檎のように赤くてずっしりした紅葉もみじの森を、あそこで一度、ぜひとも見てみたいんだけど」

 「あの辺りはこちらと違って温暖でしょうから、野山の錦がふもとへ降りてくるのも遅いのかもしれないですね。来年は日程をひと月、後ろにずらしてみますか」

 「嫌よ。今度はこちらの土地が寒くなるもの。道路の霜をざくざく踏みながら出て行って、真っ白な息を吐いて震えながらホームで汽車を待つなんてまっぴらだわ」

 「駅までは自動車でお送りしますよ、いつものとおりに」

 「それに、いくら伊豆でも十一月にもなれば冷えこんじゃうでしょ。せっかく療養に来たのに、却って湯冷めでもしてこじらせたら、わざわざ出掛けて行った意味がないわよ」

 「確かにそうですね」僕は軽く笑って追従ついしょうしながら、また口を閉じて、力を込める自分の指先に目を落とした。毎年の一週間の静養が十一月でなく十月でなければならない理由は、ひょっとしたら他にもあるのかもしれないと思う。なぜなら由佳さんは、秋頃になると毎年、特に疲れた顔色をして仕事から帰宅してくるからだ。しかし僕は、それ以上は深く考えず、再び曇天の鈍い輝きを含む窓に気怠けだるい気分で視線を投げた。両脇には鮮やかな若葉色のジャガード織りのカーテンが優雅なドレープを描いているが、今では灰色の淡い逆光に暗くくすんで、その存在感を失っている。由佳さんは再び、まるでラジオの司会者のように淀みない雑談を始めていたが、僕は生返事に終始するだけで、その半分も頭に入っていなかった。

 「ねえ、聞いた。今度の淳風じゅんぷう会の話」しかし不意に彼女がこんなことを問いかけてきたので、僕の耳も眼も再び至近距離の現実に引き戻された。

 「…ええ、聞きました」『淳風会』というのは、この永岡家の同族の集まりとその会合のことだ。

 「とうとう決まってしまったわ。うちの跡継ぎに元従兄もとにいさんが来るってことが」

 「よかったですね。やっと本式に決まりましたか」もちろん既に知っている話ではあったが、僕は思わず声を弾ませてしまった。

 「ちっともよくないわよ」由佳さんはありありと浮かない顔をした。「本当はあっちの永岡家の彰平さんに、姉さんと結婚して養子に入ってもらえば、それで一番丸く収まったのよ。そもそも元来は向こうが本家なんだし。もしも姉さんがあんな…我儘わがままというか自由気ままな人でなかったら、きっと実際そうなっていたに違いないわ」

 僕は苦笑した。「確かに今の恵利さんに、どこぞのお婿さんを押し付けてうちの養子に、なんて考える人はまずいないでしょうね」

 「それならいっそのこと」由佳さんは暗い目つきで明るい窓辺を睨みつけたまま、ひたすら恨めしげな口調で続けた。「うちの兄さんを呼び戻して相続権を復活させてやったらいいんだわ。兄さんがいろんな悪さをして廃嫡はいちゃくされたのは、もう十年以上も前の、ごく若い頃の話なんだから。今では大陸で会社を経営して立派にやってるというじゃないの。それなのに…」彼女は不満そうに唇を尖らせた。「なぜよりによって…元従兄さんが…」

 「元彌もとやさんは、うちの後継者に最も相応しい方ですよ。旦那様の甥御おいごさんだし、何しろ学歴も職歴も非の打ち所がないですからね」僕は由佳さんの気難しく沈んだ神経を刺激しないよう、まるで誰か噂に聞くだけで全く見も知らぬ人のことを話すかのように、なるべくよそよそしい調子で短めにそう応えた。そして彼女の肩甲骨の周囲と首筋を丹念にほぐし、仕上げに両肩をねんごろに揉んでやった。何事も最後の印象が全体の評価を決めてしまうのだから、ここで手を抜いてはいけない。殊に今ほどナーバスな由佳さんにあっては、その締め括りの如何が今日一日のご機嫌を覿面てきめんに左右するのは言うまでもない。

 ようやくいつもの按摩あんまの一通りを終えると、僕は素早くベッドから降りて、傍らの小卓に置いてあった土瓶に手を掛けた。由佳さんは仰向けに寝返ると、憂鬱のありったけを吐き出すような大きな溜息を一つついた。そして、更紗模様が繊細にひしめく鶯色とびいろの羽織をまとったまま、腰から下を覆っていた花柄のブランケットをさらに胸元まで引っ張り上げて身を包んだ。

 「どうしてそんなに、元彌さんをうちに迎えるのがお嫌なんですか」手に取った土瓶の中身を湯呑みに注ぎながら、僕はさりげなく由佳さんに尋ねてみた。

 「決まってるじゃない。理屈ばっかりの唐変木とうへんぼくだからよ」由佳さんはひどくつっけんどんに言った。「ちっとも融通なんて利きゃしないんだから。姉さんだって昔から言ってるじゃない。あいつほどお高く止まって自分勝手で扱いにくい、鼻持ちならない奴はいないって」

 「それも十年以上前の、僕らがまだ少年少女だった時代の話ですよ」僕は少し笑いながら応じた。「あれから元彌さんは、高校へ進学してずっと東京で過ごされて、あの名門の星川銀行に三年半も勤められたんですから。きっと僕らがびっくりするほど洗練されて帰ってこられるんじゃないかな」

 「人間の持って生まれた根っこなんて、そうそう変わりゃしないわよ。あの孤高ぶった自信過剰が、その “非の打ち所のない経歴” ってやつを経て、ますます強化されているに違いないわ」由佳さんは執拗しつようにこだわって、唇を強く噛んだ。「…あの人、正義と知性をかざしてうちに乗り込んでくる腹なのよ」

 僕はそれを聞くと、両手に湯呑みを手にしたまま、ふと東側の窓へ目を向けた。だがそこからは距離があったので、白いカーテンの繊細な編目に濾された虚ろな灰色の空しか見えなかった。「むしろ、そのほうがいいかもしれませんね」

 だがそう呟いた瞬間、彼女の射るような視線を感じた。そこで僕は咄嗟に向き直って、「まあそんなこともありませんよ。元彌さんは昔から、旦那様を誰よりも尊敬しておられました。ですから、その旦那様のお仕事をご自分が継いで、旦那様の成し遂げたことを土台に、もっと大きくこの永岡家の事業を発展させていきたい、それを願ってここへ入ってこられるんです。それなのに、その土台となるものを自らつついて崩してしまうような真似はされませんよ」そう応えて口元に微笑を添えながら、手元でまだつんと香りを立てる漢方の煎じ茶を彼女に差し出した。「少し冷めてしまいましたが」

 由佳さんはぷいと顔を背けた。「要らないわ。今は体の調子も悪くないもの」

 「昨日、会社で咳が止まらなくなって早引けしたばかりでしょう。今日も休みを取っておられるんだし、またしばらくは飲み続けないと」

 「宝田先生からいただいた薬は今朝、吸入したわ。それでいいでしょ。それに」と由佳さんは主治医の名を出しながら、僕の手にある湯呑みに目を移すと、眉間にひどく皺を寄せて片手を口元にあてがった。その顔つきは、生薬の苦味を舌先に思い出したようでもあったが、同時に、込み上げる咳の兆しを無理やり呑み込んだようにも見えた。「そのお茶、あんた飲んだことないでしょ。ひどくまずいのよ」

 「村上さんが、わざわざ街の薬屋さんまで一走りして調達してきたんですよ。そして、あの人が自分で調合して煎じてくれたんです。まるで我が子の風邪を気遣う母親みたいに、一生懸命に…」

 「私の咳は、風邪とは違うわ。村上さんは昔から、私と自分ちの小っちゃい男の子たちをごっちゃにしてるのよ。あの子ら、冬には決まって咳やくしゃみをして鼻水垂らしているくせに、しょっちゅうここに遊びに来ては家中を駆け回って、さんざん風邪を撒き散らして帰って行くんだから。そんな時分に私が咳き込むものなら、すぐにお手製の大根の蜂蜜漬けを持って飛んできて、さあこれをお飲みなさい、喉にいいのよ、うちの子はいつもこれでけろっと咳が治るんだから、なんて言って私にまで飲ませようとするの。もう嫌で嫌で。あの、大根のえぐみと蜂蜜が混ざった、妙に水っぽくて土臭い液。甘いのに辛くて苦くて、ちょっと口に入れただけで吐き気が込み上げてきて…」

 「村上さんの男の子たちは、別に遊びに来ていたわけじゃないんです。村上さんがうちに仕事に来るときには隣近所に面倒を見てもらっていたそうですが、それも都合が悪くて預け先がない日には、一緒にうちへ連れてきていただけなんです」僕は笑い出しそうになるのを堪えてそう言った。蜂蜜大根の味の批評も可笑しいが、そもそも由佳さんが話しているのはもう随分と古い出来事で、その頃には彼女自身も、村上さんの息子たちと大差ない、つまりまだ小学校にも行かない “小っちゃい女の子” に過ぎなかったのだ。「…村上さんには女の子がないから、息子たちと同じ年頃の由佳さんを、まるで自分の娘のように思っているところがあるんですよ。そして今でもそうなんです。村上さんは心配しているんですよ、由佳さんが早く体を丈夫にしないと…いつまで経っても広彌ひろやさんのところにお嫁に行けなくなってしまうんじゃないかって」

 僕がこの話に触れると彼女がひどく嫌がるのは百も承知していたが、それでもつい口にしてしまった。僕はそろそろこの部屋から退散したかったのだ。それに、何だかんだと理由が付いてもう五年近くも棚上げされているこの縁談が、こうもたもたしているうちに万が一、他でもないこの僕のせいでうっかり駄目にでもなってしまったら…そう考えると実のところ、僕としても気が気でない心持ちだった。 



次の話へhttps://kakuyomu.jp/works/822139840755369761/episodes/822139840935899942



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