第一部第一章6「夕暮れの裏庭、異邦人の告白と託された願い」(一)

 僕はわざと足取りをのろのろさせながら、芝生を踏まずに遠回りをして、広場から車庫の前まで、海の見える裏庭の方向へ角を折って続いている石畳の道路の端を歩いていった。どうにも気が進まなかったし、それに僕は、いま自分が裏庭へ赴く用事のあることを当の目的の人物に示すための、何らかのさりげない口実を見つける必要があった。まさか、手ぶらでのこのこ向かっていっていきなり話しかけるわけにもいかない。僕は家人でも客人でもなく召使いに過ぎないのだから、特に客人に対してはただでさえ極力目に付かぬよう振る舞わねばならないのに、特段の用件もなく敢えてこちらから会話を始めるとなると、非礼にも対等な態度であしらいを受けたと誤解されないために、抜かりなく膳立てを考えなければならない。

 それにしても、と僕は苦笑した。かつて、というのはもう十数年も前、僕らがまだ中学生だった時分であるが、その頃から、元彌さんが僕に厄介な難題を吹きかけてきたのは一度や二度ではなかった……そんなことをちらと思い出しながら、車庫の入口に近づく道路の曲がり角に来ると、車庫の手前に見える蝋梅ろうばいの木に、幾つもの小さな枯茶色の蕾が、微かに黄色い明るみと丸い膨らみを帯びて、寒気の始まりの中でじっと静かな生気を燻らせているのだった。とっくに葉はみな落ちているが、まだ開花にはほど遠い。僕は惰性のままゆるゆると歩を進めて、その無数に分かれた撓わな枝振りの袂に近づいてそれらを見上げながら、もしこれがひと月も遅くてここに電球のような鮮やかな小花がいっぱいに咲きこぼれていたならば、いま僕の胸を重くしているこの難問も割かし楽に片付いてしまうかもしれないのに、といささか恨めしい気持ちになった。これを枝物としてホールなりどこになり飾るのだと称して、その切り取った美しい大枝を手に提げていけば、裏庭を回って裏口から邸内へ赴く格好の口実となりそうだからだ。

 僕はまた、裏庭を北向きに横切った先の木立の陰に、こんもりと茂った山茶花さざんかの木が今を盛りと薄紅色のお椀型の花をいっぱい付けているのを思い浮かべた。しかしそれらは、すでにこれでもかと切り取られて花瓶に挿され、客人の往来する座敷やホールなど邸内のあちこちを彩っている。しかしもはやその他に適当な案も見つからないので、いかにも苦肉の策だと知りながら、その赤い花々を切りに行くのに言寄ことよせようと僕は腹を決め、車庫の前を通り過ぎて納屋へ向かった。


 当の人物は、屋敷に背を向け、冬日に和らぐ灰青色の海を見下ろす、庭のへりの石段の脇に佇んでいた。そのモリス氏の影がすぐ近くに見えていたので、僕は、物音でその人がこちらを見るかもしれないと思い、心構えをしながら納屋の引戸を引く腕に力を込めた。すると案の定、氏はすぐに金髪を燦めかせて振り向いた。僕が会釈をすると、その人もまた、いかにも作法に慣れた日本人並みの速やかさで頭を下げてきた。ひょっとすると洋装姿の家人だと勘違いしたのだろうか。その人のやや丁寧に過ぎる態度にそう思いながら、納屋の中の棚板から小さな枝切りばさみを手に取って表へ出ようとした。氏はもう僕には無関心で再び海を眺めているはずだから、その背後を少し離れて素通りするふりをしつつ、だが何気なく話しかける機を密かに窺うつもりだったのだ。ところが驚いたことに、僕が納屋の敷居を跨いで外の明るみに顔を出すと、氏は未だにこちらを見つめていた。つまり何か用向きがあって、この僕を待っていたように見えたのである。僕は不意を突かれたが、けれどもこのまたとないチャンスを逃さなかった。今度は笑顔をつくりながら氏の近くへ歩み寄り、「どうかなさいましたか」と声をかけた。

 「あの、あそこに見えるたくさんの建物と煙突の影が」とモリス氏は、僕に首を向けたまま沖のほうを指差して尋ねてきた。「ナガオカさんの製鉄工場ですね」

 「ええ、そうです」と僕は、内心やや誇らしく思いながら応えた。

 「素晴らしいです」氏は僕の目を見ながら、偽りのない感嘆をその言葉に滲ませた。僕は思わずはっとしたが、どう応えていいか分からなかった。そもそもモリス氏は、うちの製鉄所の何をそんなに称賛しているのか。すると氏は、沖合の工場の眺めに視線を戻して、溜息を漏らしながらこう呟いたのだった。「……Amazing…実に絵画的な光景だ。この眺望そのものが、この家の住人の……message を為している」

 「……まことにその通りです」僕はモリス氏の、慧眼というのか、まさしく一息に真実を衝くような直観力に驚いてしまった。そして、その驚きと僕自身の思い入れとが重なり、つい我を忘れて、召使としては出過ぎているのかもしれないが、相手が尋ねもしないのにこんなことまで長々と語り通してしまった。「我が家の先代の主人は、この庭を人工的に造り込むことを非常に嫌がって、このように地所の両端に幾許かの木立を残し、足下にはただ一面に素朴な芝を敷き詰めたのみで、こんな高台の土地だというのに柵も塀も設けないどころか、ロープ一本張ろうとはしませんでした。お察しのとおり、この景観をただの一つも損ねたくなかったからです。緑色の岬から突き出た、あの、自らの手で拡張してきた近代的な工場群と、見果てぬ大陸に向かって突き抜ける海と空の青々とした広がり、これこそがまさしくこの家の『庭』そのものなのだと。そしてさらにいずれは、永岡家のものでありかつ日本国家のものである、あの製鉄工場の岸壁に、黒々とした巨大な貨物船がひっきりなしに往来し、優れた鉄鋼製品を山と積み込んで世界各国に向けて船出する有様を、この巨大なカンバスに現実に描き込む日が必ずやってくる…そう固く信じて、その日の到来を長らく夢に見続けながら、病に倒れる前日まで身を粉にして働き続けたのです」

 「そうなのでしょうね」モリス氏は、先ほどからずっとその光景に目を馳せていたが、「ここから眺めていると、そのご主人の気持ちが実によく分かります…きっとそれを毎日思い描くために、そしてその実現ゴールをひたすら見つめて走るためだけに、この土地を買いここに自宅を構えたんでしょうね」そう言って、例の小型写真機カメラを両手で胸元に構え、上からファインダーを覗き込んだ。そして、そのちっぽけな窓になかなか構図を決めきれないのか、頻りにその筐体を縦向きにしたり横向きにしたりを繰り返しては、再び頭を上げて原物の眺めを見やり、感じ入ったようにふうと大きな溜息を吐いたりした。「それにしても美しい……機械文明を象徴するあの幾何学的な輪郭に、なだらかな潮流の光と影が実によく似合う」

 今、波間を白く輝かせているのは、屋敷の背後に傾きかけた日暮れ前の太陽だった。それを思うと、僕には急に切ない気持ちが込み上げてきたが、それを抑えながらこう付け加えた。「…その主人の夢も、やはりというか結局は夢のままに終わってしまいました」



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