1-2
◇
夏休み二日目。
午前中は家の家事やら何やらをして、午後からは趣味の映画を家で何本か観賞して。
そして迎えた夕方、俺は毎日の日課である愛犬の小次郎との散歩に出掛けていた。
相変わらず"はっはっ"とご機嫌に息を荒ぶらせて歩く小次郎に連れられて、いつもの散歩コースの大きな運動公園へと踏み入れる。
…昨日の記憶が蘇るなぁ。そう、確かこの先の雑木林が並ぶ並木道の木陰の休憩スポットが昨日の処刑場だったなぁ。
そうして"その場所"へと近づくと、突然小次郎の俺を引く力が強まった。
繋がるリードをグッと引っ張るように、小次郎は興奮気味に走り出そうとしている。
「ちょいちょい、どした小次郎?美人な雌犬でもいたか?」
小次郎も立派な男子。メスのフェロモンでも香ったのだろうか。
だが残念、貴様は去勢済みである。
「ごめんなぁ小次郎。別嬪さんに惹かれる気持ちは分かるけど、お前はもう種無しなんだよ…。」
なんて悲しい事謝罪してんだろう俺。
飼い主の聞いた事ないタイプの謝罪なんか無視するように小次郎は俺を引っ張り続ける。
気の済むように俺もそれに着いて行く。
そうしてたどり着いたのは、昨日の"あの"現場。
雑木林が並び、その影が夏の日差しを遮って…夕風が吹き抜けて涼しさを感じさせる場所。
そこに…また"彼女"は、いた。
「…野田さん?」
屈み込んでいるその姿に声を掛けると、彼女──野田さんは、こちらを振り向く。
近付くと、小次郎はお利口にその前にお座りする。どうやら小次郎の目的地はここだったらしい。
肩にかかるさらりとした髪。小さな顔。大きな瞳に、綺麗な
声をかけて、振り向いて、目が合ったのに…野田さんからの言葉は無し。うーん、塩。
その塩分濃度に苦笑おうとしたが、屈む野田さんのスカートの
「…野田さん、その猫…。」
…多分、野良猫。毛並みとか、汚れとか、そういう見た目。
えらく大人しく丸まってるな、と思ったけど…その黒猫の片足が赤くなっている事に気付く。
恐らく怪我をして、その血で傷口や周りの毛を赤黒くしているのだろう。
「…他の猫と、ケンカした、っぽくて…。」
ようやく、野田さんはポツリと言葉を溢した。
「…後脚を、怪我してて…ここでグッタリしてて…。病院に、連れて行きたいんだけど…今日、日曜日で…空いてる病院が近くになくて…」
ポツリ、ポツリと。蛇口の先から、滴るように。まるで我慢しているように、震わせながらの声。
「…隣町まで行けば、空いてる病院…あるんだけど…タクシーとか、そんなお金…私、持ってなくて…」
全然、泣いてなんかないんだけど…でもその声は、悔しさと悲しさで泣き出しそうな色で。
野田さんはその視線を膝元の黒猫に落とす。
「…何も、してあげられなくて…。」
…という、野田さんの言葉。
野田さんとは一応中学から同じ学校に通う仲ではあったけど、それでもこの文字数で既に一生分くらい野田さんと会話したような錯覚がする。
…まぁ、事情は分かった。
「ちょっと失礼すんぞ。」
俺も同じように屈んで、野田さんのスカートの上で丸まっている黒猫に手を伸ばす。
黒猫は抵抗する素振りをしない。息はあるけど、かなり体力を消耗しているようだ。
「うし、とりあえず病院連れてこう。野田さん、その子抱えて歩ける?」
立ち上がり、スマホの電話帳を開く。
俺の言葉に野田さんは少し間を置いて、こくりと頷く。それを見届けてから、電話帳欄の"クソ親父"と登録された番号にタップした。
◇
それから1時間と少し経った頃、処置を終えた"動物病院の先生"が診察室の椅子にドカっと腰を下ろした。
「まぁ怪我は大した事なかったわ。安静にしてりゃ明日にでも普通に歩くんじゃね?ただ飯食ってなかったんだろうな、栄養失調気味でそっちが危ねぇところだった感じだな。」
淡々と、血液検査の紙を診察台に置いてザッと説明する"先生"。まぁそんな数字、素人が見たって分かるわけもなく。
その"先生"に、俺は睨むような眼を向ける。
「…んで、あの黒猫は大丈夫なんだろうな親父。」
それを問うと、先生──親父はヘラっと笑う。
「今は点滴打って、ちょっと良くなりゃ飯食わせて、それで解決だな。まぁ死にゃしねぇよ。嬢ちゃんが見つけてくれたおかげだな。」
親父のそのまさに何ともないかのような気の抜けた言葉に、隣にいた野田さんはホッと胸を撫で下ろしていた。
それを見て親父はニヤリとした眼を俺に向ける。
「んでぇ、このカワイ子ちゃんは
「同級生だよただの。気色悪ぃ詮索すんなクソ親父。」
「おいおい日曜日の休診日に人様を引っ張り出してきておいてそんな言い草なくねぇ?」
…そう、うちの親父は動物病院で獣医師をしている。
本来日曜日である今日は休診日なんだけど、ウチは急患があればそれが夜中だろうが休診日だろうが対応する実に融通の効く病院なのが売り…らしい。
「んじゃ今日の晩飯は唐揚げでもお願いしよっかなぁ陸ぅ?」
「はぁ!?昨日トンカツだったのに今日も揚げ物かよ!?胃袋も中年の自覚持てや!?」
なんでこのオッサンより俺の方が連夜油物への拒否反応出てんの!?我まだ花の十代だが!?
俺らのやりとりを黙って見ていた野田さんだが、急に「あのっ」と声を上げた。
「お代、どれくらいに…なりますか…?」
で、訊ねたのは代金の話。
…通常なら時間外代とかも+されて中々の金額になるだろう事は想像できる。だから野田さんも、恐る恐るという聞き方だったんだろう。
対して親父はヘラッと笑う。
「あぁいいよいいよ、息子が同年代の女の子と並んでる姿見れただけでオッサン潤っちゃったから。陸弄りのネタ提供って事で等価交換な。」
そう言って親父は診察に使った器具の片付けを始める。
…いいオッサン感出してるけど、息子サイドからしたらたまったもんじゃねぇ。
まぁでも、野田さんサイドからしたらいいオッサン発言ではある。その太っ腹な対応に、キョトンとする野田さん。
「あぁ、でも一つ。」
思い出したように親父は手を止め、野田さんをジッと見据える。
「治療はするが、その後あの猫をどうしてやるかは君が判断しな。また野良に返すのか、預かってくれるような所探すのか、君が飼うのか。それが、命に介入した責任ってもんだ。」
それは真面目な声色だった。さっきまでの"クソ親父"ではなく、"獣医師"としての言葉。
対して野田さんは、迷わずこくりと頷く。それを見届けた親父は、またヘラリと笑う。
「とりあえず明日、午前診終わった頃にまた顔見せな。そん時にまた今後の話をしよう。おい陸、もう暗ぇから彼女送ってやれ。」
「言われなくてもな。」
それで終いと言った感じで、親父は片付けを再開する。
そんな親父に、野田さんは深いお辞儀をしたのだった。
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