ハエよ、彼女はまだ早い。僕にしとけ。

雨光

あの子はダメだ!

頼む、あっちへ行ってくれ。


いや、あっちと言うか、こっちだ。


いいから、俺んとこ来い。


俺という滑走路はいつだって空いている。


だからその、一点の曇りもない白亜のブラウスにとまるのだけは、勘弁してくれ!


神様は時々、ひどく悪趣味なイタズラをする。  


美しい絵画に墨汁を垂らすような、厳粛な式典で誰かのお腹が鳴るような、そんな「台無し」の瞬間を、ここぞというタイミングで演出するのだ。


その最たる例が、「女子にハエがとまる」という事案である。


あれは一体、何の呪いなのだろう。  


学校の教室で、あるいは職場の朝礼で。


僕の視界の端を、ふらふらと黒い影が横切る。


不吉な予感。


その羽音の主は、まるで品定めをするかのように空中でホバリングし、あろうことか、その場にいる最も清楚な女性を選んで着陸するのだ。


マジでやめろ、と思う。  


そこは、お前のような薄汚れた羽虫がピクニックシートを広げていい場所ではない。


つい先日もそうだった。  


職場の朝礼中、真面目な顔で部長の話を聞いている新人女子社員の、その真っ白なブラウスの肩口に、奴は舞い降りた。  


黒い点。


白地に黒。


視認性は抜群だ。  


僕の心臓がドクンと跳ねる。


まるで自分が不祥事を起こしたかのような動悸が襲う。


周囲の数人も気づいている。


だが、誰も動かない。


動けないのだ。いや、動けるはずがない。  


この「女子にハエがとまっている」という状況において、男に与えられた選択肢は絶望的に少ない。


まず、「指摘する」という手が封じられている。


「あの、肩にハエが」  そう言った瞬間、彼女はパニックになり、手で払い、場合によっては小さな悲鳴を上げるだろう。


朝礼の厳粛な空気は崩壊し、彼女は「ハエにたかられた女」として赤面することになる。


それは可哀想だ。


あまりに不憫だ。


在ってはならない。


では、無言で払い落としてやるか?  


論外だ。


なんの前触れもなく女子社員の肩に手を伸ばす中年男。


それはハエを追い払う騎士(ナイト)ではなく、ただのセクハラ上司である。


社会的抹殺のリスクを負ってまで、ハエ一匹と戦う勇気は僕にはない。


じゃあ、見なかったことにするか?  


これが一番難しい。


だって、気になるのだ。


めっちゃ気になる。 


奴はただ止まっているだけではない。


あろうことか、前脚をすり合わせ、くつろぎ始めている。


彼女の純白のブラウスの上で、我が物顔でグルーミングをしているのだ。  


その無神経さに、無性に腹が立つ。  


そして何より気まずいのは、ハエの動向を目で追っていると、必然的に僕の視線が彼女の首筋や胸元に固定されてしまうことだ。  


はたから見れば、僕は朝礼中に新人女子を凝視している変質者である。


違う、そうじゃない! 


俺が見ているのはハエだ!


いや、ハエを見ているという言い訳も相当苦しい!


どうすればいいんだ。  


この凍りついた時間の中、僕ができることは祈ることだけだ。


――頼む、こっちへ来い。  


僕は心の中で、必死にテレパシーを送る。  


あんなシャンプーの香りがしそうな聖域(サンクチュアリ)じゃなく、


昨日の夜、焼き肉を食って加齢臭も漂わせている、この俺の背広に来い。


俺なら許す。


頭にとまろうが、鼻の頭にとまろうが、笑って済ませてやる。


俺はおじさんだ。


汚れ役には慣れている。  


だから、彼女の尊厳を守ってやってくれ。


彼女に「不潔なものが触れた」という記憶を残さないでくれ。


僕の悲痛な願いもむなしく、ハエはたっぷりと休息を取った後、ふわりと飛び立った。  


彼女は何も気づいていない。  


僕と、周りの数人の男たちだけが、どっと深いため息をつく。


飛び去ったハエを目で追う。  


奴は旋回し、今度は窓際で光を浴びていた観葉植物の葉にとまった。  


……そうだよ。


最初からそこに行けよバーカ。  


僕の中に残ったのは、得体の知れない疲労感と、守りきれなかったという謎の敗北感だけだった。

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ハエよ、彼女はまだ早い。僕にしとけ。 雨光 @yuko718

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