第9話 逃げること

 その夜の空気はどこか乾いていて、

 街灯の下を舞う砂ぼこりが風に細く流れていた。

 ミルは棚の上で前足をそろえ、

 外をじっと見つめていた。


 扉がそっと開き、若い男性が肩を落として入ってきた。

 スーツは少しよれていて、手には握りしめた社員証。


「……あの、少しだけいいですか。」


 ミルは静かにカウンターへ降り、

 椅子の脚を前足でちょい、と押した。

 「すわるにゃ。重い荷物は座ってから開けるにゃ。」


 男性は深い息を吐いて腰を下ろした。


「仕事を始めたばかりなんですけど……

 もう辞めたいんです。

 人間関係もきつくて、覚えることも多くて、

 朝になるだけで胸がぎゅっと痛くなるのに……

 逃げたらダメな気がして。

 逃げるって、悪いことですよね。」


 ミルは彼の足元に寄り、尾をゆるりと揺らした。


「にんげん以外の動物はにゃ、

 命を守るために、危険からすぐ逃げるにゃ。

 逃げるのは“弱い”じゃなくて、“生きる知恵”にゃ。」


 男性は驚いたようにミルを見る。


「……でも、逃げたら怒られますよね。

 “根性がない”とか、“すぐ辞めるやつ”って言われて……そんな自分が情けなくて。」


 ミルはそっと男性の靴先に前足をのせた。


「逃げて怒られたり、

 逃げた自分を責めたりするのは……

 にんげんだけにゃ。」


 男性の目が揺れた。


「ほかの動物はにゃ、

 “危ない”“しんどい”と思ったら、

 静かにその場を離れるだけにゃ。

 罪悪感なんて、持たないにゃ。

 生きのびることを一番に考えるからにゃ。」


 男性の喉が小さく鳴り、息を飲む。


「……じゃあ、僕が辞めたいのって……

 本能みたいなものなんでしょうか。」


 ミルはそばに座り、前足でぽふ、と彼の手を触れた。


「こころが“危ないにゃ”“しんどいにゃ”

 って教えてくれてるだけにゃ。

 それは逃げじゃなくて、

 自分を守るための、大事なサインにゃ。」


 男性の目にうっすら涙が滲む。


「……守るため、か。

 辞めたら負けだと思ってたけど……

 そうじゃないんですね。」


 ミルはこくり、と確かにうなずいた。


「逃げる場所をえらぶのは、

 にんげんの強さにゃ。

 倒れる前に離れるのは、勇気にゃ。」


 男性の肩が少しだけゆるむ。

 その表情は、さっきよりずっと人間らしい温度を取り戻していた。


「……少し楽になりました。

 辞めても、僕はダメじゃないんですね。」


 ミルは満足げに喉を鳴らし、

 カウンターの奥から 魚型クッキーをころん、と押し出した。


〈生きるための選択にゃ。

 にげることは、まちがいじゃないにゃ〉


 男性が扉を閉めると、

 夜風がほんの少し、あたたかく感じられた。


 ミルは棚に戻り、

 前足をそろえてそっと目を閉じた。

 まるで「守りたいものを守るにゃ」と、

 静かな夜へ小さな灯りを置くように。

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