第5話 隣の芝生
その夜、店の窓に映る街のネオンが、
いつもより鮮やかに明滅していた。
ミルはその光を目で追いながら、
尾をゆっくり左右に揺らしていた。
扉の鈴がころんと鳴り、
小柄な女性がため息まじりに入ってきた。
肩には疲れが積もり、手にはスマホを握りしめている。
「……少しだけ、話してもいいですか」
声はか細く、どこか自分を責めている響きがあった。
ミルはすっとカウンターへ移り、
椅子の脚を前足でちょいちょい、とつついた。
「すわるにゃ。胸の中の重さをおろすにゃ。」
女性は座り、スマホの画面を伏せて置いた。
「SNSを見るたびに……みんなキラキラしてて。
仕事も恋愛も順調で、楽しそうな友達や家族の写真もいっぱいで……気づいたら自分と比べて落ち込んでしまうんです。」
ミルは静かに近づき、
女性の手の甲に前足をぽふ、と乗せた。
「にんげんはにゃ、隣の芝生を“盛れてる瞬間”だけで見てしまうにゃ。
本当は、その向こうに影も石ころもあるのにゃ。」
女性は目を伏せて、弱く笑った。
「……わかってるつもりだったんです。
でも、私ばっかり取り残されてる気がして。」
ミルは尻尾を一度、ふわりと揺らして言った。
「芝生が青く見えるのはにゃ、そこが特別じゃなくて、“自分の心が疲れてる”サインのときもあるにゃ。」
女性ははっとしてミルを見る。
「……疲れてる、だけなんでしょうか。
私が劣ってるんじゃなくて?」
ミルは女性のスマホを前足でちょんと触れ、
画面をそっと裏返した。
「比べるのはにゃ、心がさびしいときの癖にゃ。
芝生が輝いて見えるときは、
自分の土を少し休ませるチャンスにゃ。」
女性は胸の奥からゆっくり息を吐いた。
「……そう思えたの、久しぶりです。
少し、救われました。」
ミルは満足げに喉をころころ鳴らし、
カウンターの奥から 魚型クッキーをぽろん、と押し出した。
甘い香りがやわらかく広がる。
〈芝生は育てれば青くなるにゃ。
よそ見より、自分の庭をやさしく育てるにゃ〉
女性が立ち上がるころには、
表情のくもりがすこし晴れていた。
扉を出ると、街のネオンが穏やかに滲んで見える。
ミルは棚の上に戻り、
ひげをふるりと揺らしてから目を閉じた。
まるで「今日はよくがんばったにゃ」と
そっと夜にひと息つくように。
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