第12話:『青の証明』
冬花が消えた後、僕は屋上でしばらく呆然としていた。
けれど、世界は僕の感傷など待ってはくれない。
チャイムが鳴った。昼休みの終わりを告げる音だ。
僕は重い体を引きずって、教室に戻った。
教室のドアを開ける。
ざわざわとした日常の音が僕を迎える。
僕は真っ先に、窓際の席を見た。
無い。
机が、一つ減っていた。
窓際の後ろから二番目。そこにぽっかりと空いたスペースはない。
前後の机の間隔が自然に詰められ、最初からそこには誰も座っていなかったかのように、列が整然と並んでいる。
「……っ」
僕は教壇に駆け寄り、座席表を見た。
『一ノ瀬冬花』の名前が消えかかっていた場所。
そこには今、別の文字が印刷されているわけではなかった。
ただ、枠そのものが詰められ、出席番号が一つずつ繰り上がっていた。
「おい、春樹。何やってんだ?」
友人の佐藤が声をかけてきた。
彼の顔には、微塵の違和感もない。
「佐藤……お前、一ノ瀬のこと」
「え? 一ノ瀬? 誰だよそれ」
佐藤は心底不思議そうに首をかしげた。
「お前、寝ぼけてんのか? うちのクラスにそんなやつ居ねえよ」
完了していた。
世界の修正(アップデート)が。
一ノ瀬冬花という少女は、この世界から削除された。
彼女の机も、上履きも、ロッカーも。
そして、人々の脳内にあった彼女との思い出も、すべて「別の記憶」に書き換えられるか、単なる空白として処理されてしまったのだ。
僕だけを残して。
「……居たんだよ」
僕はカバンを握りしめた。
中には、あの日、屋上で彼女の文字をなぞったノートが入っている。
「居たんだよ、ここに……!」
叫び出しそうになるのを、必死で飲み込んだ。
ここで騒いでも、僕は狂人扱いされるだけだ。
誰も信じない。証明する術は何もない。
放課後。
僕は逃げるように写真部の部室へ駆け込んだ。
暗室に籠もり、震える手でフィルムを取り出す。
最後の1枚。
あの屋上で、消えゆく彼女に向けて切ったシャッター。
「頼む……」
現像液の匂いが鼻をつく。
赤いライトの下、バットの中で印画紙を揺らす。
頼む。
何でもいい。
光の粒でも、影の切れ端でもいい。
彼女がそこにいた証拠を、僕にくれ。
像が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
そこには、抜けるような青空が写っていた。
屋上のフェンス。白い雲。
そして。
「……あ」
僕は印画紙を濡れた手で掴み上げ、泣き崩れた。
写っていた。
人物は写っていない。彼女の姿はどこにもない。
けれど、画面の中央。
彼女が立っていたはずの場所に、一筋の美しい「レンズフレア(光の輪)」が写り込んでいた。
それは偶然の産物かもしれない。
逆光がレンズの中で乱反射しただけの、光学的なエラーかもしれない。
でも、その光の輪は、あまりにも優しく、七色に輝いていた。
まるで、彼女が最後に残した「笑顔」そのもののように。
『今の私、きっと世界で一番綺麗に透き通ってるから』
彼女の言葉が蘇る。
そうだ。彼女は光になったんだ。
透明になるということは、無になることじゃない。
光そのものになって、この世界に溶けたんだ。
僕は暗室の床で、その写真を抱きしめて嗚咽した。
世界中の誰もが「失敗写真」と呼ぶであろう、ただの空の写真。
でも、これこそが僕にとっての、彼女のポートレートだった。
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