第21話 黄昏の稽古――あるいは殺意の系譜

 白井紫影が師事する男は、名を伏すが、関東の某所にひっそりと道場(といっても看板すらない個人の邸宅だが)を構える日本人武術家である。

 温厚な風貌を持つこの師匠には、しかし、常人には触れ得ざる精神の断層があった。

 それは、師匠のそのまた師匠――すなわち、白井から見て**大師父(だいしふ)**にあたる人物の来歴に起因している。


 大師父は、大陸の生まれであった。

 かつて吹き荒れた文化大革命の「赤き嵐」を逃れ、命からがら日本へ渡り、帰化した人物である。彼は、伝統武術が「旧弊」として破壊され、武人が迫害された時代を生き抜いた、真正のサバイバーであった。

 趙道新の晩年の技を受け継いだ彼は、日本という安住の地を得て、表向きは穏やかな余生を送ったとされる。


 しかし、師匠は稽古の合間に、ふと、遠い目をして白井に漏らすことがあった。


 「……大師父はな、この国の平和に心から感謝しておられた。だが、同時に……時折、恐ろしいことを口になさった。」

 師匠は、苦い茶を啜(すす)りながら続ける。

 「『あの大戦の最中(さなか)、生死の境を彷徨(さまよ)ったあの時こそが、我が拳(けん)の完成に最も近づいた瞬間であった』と。……そして、『平和な日本では、ついに最後の奥義、すなわち人殺(ひところ)しの技を極める機会(チャンス)は訪れまい』と、寂しげに笑われたのだ。」


 白井は、その言葉に戦慄(せんりつ)した。

 平和とは尊いものである。しかし、純粋に「武」の極致を目指す者にとって、殺し合いの場が存在しないことは、ある種の不幸であり、去勢された虎が檻の中で老いるが如き虚しさを伴うものなのか。

 白井は、自らの掌(てのひら)を見つめる。

 この手は、何のためにある? 少女を守るためか? それとも、使われることのない凶器として、ただ磨かれ続ける運命なのか?


第二章 魔の刻、異形の弟子たち


 白井が通う稽古場には、冷暖房完備の快適なジムもなければ、平らな床もない。

 稽古は常に、**日没(サンセット)**と共に始まる。

 場所は、人目を避けた里山の雑木林、あるいは足場の悪い岩だらけの海岸。

 街灯の明かりなど届かぬ漆黒の闇の中で、彼らは五感を極限まで研ぎ澄ますことを強いられる。


 「目は使うな。肌で視(み)よ。」


 師匠の教えは徹底していた。

 木の根が隆起し、あるいは波に濡れた岩場という、最悪の足場(バッド・コンディション)。そこで重心を保ち、気配だけで相手の位置を察知する。それはスポーツとしての格闘技ではなく、生存本能を呼び覚ますための儀式であった。


 そして、この闇の儀式に集う兄弟弟子たちもまた、白井に劣らぬ曲者(くせもの)揃いであった。


 一人は、フランス外国人部隊帰りの元傭兵。

 身体中にある無数の傷跡と、硝煙の染み付いたような乾いた殺気を纏(まと)う男。彼は、近代兵器の飛び交う戦場で、至近距離における徒手空拳の限界と必要性を痛感し、この古流の門を叩いたという。


 もう一人は、極真空手の元全日本王者。

 岩石の如き拳と肉体を持ちながら、競技ルールという枠組みと、剛の拳がもたらす肉体への反動(ダメージ)に限界を感じ、北派内家拳の「柔」と「化勁(かけい)」を求めて流れ着いた求道者。


 彼らは皆、既存の武術や生き方に絶望し、あるいは限界を感じて、この薄暗い里山へと辿り着いた**「はぐれ者」**たちであった。

 高校生の白井は、この猛獣たちの檻の中に、最年少の弟子として放り込まれていたのである。


第三章 真剣の煌めき


 ある新月の夜。

 師匠は、いつになく張り詰めた空気を漂わせ、一本の刀を手にしていた。

 模造刀ではない。闇の中でも妖しい光を放つ、真剣である。


 「今日は、胆(きも)を練る。」


 師匠は短く告げると、鞘(さや)を払った。

 

 「逃げよ。追いつかれたら、斬る。」


 冗談ではなかった。

 師匠の歩法は、音もなく、影のように弟子たちの背後へと迫る。

 白井は、心臓が破裂しそうな恐怖の中で、必死に気配を探った。

 背後の闇が揺らぐ。殺気が肌を刺す。

 (――来るッ!)

 思考よりも早く、身体が反応する。泥にまみれ、木の根を飛び越え、転がるように身を躱(かわ)す。

 一瞬遅れて、先ほどまで自分の首があった空間を、ヒュッという風切り音が通過する。


 「遅い。」


 闇の中から師匠の声が響く。

 元傭兵も、元空手王者も、この時ばかりはプライドを捨て、獣のように森を逃げ惑う。

 この異常な稽古こそが、彼らの「感知能力」と「生存本能」を、常人の及ばぬ領域へと引き上げていた。


 夜明け前。

 泥と汗にまみれ、生き延びた安堵感と共に座り込む白井の横顔を、朝の光が照らす。

 彼は、この修羅の時間を経て、翌朝には何食わぬ顔で聖交学園へと登校し、寺石たちとアニメ談義に花を咲かせるのだ。


 殺意と萌え。

 死の恐怖と、二次元の安らぎ。

 この極端な振幅(スイング)こそが、白井紫影という怪物を育てる揺り籠であったのかもしれない。


 然(しか)るに、ここに一つの戦慄(せんりつ)すべき謎が残る。

 かくも鋭敏な感覚と、死線(デッドライン)を見極める眼力を養ったはずの白井の背後を、あの教室において音もなく、完全に取ってみせた寺石とは、一体何者なのか?

 その問いへの答えは、未だ闇の中である。

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