零時までのライラーティ -夢遊の男装姫と愛を信じない旦那様は、夜の間だけ恋をする-

木月陽@書籍発売中

プロローグ 異郷からの使者

 吐く息の分だけ、身体の中から熱が消え去っていくような気がした。

 きっとこれから自分は凍りついてしまうのだろう。ほんの少し残っていた心もすべて冷たくなって、中身のない透明な氷が後には残る。


「セレーネ・ディ・イリオステ。貴様との婚約を破棄する」


 目の前に立つ男の口から放たれる言葉を、セレーネはすっと背筋を伸ばしたまま受け止めた。その頬には一筋の涙も伝わず、その唇から理由を問う声が溢れることもない。


 氷の彫刻のように佇む彼女を押し潰そうとするかの如く、男はさらに朗々と声を張った。


「このフェルナヴィア王国の王太子たる俺の婚約者として、貴様はもはや不適格だ。今ここで一つひとつ挙げてやってもいいのだぞ。これまでの貴様の所業すべてを」


 セレーネの背後で、声を抑えたざわめきが空気を揺らす。わざわざ諸侯の集まる晩餐会を宣告の舞台に選んだのは、彼女の評判を一息に地に落とすためなのだろう。最初からそのつもりだったかのように、今日の招待客には噂好きで有名な顔ぶれが多い。五日と経たず、この夜のことは中央の貴族たちにあまねく知れ渡るはずだ。


「挙げてやってもいい」と言った割に、彼は――王太子ロランド・ディ・フェルナヴィアは、セレーネの反応も待たずに言葉を並べ立てる。


「婚約者として寄り添う務めも果たさず、立場におごって遊興の限りを尽くした」


(私があなたどころか実の家族とも会わせて貰えず、ひたすら妃教育を強いられてきた間、あなたは何をしていたかしら)


「我儘を極めて浪費を重ね、公国の財政を傾けた」


(誰から聞いたのでしょう。私は浪費をするどころか、自由にできるものなんて何も与えてもらえなかった)


「果ては〈イリオステの聖女〉としての祈りの務めを放棄し、全ての負担を異母妹のカサンドラに押し付けていたという話ではないか!」


 まって!とセレーネではない誰かが叫ぶ。まなじりを吊り上げる王太子のもとに、計ったように完璧なタイミングで一人の少女が駆け寄った。「ロランドさま」と訴える声は甘く、ダイヤモンドを散りばめた髪は蕩けるような蜂蜜色だ。

 形だけの憂いを顔に貼り付け、当然のように彼の隣に寄り添った少女の姿を見て、セレーネの心はいよいよ温度を失っていった。


(みんな、あなたが彼に吹き込んだのね――カサンドラ)


「そんなに厳しくねえさまを責めてはいやよ。あたしはもう気にしてなんかいないわ。姉さまが風邪をひいたと言うから、あたしが何度も代わりに神殿を巡ったことだって……姉さまの言葉がぜんぶ嘘だったとしても、あたしの行いがフェルナヴィアを守ることに繋がったならいいの」


 少女は目を潤ませながら、これみよがしにロランド王太子へしなだれかかる。セレーネは浅く息をして、腕を絡める二人を見ていた。


(私が人の多い街の近くに巡礼する番になると、決まってあなたは私を部屋に閉じ込めた。人から称賛を浴びられる仕事ばかり、あなたは私から横取りしてきたわね)


 今ここで全てをロランドに告げれば、何か変わるだろうかとセレーネは思う。そしてすぐに否定する。……無駄だ、と。

 この王宮では、セレーネの声は誰にも届かない。身分の低い側室の母から生まれ、その母もずっと前に亡くした彼女の立場は、あまりに弱い。

 それでも誠実に勤めを果たしていれば、いつかは報われるかもしれないと願っていたが――それも所詮、儚い願いだったようだ。


「カサンドラ、お前の優しさは美徳だが、今は通すべき筋を通さなければならないよ」


 ロランドはそう言って、自分の腕を抱き込むカサンドラの手をそっと外す。そして一際声を大きくし、野次馬貴族たちに宣言した。


「皆、よく聞け。この慈悲深くも勇敢な少女が告発してくれた、セレーネという女の最大の罪を。この者にはそもそも、聖女に欠かせない浄化の力がほとんど存在しなかったのだ。肩書が持つ権威をほしいままにするために、彼女はこの国を欺いていた!」


 どよ、と人々がざわめく。これまでずっと表情を変えなかったセレーネの口から、初めて「……ああ」と声が漏れた。


「妹のカサンドラが持つ絶大な力に目をつけたこの女は彼女の功績を掠め取り、さも自分に強い力があるかのように振る舞っていた。知っての通り、聖女という役目は我が国の成り立ちにも関わる尊きもの。その力を持たぬ者が詐称するなど、あってはならないことだ」


 ロランドの言葉と貴族たちの囁く声が、セレーネを四方八方から責め苛む。彼女は一歩も動かない。凍りついた胸の奥に生まれた氷が、頭からつま先までを刺し貫いてしまったようだった。


(どこまでも私から奪わずにいられないのね)


 四方を有害な瘴気に脅かされるこの国で浄化の力を見出された女子には、〈聖女〉として定められた時期に巡礼に赴く義務があった。しかしどの巡礼でどれほどの効果が出たかを精密に測る技術は、まだこの世に存在しない。

 だからカサンドラは、虎視眈々と狙っていたのだろう。セレーネこそが自分の功績にただ乗りしていたということにして、彼女が生まれ持った素質すら我が物にできるその時を。


「何か申し開きはあるか」というロランドの声が、セレーネの心の表層をただ上滑りしていく。立場上はまだ婚約者であるはずのセレーネを諸侯の面前で責め立て、カサンドラと指先を絡めあう彼に、どんな言葉が通じるというのだろう。

 ロランドは一人合点したように頷いて、高らかに最終宣告を口にした。


「婚約の破棄だけでは報いとして不足――王国への背信とも言うべきその所業は、国外追放にも値する。フェルナヴィア王父上とイリオステ公の意見を仰いだ上でのことにはなるが、貴様には相応の処分が下るだろう」


 ロランドさま、そんな!と彼に縋るカサンドラの唇が、笑い出すのを堪えるように歪んでいるのをセレーネは確かに見た。正義の断罪者のような誇らしげな顔で胸を張る王太子を、セレーネはただ見ていた。


(もう、いい)


 自分の人生が自分のものだったことなど、一度もなかった。

 未来だってセレーネのものではなかった。

 最初から自分のものではなかったものが今更ずたずたにされて奪われたって、もう何も感じない。

 

(早く終わってしまえばいい……)


 ――その時だった。


「おや、晩餐会には遅刻したと思っていましたが、いい時に間に合ったようですね」


 長身の青年が、並んだ貴族たちの間を割って真っ直ぐにセレーネたち三人のもとへ歩いてくる。黒を基調にした質実な服装は、彼が貴族ではなく誰かの従者であることを物語っている。

 しかし、それでも人々が道を開けてしまうほど、青年に迫力を与えていたのは――フェルナヴィア中央では滅多に見ることのない、異国の血を感じさせる濃い肌の色だった。


「何者だ」

「シハブと申します。カルデサール辺境伯家の当主、マジュド・カルデサール様の使いとしてここに参りました」


 彼が口にした名に、周囲がざわついた。


「カルデサール」

「戦いばかりで貴族文化のひとつも知らない辺境の地」

「商人の真似事をして、東方の帝国に魂を売り払った家だろう」

「どうしてここに」


 思わぬ乱入者に、カサンドラも王太子も目を白黒させている。そんな二人に構わず、シハブと名乗った青年は澱みなく語り続けた。


「私はイリオステ公およびその御息女と、結婚の話をするために参ったのです。歴史ある公国の姫君と我らがカルデサールの若き主人、えにしを結ぶことでより良き未来を拓ければと。いやしかし、我があるじは慧眼だ――」


 そう言って彼が取り出したのは、各地の領主が正式な文書を取り交わす際に用いる書状だった。

 ただし、全く同じ形のものが二枚。


「セレーネ様にはすでに婚約者がおられるのですから、カサンドラ様宛ての書状を第一に用意するべきだと思っていたのに。まさかこちらの出番がなくなり、主人の予言通りこちらこそが真に必要になるとは」


 一方の書状を、シハブは大仰な動作で仕舞い込んだ。そしてセレーネに向き合い、うやうやしく従者の礼をする。


「セレーネ・ディ・イリオステ様、いかがでしょう。フェルナヴィアで最も早く日が昇る地、カルデサールの手を取っていただくというのは?」

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