第二章 失われていく明日
砂漠へ駆け込んだ時点で、学校はもう“場所”ではなくなっていた。
背後に見えるはずの校舎は、傾いたコンクリートの影となり、崩れ落ちる柱の音だけが、乾いた空気に吸い込まれていく。
アキラは息を荒くしながら足を止めた。
四人は――全員ついてきている。
その事実が、奇跡のように胸へ重くのしかかった。
「……大丈夫? 誰か、けがしてない?」
シズカは袖をぎゅっとつかんでうなずき、タイチはまだ泣いているものの、声はかすれていた。
クルミは砂を払って深呼吸をし、ルイはアキラと校舎の影を何度も見比べていた。
「せんせい……戻らないの?」
それは問いというより、ただの確認だった。
期待の色は、もうどこにもない。
戻れるはずがなかった。
戻れば、扉を破ってきた“あれ”がいる。
大人たちが引きずられた場所を、再びのぞき込むことになる。
アキラは首を振れない。
子どもを怯えさせたくないからではない。
言葉にした瞬間、本当にすべてが終わってしまう気がしたのだ。
「……今は、離れたほうがいい。安全な場所……どこかにあるはずだ」
自分でも、頼りない言葉だと思った。
“安全”という響きが、この世界でどれほど空虚か分かっていた。
それでも四人は反論せず、静かにうなずいた。
◆◆◆
太陽は容赦なく影を引き伸ばし、歩くだけで体力を奪っていく。
靴の裏には砂がまとわりつき、かかとが痛む。
水はない。
ランドセルには教科書とノート――何の役にも立たない“日常の残骸”だけが詰まっていた。
「のど……かわいた……」
タイチのか細い声が、乾いた空気に溶けるたび、アキラは胸の奥をつかまれるような痛みを覚えた。
この世界には、水道も、コンビニも、もう存在しない。
日が傾き始めた頃、砂の影に紛れるように小さな岩場を見つけた。
五人はそこに身を寄せ、吹きつける風の冷たさに肩を震わせた。昼の熱が嘘のように消えていく。
「さむい……」
シズカが震えると、アキラは迷わず上着を脱ぎ、彼女の肩に掛けた。
「アキラが寒くなるよ……」
「平気だよ。ほら、みんなでくっついたほうがあったかい」
四人は自然と寄り添い、中心にアキラが挟まる形になる。
小さな体温が腕に伝わり、それが妙に心を落ち着かせた。
夜空は驚くほど澄んでいて、星が砂の上へ降りてくるように見えた。
——どうして、こうなったんだろう。
問いは何度も浮かんでは沈んだ。
朝まで続いていたはずの“いつもの明日”は、どこへ消えてしまったのか。
◆◆◆
翌日も、旅は続いた。
砂漠を進むうちに、いくつも“残されたもの”を見つけた。
足跡。
途中で折れた机。
砂に埋もれたタブレットの破片。
そして――黄色い帽子。
一年三組の子のものだった。
「……これ、ひなのの……」
シズカの声は風にさらわれるほど小さかった。
胸がきしむ。言葉が出ない。
近くには、ウサギのプリントがついたランドセルカバーの切れ端が落ちていた。
それ以上は何もなかった。
“無事の証拠”ではなく、
“無事ではない証拠”だけが、砂に混じっていた。
「行こう」
アキラは絞り出すように言った。
四人は、何も聞かなかった。
聞くまでもなく、理解していた。
さらに歩いた先で、ふらつく影が見えた。
人のような、影のようなものが、砂を引きずりながら歩いている。
「人だ……!」
ルイが声を上げかけた瞬間――影がこちらを振り返った。
顔がなかった。
溶けた皮膚が砂に混じり、腕はありえない方向へ折れ曲がっている。
異形。
そいつは喉の奥から搾り出すように声を上げた。
「……た……す……け……」
それは、確かに“人間の声”だった。
「いや……いやだ……!」
タイチが泣き出す。
アキラは息を呑んだ。
その声に覚えがあった。
名前までは出てこない。
でも、間違いなく、どこかで聞いた声だった。
——人間だったんだ。
異形は、級友や先生の“成れの果て”。
助けを求める声が、ひどく遅れて胸に刺さった。
アキラは四人の手を掴むと、反射的に走り出していた。
影は追ってこなかったが、止まる勇気はなかった。
◆◆◆
日暮れ、砂丘の向こうに青みを帯びた金属の塊が見えた。
近づくと、それは校舎の一部だった。
ひしゃげた階段、折れた手すり、黒板の破片。
「もどってきた……?」
タイチの声には、かすかな希望が浮いていた。
だがその希望は、一瞬で地面に落とされた。
崩れ残った校舎の中にいた子どもたちは、飢えに狂い、目だけがぎらぎらと光っていた。
廊下の奥から聞こえる。
「き……た……たべる……」
それはもう、子どもの声ではなかった。
アキラは反射的に四人を庇った。
「逃げろ!」
しかし逃げ道の方からも足音が近づく。
鬼化した子どもたちが、飢えた目でアキラたちを“食べ物”として見つめていた。
追い詰められたその瞬間、砂の向こうから異形の影がいくつも現れた。
アキラの脳裏にひとつの考えが弾ける。
——ぶつける。
鬼化した子どもたちと異形が衝突するよう位置を調整し、五人は一気に側面へ逃げた。
すぐに、肉のぶつかり合う濁音が響いた。
どちらが勝とうと関係なかった。
その隙に、走るしかなかった。
砂漠の闇へ駆け込みながら、アキラは悟った。
もう、学校は“帰る場所”じゃない。
守れなかったものが、またひとつ増えた。
◆◆◆
夜。
五人は砂丘の影で肩を寄せ合って座った。
クルミがぽつりと言った。
「アキラ……もう、むりなんじゃない……?」
怒りでも泣きでもなく、ただ事実を置くような、静かな声だった。
アキラはうつむき、かすれた声で答えた。
「……分かってる。でも、行かなきゃ。行かなきゃ……四人を守れない」
“守る”という言葉が、ひどく軽く感じられた。
そんな資格が自分にあるのかと、自問する。
その袖を、タイチがそっと掴んだ。
「ぼく……アキラせんせい、いないと……もっとこわい。だから……いく」
シズカもうなずき、ルイも「おれも」と言った。
続いてクルミが、決意のこもった声で言う。
「行くよ。アキラが立てないときは……わたしたちが引っぱるから」
アキラはゆっくり顔を上げた。
月明かりの中、小さな四つの影が並ぶ。
頼りないようでいて、いまの世界でいちばん強い光に見えた。
アキラは深く息を吸い込んだ。
そして、小さく、しかししっかりとした声で言う。
「……ありがとう」
五人は再び夜を迎えた。
星は凍るように冷たく、風は砂を運びながら遠くへ流れていく。
明日が本当に来るのか。
その答えは誰にも分からない。
それでも、彼らは眠った。
互いのぬくもりに寄り添いながら。
“明日”という名を失った世界で、
今の一瞬を抱きしめるように。
その夜からアキラの旅は――
“ひとりで守る旅”ではなくなった。
失われていく明日の中を、それでも歩く旅へと変わったのだ。
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