白景

小狸

掌編

 初雪であった。


 寒い日が続く昨今である、私の住む地域だとそろそろかな、と思っていた矢先のことである。仕事の帰りに地面を見ると、ほんのりと白みを帯びていた。降っていたのだろう。


 昔は大雪になると外に出てはしゃいだものだったけれど、今はそうでもない。


 駐車場の雪かきがまず手間であるし、気持ちは分かるが雪で興奮する子どもたちを何とかなだめるのに、毎年必死である。それに中途半端な雪は、降った次の日がまた危険なのだ。雪かきをされた状態だと路面が凍結し、車や人が滑りやすくなる。そんな中で子どもたちが登下校をするというのだから、一人の親としては、心中穏やかではない時期もあったが今は慣れた――とは言いつつも、ちょっと心配な面も否めない。


 日常にも、些細だが差し障りが出る。


 暖房やストーブを付けていても、足許に冷気が凝る。


 防寒着を余儀なくされる。


 職場は暖房が効いているのであまり問題はないけれど、帰り道などはもう大変である。


 雪は、降っている様子、積もっている様子を観賞する分には美しい。


 ただ、地面に積もった上を歩くとなると、そうもいかない。


 解けるのである。そして土と混じり、泥濘ぬかるみのような状態になる。


 こうなると雨よりも悲惨で、子どもたちの待つ学童に寄る頃には、靴下まで寒気と水気が貫通してくる。


 不思議なものだな、と思う。


 もう何百何千という創作家たちが、時に絵に描き、時に文につづり、時に詩にしたためているこの雪景色は、こんなにも美しい。その感性は理解できる。


 ただ、実際に相対してみると、途端に現実に帰ってきてしまうのである。


 あれ、美しい、だけじゃなかったの? となる。


 存外、世の中というものは、そういうことであふれている。


 物事の一面だけ捉えて、おいしいところだけを見て、感動したり悦に入ったりするのは簡単だが、実際自分がそこに直面するとなると、途端にへきえきしてしまうのである。


 しかしそれは、当然のこととも言える。


 視点――「私」を司っている脳髄は一つしかいないのだから、いくら安全圏から多角的な視点を持とうとしても、それは同時並行的に物事を見ることができているわけではない。多くある面の一つずつを、高速で視点を入れ替えて見ているに過ぎないのである。現場でしか分からないこと、実際にその物事という空洞の中に入って、全方面から洗礼を浴びなければ分からないこと、というのも、あると思うのだ。


 雪が、美しいだけではないように。


 泥のように地面をへばりついていることが、あるように。


 ひょっとしたらそれが、私たちが小さいころから言われてきて、また子どもたちにもいつか突きつけねばならない「現実は厳しい」ということの本質なのかもしれない。


 実際そうだ。


 世の中は、綺麗事だけではない。


 汚いこと、みにくいこと、眼を背けたくなるくらい見たくないことだって、散々に経験する。


 私だってそうだった。


 それでも。


 雪の美しさを表現する創作者は、これからも現れ続けるだろう。


 それはきっと、「厳しい」だけではない――現実の優しさ、なのかもしれない。


 私は、そう思いたい。




(「びゃくけい」――了)

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白景 小狸 @segen_gen

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