【第3話:三十秒の鬼ごっこ】

リリアの姿が、風のように消えた。


(うそだろ……!? 今の瞬きの間に!?)


『カイ、考えるな。走れ!』


ノクスの声に背中を押され、カイは全力で駆け出した。

下層街の入り組んだ石畳を蹴る。

曲がり角を飛び越える。


だがそのたびに、背後で《空気が裂ける音》がした。


ヒュッ――。


「ひぃっ!? なんか飛んできた!?」


壁に目をやる。

リリアの投げナイフが、カイの耳の産毛を剃るような距離で深々と突き刺さっている。


「殺す気かあああ!!?」


『違う。外している時点で、彼女は《お前の逃げ方》を見ている』


「見られたくねぇ!!」


ノクスが冷静に続ける。


『いいかカイ、あの剣士は化け物だ。

身体能力での勝負は捨てろ。

正面からは絶対に逃げ切れない。

だが――《予測不能な動き》には弱い』


「そんなアクロバティックなこと無理だよ!?」


『お前の頭ならできる。

街路、風、物陰……全部を《逃げ道》に変えろ』


ノクスの外殻が淡く光り、カイの視界が一変した。

無数の赤いレーザーラインが浮かび上がった。

カイは息をのみ、周囲を一瞬で観察した。


右──夕暮れの光に照らされた布が、軒先で揺れている。

左──修理待ちで放置された壊れた馬車の車輪。

上──腐りかけて今にも崩れそうな屋根板。

足元──石畳の微妙な段差と水たまり。


全部が線となって脳内に繋がった。


(……行ける!!)


カイは走りながら干されたシーツを力任せに引きちぎる。

曲がり角へ飛び込むタイミングに合わせて、後方へ投げつけた。


ふわり、と白い布が路地いっぱいに広がり、追撃してくるリリアの視界を一瞬だけ遮る。


『0.3秒稼いだ。悪くない』


次に、壊れた馬車の留め具を蹴り飛ばす。

バランスを失った車輪が、ガラガラと音を立てて路地を転がり、道を塞ぐ。


「……ッ!」


背後でリリアが舌打ちし、わずかに速度を落とす気配がした。


『0.6秒稼いだ』


最後に、腐った屋根板へ壁蹴りで飛び乗り、わざと踏み抜いて大量の土埃を降らせた。


ドシャァァァァン!!


視界不良の煙幕が路地に充満する。


『今ので2秒稼いだ』


「はぁ、はぁ、はぁ……!」


心臓が破裂しそうだ。

だが、これで三十秒近く稼げるはずだ。


『カイ、気をつけろ。上だ』


「え?」


見上げると、土煙を突き破って、金色の影が落下してきた。

リリアだ。

彼女は煙幕などものともせず、屋根の上を跳躍して先回りしていたのだ。


ピタ。


冷たい感触が、カイの喉元に触れた。

リリアの剣先が、皮膚を切り裂く寸前で止まっている。


「三十秒。確かに逃げ切ったわ。……ギリギリだったけどね」


カイは尻餅をついたまま、放心状態で彼女を見上げた。


「ま、まじで……生きてる……?」


リリアは、観察するようにカイを見下ろした。

その瞳には、侮蔑ではなく、奇妙な興味の色が宿っている。


「あなた――逃げるのは天才ね」


「褒められてる気がしないんですけど……」


「褒めてるわよ。こんなみっともない逃げ方、普通の冒険者ではできないわ」


リリアは剣を鞘に納めると、静かに告げた。


「――カイ。あなたを《護衛対象》にしてあげる。

……逃げるなら、死ぬ気で走りなさい……ですわ。絶対!」


「は??? 今、変な語尾じゃなかった?」


「うるさいわね! 気合を入れてあげたのよ!」


リリアは頬を少し赤らめながらも、真剣な眼差しに戻った。


「その黒い魔具を巡って、剣の都はもう動き始めている。

あなた一人で逃げ切れる規模じゃない」


「だから私が見定めてあげる。

その魔具とあなたの《価値》を」


そのとき、上層街の方角から腹に響くような爆音が轟いた。


ドォォォン!!!


王城の方角から黒煙が立ち上っている。


リリアの表情が一瞬にして険しくなり、爆炎の上がる方角を睨みつける。


「……来たわ。《剣の都》の追手が。

早いわね、思っていたよりもずっと」


──────

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