第13話 依頼者・水城遥
試験的立ち会い――
その言葉は薄い紙切れのように頭の中に貼りついていた。
意思表示をしたとはいえ、何が始まるのか、どの程度踏み込むのか、具体的な像はまだない。
それでも、次に会うべき相手がいる。
その名前を聞かされたのは二日後のことだった。
◇
協会の簡易連絡先からメッセージが届いたのは夕食後。
画面にはひとつの名前が表示されていた。
《依頼予定者:水城遥》
年齢は三十前後。
残されたメッセージにはその程度の情報しか載っていなかった。
ただ一文だけ、目に引っかかる内容があった。
「再会したい相手:植物状態の弟」
死んだわけではない。
しかしもう戻ってこないかもしれない境目にいる人間。
あのトンネルの灯は、亡者にしか届かないはず。
ならば――どうして彼女が協会に依頼を?
疑問が喉元に引っかかったまま、画面を閉じた。
◇
翌日、約束時間少し前に着くと、湖面には薄い風の筋がいくつも走っていた。
水鳥がゆっくりと弧を描きながら滑る。
どこか遠い景色のようで、現実の音が霞んで見えた。
ベンチに腰掛けると、結がすでにそこにいた。
「来ていただいて、ありがとうございます。」
彼の声は以前より細い。
その体の影がまた少し縮んだように見えるのは、気のせいではないだろう。
「今日の方は、弟さんがいまも生きているそうです。」
「それで…協会に?」
「植物状態という境目は危険です。」
結は穏やかに続けた。
「灯に触れると、心が“どちら側にも帰れなくなる”ことがある。
だからこそ、儀式の前段階で方向を見定めたいとのことでした。」
死者でも、生者でもない。
語り口には慎重さが滲んでいた。
そこへ、足音が近づく。
ベージュのコート、肩までの黒髪。
歩みはためらいがちで、それでもこちらを真っ直ぐに目指している女性がいた。
「水城遥です。…今日は来てくれて、ありがとうございます。」
声は擦れていた。
眠れない夜を越えてきた人の声だ。
手を軽く握って礼を言うと、遥は湖面に視線を落としたまま静かに話し始めた。
「弟は、事故で意識を失ってから一年半になります。
心拍はあるし、呼吸もある。でも…呼びかけても返事がない。
“もういない”と思いたくないのに、毎朝確認するたびにその実感だけが増えるんです。」
言葉が風にのって揺れる。
湖の水面に落ちた影のように、静かで深かった。
「でも私は、ちゃんと聞きたいんです。
弟が“いま”どんなふうに存在しているのか。
もしそこに意志が残っているなら…その声を知りたい。」
死ではなく、停止。
その曖昧な境界に、灯はどこまで触れられるのか。
「今日は儀式ではありません。」
結が淡々と言う。
「弟さんと直接会うわけではなく、扉の前に立つだけ。
もしあなたの気持ちが乱れるようなら、私が止めます。」
「止められたら…私は前へ行けない?」
「いえ。後退するという選択は“生の側にとどまる”ということです。」
結の声は冷えた水のように透明だった。
「あなたが望むなら、前にも進めます。
ただ、そのときには代償が必要になるかもしれない。」
遥のまつげが一度だけ震えた。
それだけで、気持ちの温度が変わるのが分かった。
「美羽さん。」
結が私を見た。
「あなたの役目は“押すことでも止めることでもない”。
ただ、隣に立つこと。揺れを見届けること。」
第三の位置――
きっと決めるのは依頼者自身。
私はその周りを満たす空気の一部になる。
「遥さん、止まってしまいそうならここでいい。
でも...もし歩けそうなら、一緒に前へ進んでみませんか。」
言葉が自然に口から出た。
遥は湖面から視線を上げ、私の手元を見て、そして結を見た。
「……はい。行きます。」
ためらいはあった。
けれどその奥に、生の側へしがみつきたい意志も見える。
これは儀式ではない。扉の前まで行く練習。
だけど、その一歩にも傷は伴う。
◇
湖を抜け、バスに乗り継ぎ、午後の薄い光が落ちる山道へ入る。
枯れ葉を踏む音だけが、会話の代わりに空気を満たした。
遥は一言も口を開かない。
代わりに、両手をぎゅっと握りこんでいる。
爪が掌に食い込んで白くなっていた。
「もし苦しくなったら言ってください。」
私はそっと声をかける。
「……苦しくないわけじゃないです。
でも、止まりたくはないんです。」
その答えに、言うべき言葉はなかった。
同行とは、指示でも助言でもなく“同伴”なのだと理解する。
トンネルの入口が見えたとき、遥は小さく息を吸った。
目の奥が揺れている。
まるで消えかけの灯火に息を吹きかけるような繊細な動き。
「ここが…。」
「戻れないと感じたら、止まりましょう。」
結の言葉は柔らかいが確かな重みがあった。
遥は一歩踏み出そうとした。
その瞬間――
風もないのに、ランタンの炎が細く伸びた。
まるで遥の影と呼応するように。
遥の眼差しがわずかに揺れ、空気がきしむ。
「……弟の声が、した気がする。」
無意識の呟き。
足元の砂利がひと粒だけ転がる音さえ鮮明に響いた。
「聞こえた気がするだけかもしれません。
本当に触れれば、もっと深く揺れます。」
結が慎重に告げた。
「深く揺れたら戻れなくなる?」
「ときとして。」
短い返答が、現実の輪郭を冷たく提示する。
◇
光にも闇にも踏み込まず、境の上だけに佇む。
その横で私はただ静かに見守る。
止めない、導かない。
ただ隣で、揺れが形になるのを待つ。
遥の唇がかすかに動いた。
「ここまで来たのに、声を聞く勇気が…まだない。」
その吐息は弱くも確かで、静かに夜へ吸い込まれた。
そして彼女は一歩、後ろへ下がった。
逃げではなく、選択として。
「..........戻ります。」
遥は言った。
その表情は涙を含んでいたが、崩れ落ちてはいない。
空気の層が薄く変わったように、わずかに前向きだった。
湖で会ったときより、呼吸が深くなっていた。
「今日は帰ります。でも…また来てもいいですか?」
問われる視線をまっすぐ受け止め、私はゆっくり頷いた。
「そのために私はここにいます。」
遥の目に微かな光が宿る。
帰り道、彼女は一度も下を向かなかった。
◇
玄関で靴を脱ぎ、部屋の灯りを落とす。
今日触れた揺れが少しずつ沈んでいく。
誰かの隣に立つことは、まだ怖い。
それでも、逃げる理由より先に、歩きたい気持ちがある。
その微かな灯りは言葉にならないまま
小さいけれど確かに、私の中で灯っていた。
灯守 (あかりもり) ねこの真珠 @nekonoshinjyu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。灯守 (あかりもり)の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます