第12話 違う角度
翌日、目覚ましの音がやけに遠く聞こえた。
布団から起き上がると、体はそこそこ元気なのに、頭のどこかがまだ夜の続きを引きずっている。
机の上には、昨夜広げたままのノートとペンが置きっぱなしになっていた。
何かを書こうとして、そのまま止まったらしい。
ページには、細い線がひとつだけ引かれている。
文字でも図でもない、意味を持たない線。
「……何これ。」
自分で描いたはずなのに、他人の落書きを見ているような気がした。
その線を目で追うと、体の中心をかすめるように小さな波紋が生まれた気がした。
あの男の叫び、結の言葉。
「あなたが怖いんです」と告げられた瞬間。
怖い、と言われて、私は少しだけ、救われたような気もしていた。
あの場所で感じた自分の感情が、ただの気の迷いでも、無責任な好奇心でもないのだと認められたようで。
けれど同時に、その評価の先にあるものを考えると、胃の奥がゆっくり沈む。
──灯の側に立つ人は、いつか必ず、自分の灯を削ることになります。
その言葉だけが、肺の裏側に薄く刺さったまま抜けなかった。
◇
日々の業務は止まってくれない。
朝の連絡をさばき、資料を整え、上司の世間話に短く相槌を返す。
ただ、ふとした瞬間に「もし今、ここで誰かが大切な人を失ったら」と考えてしまう自分がいた。
そんな想像をしても何も変わらないことは分かっているのに、頭の隅で勝手に場面が組み上がっていく。
声を枯らして泣く人。
何も言えず近くに立つ人。
ただ見守るしかない人。
その中で、自分がどこに立つのかを思い浮かべると、
なぜか、誰かのすぐそばに身を置いている姿ばかりが浮かぶのだった。
昼休み、同僚に誘われて社食に向かう。
他愛ないドラマの話題に笑って相づちを打ちながらも、意識の半分は別の場所をさまよっていた。
「佐倉さん、顔色よくなったよね。前より。」
「え?」
「なんか、前はもっと疲れてるっぽかったからさ。最近のほうが話しかけやすいかも。」
何気ないひと言だったけれど、肩の力がふっと抜けた。
玲子や結と関わった時間が、自分の表情にまで影響しているのだとしたら、それは悪くない変化だ。
同僚が席を立ったあと、トレイを片づけようとしたとき、ポケットの中でスマホが震えた。
画面を見ると、「非通知」の文字。
「……もしもし。」
『佐倉さんですか。お仕事中でしたか?』
聞き覚えのある落ち着いた声。
香澄だった。
「あ、いえ。休憩中なので大丈夫です。」
『突然すみません。協会のほうで、新しい依頼がありまして。
灯守の結が、あなたに一度相談したいと言っています。』
「私に……ですか。」
握ったスマホから熱が掌に滲む。
『今すぐに、という話ではありません。
ただ、前回の件以降、あなたの存在を前提に考えているようです。』
「前提」という言葉が妙に重く聞こえた。
『もちろん、お断りいただいて構いません。
あくまで灯守本人の希望ですので。』
「……話だけ、聞かせてください。」
言葉より先に、気持ちがすっと前に出るように拡がった。
香澄は短く息を吸ってから、「ありがとうございます」と言った。
『場所は前と同じ旧道ですが、再会の儀ではありません。
まだ決行するかどうか、協会としても判断中です。
ただ、その前に、灯の場を違う角度から見る人の意見が欲しい、とのことでした。』
「違う角度……。」
『依頼者と灯守、そのどちらでもない立場で、という意味だと思います。
詳しくは、実際に会ってお話しください。』
通話が終わっても、しばらくスマホを握ったまま立ち尽くした。
社食のざわめきが、急に遠くなったように感じる。
──まだ、ここから引き返せる。
そう言い聞かせる声と、
──行かないという選択肢が、本当にあるのか。
と問う声が、頭の中でせめぎ合った。
自分の中に集まったざわめきは、もう「小さい」と呼べない大きさになっていた。
◇
約束の日は、思ったより早くやって来た。
定時で仕事を切り上げ、コートを羽織る。
鏡の前でマフラーを巻きながら、自分の顔をじっと見つめた。
あの夜、父と会いに行く前ほど取り乱してはいない。
玲子と向かったときよりも、少しだけ自分の足で立っている感覚がある。
それでも、不安が消えたわけではなかった。
駅からバスに乗り、旧トンネルの手前の停留所で降りる。
見慣れてしまった道を歩きながら、ふと空を見上げると、雲の切れ間からうっすらと月がのぞいていた。
トンネルの近くまで来ると、結の姿がすぐに見えた。
いつもの場所。足元の小さなランタン。
ただ、以前よりもコートの中の身体が薄くなっているような気がする。
「佐倉さん。」
私を見つけると、結は軽く会釈をした。
その顔には、少しだけ安心したような影が差した。
「お忙しいところ、すみません。」
「いえ。……話があると聞いたので。」
近くまで行き、並んで立つ。
トンネルの奥は、相変わらず何も見せてくれない暗がりのままだ。
「この前の方……大丈夫でしたか。」
前に遭遇した男性のことがどうしても気になっていた。
結は一瞬だけ目を伏せ、それから静かにうなずいた。
「少なくとも、今のところ、この場所には来ていません。
それだけでも、良かったのかもしれません。」
「……そうですね。」
「今日は、その方のことではないのですが。」
結はこちらを向いた。
「協会のほうから、新しい依頼の話が来ています。」
「新しい……。」
「まだ詳細は決まっていません。
ただ一つだけ、すでに許可が降りていることがあります。」
結はランタンを見下ろす。
炎がゆっくりと伸びたり縮んだりしている。
「試験的な立ち会いです。」
「立ち会い……?」
「本番の儀ではなく、その前段階。
依頼者がこの場所に来たときに、どのように心が揺れるか。
灯ではなく、手前の段階で止めておき、反応を観察する、という試みです。」
「その立ち会いに、私を……?」
「はい。」
「協会は、あなたを“第三の位置”として見ています。」
「第三……。」
「死者を求める側でもなく、灯を扱う側でもない。
その両方に触れたうえで、どちらにも偏りすぎていない人。」
自分がそんなふうに分類されていることに、少しだけ奇妙な気分になる。
「私は、あなたにその役割を頼むべきかどうか、まだ迷っています。」
「前にも言いましたが、あなたのような人は、深く入り込みすぎる危険があります。
それでも、ここに立ちたいと思うのかどうか……それを確かめたかった。」
冷えた風が通り抜けた。
犬の鳴き声が遠くで混ざる。
「……怖くないかと言えば、嘘になります。」
言葉が喉の奥でたゆたう。
すぐに落ちそうで落ちない感覚。
「でも、この場にひとりで向き合う人を見ていると……
隣に誰もいない状況のほうが、よほど怖い気がするんです。」
男の姿が思い浮かぶ。玲子の震える肩も。
父と再会したときの自分の背中も。
「灯を使うかどうかは別として、
“ここに来ること自体”がどれだけ力を消費するか、私は知ってしまいました。
だから……もし、そこでできることがあるなら、やってみたいと思ってしまうんです。」
言葉を重ねるほど、みぞおちの奥が熱っぽく脈打つ。
それはもう、ただの予感ではない。
自分の中に根を張ろうとしている何かだった。
結は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
そして、少しだけ安堵したような表情で目を開ける。
「……やはり、そうおっしゃると思いました。
あなたがどちらへ歩いていくのか、私はずっと見ていましたから。」
柔らかいが、どこか諦めを含んだ笑みだった。
「灯の場に二度足を運び、他人のためにここに立ちたいと言う人は多くありません。
協会があなたに興味を示すのも、分からなくはない。」
ランタンの炎が、ふっと揺れた。
その瞬間、横隔膜の近くで小さな波が跳ねる。
「……でも、私は協会の人間ではないので。」
「あなたを単なる“適性”として見ることはできません。
佐倉さんがここに立つことで、何を失い、何を得るのか。
それを、できる限り見届けたいと思っています。」
「だからこそ、問い直します。」
「試験的な立ち会いであっても、それは、こちら側に一歩踏み込むことになります。
依頼者の感情をまともに受け止めれば、あなた自身も揺らぐ。
それでも構わないのかどうか。」
風が吹き抜け、砂利が鳴る。
体幹の奥で、答えの輪郭がじわりと膨らんだ。
怖い。
でも、その怖さと並んで立っている感覚がある。
「……構わない、と断言はできません。」
喉がカラカラに乾いていた。
でも、言葉を止めることはしなかった。
「揺らぐと思います。きっと、何度も。
でも、それでもここに立っていたい、と思ってしまっている自分がいるのも確かで。」
手の中央に置いた熱の脈動で、自分の存在を確かめる。
「それが、正しいことなのかどうかは分からないです。
ただ、“逃げたくない”と感じているのは本当です。」
結は、その言葉をじっと聞いていた。
しばらくしてから、ゆっくりと頷く。
「……分かりました。」
ランタンの炎が、ひときわ静かに燃える。
「協会には、あなたが参加することを前提に話を進めると伝えます。
ただし、私からも条件があります。」
「条件?」
「何かあれば、必ず私に話してください。
ここで見たこと、感じたこと、怖くなったこと。
内側で揺れたもの全部。
胸の揺らぎをひとりで処理しようとしないでください。」
「胸」という音が喉を通る前に、
私はその意味を脇腹の奥に吸い込むように受け取った。
「……分かりました。」
「これはお願いでもあり、お願い以上のものでもあります。」
結は穏やかに微笑んだ。
「灯守は、灯の扱い方だけでなく、灯に触れた人の心も見なくてはなりません。
あなたがここに立つなら、私はあなたの心も、できる限り見守ります。」
それは、奇妙な安心感を伴う約束だった。
同時に、逃げ道がひとつ減ったような感覚もあった。
体のどこか深い場所で、揺らぎがまた形を変えた。
今度は、細い線が少し太くなったような、そんな感覚だった。
◇
その夜、家に帰り、コートを脱いでソファに座る。
部屋の明かりを少し落とし、静けさに耳を澄ませる。
心臓の鼓動。
冷蔵庫の小さな音。
外を走る車の気配。
それらとは別に、身体の中心近くで、火の粉が弾けるような微かな気配がした。
目を閉じると、暗闇の奥に薄い光が見えた気がした。
ランタンとは違う、もっと内側からにじむような光。
「……大丈夫。」
自分にそう言い聞かせる。
誰に向けた言葉なのか、自分でもよく分からないまま。
揺らぎは、もはや否定できない存在感を持ち始めていた。
それはまだ小さい。けれど確かに、ここにある。
その中心に、なにかの形が生まれようとしている。
灯守でも依頼者でもない場所。
そのあいだに立つ人間としての輪郭が、静かに描かれ始めていた。
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