第11話 二度目を望む者
香澄と会ってから、数日が過ぎた。
机の引き出しの中には、あの日もらった名刺がしまってある。
ときどき思い出しても、取り出して眺めることはしなかった。
それでも、紙の存在は意識の片隅にずっと居座っている。
玲子とは、メッセージのやり取りが続いていた。
仕事の愚痴や、スーパーで見つけたスイーツの写真。
以前の彼女からは考えられないような、ほんの少しくだけた内容も混ざるようになった。
『まだ泣く日もあります。でも、部屋のカーテンを開ける日が増えました。』
そんな一文が送られてきて、スマホを握る手にそっと力が入る。
あの再会は確かに意味があった。
そう思えるのは、私自身にとっても救いだった。
それでも、胸の内側では、別の波が小さく生まれていた。
──この先、自分はどこまであの場所に関わっていくのだろう。
その問いはまだ形にならないまま、薄い霧のように心の奥を漂っている。
◇
その日、仕事は早めに片づいた。
気づけばまだ外は明るく、時間にも余裕があった。
まっすぐ家に帰る代わりに、私は駅の反対側にあるバス停へ足を向けていた。
旧トンネルのある方角行きのバス。
あの場所へ行くつもりなどなかったはずなのに、運行表を見上げたとき、自分でも驚くほどすんなりと決めていた。
座席に座って窓の外を眺める。
街が少しずつ傾いていくように遠のいていき、代わりに木々と古い家々が増えてくる。
バスの揺れに合わせて、胸のあたりの小さな震えもリズムを刻んでいた。
終点の二つ手前で降りると、そこからは歩きだ。
前に玲子と歩いた道を、ひとりで辿る。
(ただ、話がしたいだけ。)
自分にそう言い聞かせながら、坂を上っていく。
結の顔が浮かぶ。
あの人の体調はどうなのだろう。
トンネルに近づくにつれて、空気の密度が変わる。
昼と夜の間に挟まれたような、曖昧な静けさ。
足元の砂利の音だけが、はっきりとそこにあった。
角を曲がった瞬間、遠くから聞き慣れない声が耳に飛び込んできた。
「ふざけるなよ。もう一度くらい、できるだろう!」
怒鳴り声。
その少し先に、人影が見えた。
トンネルの入口。
結が立っていた。その目の前で、中年の男性が肩を怒らせている。
私は反射的に歩みを緩め、距離をとって様子をうかがった。
「申し訳ありません。」
結の声は静かだ。
怒号を受け止めながらも、決して押し返そうとしていない。
「一人につき、一度だけ。それが決まりです。」
「そんな決まり、あんたらが勝手に作ったんだろう!
俺はまだ聞きたいことがあるんだ。あいつは何も言わずに死んだんだぞ!」
男性は顔を紅潮させて叫んでいた。
スーツはよれていて、ネクタイは緩んでいる。
目には涙とも怒りともつかない光が宿っていた。
「前回の再会で、あなたは彼女から“これからを生きてほしい”と言われたはずです。」
結は淡々と告げる。
「それはそれ、これはこれだろうが!」
男の言葉は乱暴でも、ただのわがままだけには思えなかった。
掴みどころのない悔しさや、行き場のない問いが、言葉の影にこびりついている。
「最後に、どうしてあんなことをしたのか。
事故なんかじゃない、あれは、わざとだ。
本当の理由を聞かなきゃ、俺は前に進めないんだよ。」
声が震えている。
足元を見たくなるような重さだった。
結は一瞬だけ目を伏せ、それから男性を真っ直ぐ見た。
「……お気持ちは分かります。
けれど、こちら側から無理やり引き寄せることはできません。」
「どうせ“決まりですから”だろ!」
男性は吐き捨てるように言い、結の胸倉を掴もうとした。
結は避けない。
細い身体がぐらりと揺れる。
思わず声を上げそうになったところで、男の手が途中で止まった。
結の背後で、ランタンが小さく鳴ったからだ。
淡い光が、まるで自律しているかのように揺れている。
風もないのに、ゆらりと炎が細く伸びた。
「やれるだろ。」
男はそれを見て、息を荒くした。
「こうして光ってるんだ。なら、呼べるはずだ。
頼む、もう一度だけ、せめて一回だけでいいんだ……!」
怒鳴り声が、いつの間にか懇願に変わっていた。
男は膝をつき、地面に手をついたまま、必死に頭を下げる。
その姿を見て、胸の奥が強くかき回されるような感覚が走った。
玲子も、少し違えばこうなっていたかもしれない。
私だって、あの夜、父にもう一度会えると言われたら、同じようにすがってしまったかもしれない。
結は小さく首を横に振った。
「これは、あなたのためでもあります。」
「何が俺のためだ!」
男の叫びが、トンネルの壁に跳ね返る。
「一度だけだからこそ、死者は帰ることができる。
何度も呼べば、いずれ彼らは“戻る場所”を失います。」
結の言葉は、静かなままだった。
「ここは、生きている人のための場所でもあるのです。
手放せない想いを、ようやく置き換えるための。」
男は顔を上げ、涙で濡れた目で結をにらんだ。
「嘘だ。あんたらは、きれいごとを言ってるだけだ。
管理だの、協会だの、そういうのが大事なだけだろ……!」
その瞬間、ランタンの光が不自然に揺れた。
まるで男の感情に引っ張られるように、炎が細く伸びてはねじれ、ひどく不安定な形になる。
結の顔色がさっと変わった。
「やめてください。」
低く、今まで聞いたことのないような調子の声だった。
「あなたの想いが乱暴な形でぶつかれば、向こう側も乱れます。
無理に扉を叩けば、中からも同じように叩き返される。」
結の額に、うっすらと汗が滲んでいた。
立っているだけで精一杯のように見える。
それでも、ランタンを手放そうとはしない。
「……あんたに何が分かる。」
男が低く呟いた。
「死んだやつを置いていく側の気持ちなんて、あんたに分かるもんか。」
「いいえ。」
結はきっぱりと否定した。
「分かります。」
その言葉は、静かに落ちた。
「私は、置いていく側でもあり、置いていかれた側でもありますから。」
男が顔を上げる。
結の瞳は相変わらず穏やかだが、その奥底で何かがきつく結ばれているのが分かった。
私も、その言葉の意味に、思わず息を詰めた。
男はしばらく結を見つめ、それから力なく笑った。
「……なんだよ、それ。」
自嘲にも、諦めにも聞こえる音だった。
男はゆっくりと立ち上がり、ふらつきながらも結から距離を取った。
ランタンの炎が、ようやく落ち着きを取り戻す。
「もう、ここには来ない…」
前を向いたまま、男は言った。
「でも……俺はきっと、あいつを問い続けると思う。
なんで俺を置いていったのか、どうしてあんな選択をしたのか。」
それは誰に向けた言葉でもなかった。
自分自身への宣言のようにも聞こえた。
「問い続けてください。」
結が答える。
「その問いがある限り、あなたはまだ、生きている側にいます。」
男は応えなかった。
ただ、足を引きずるようにして坂道を下っていった。
その背中が角を曲がって見えなくなるまで、結はじっとそこに立ち続けた。
◇
男の姿が完全に消えてから、私はようやく足を動かした。
「結さん。」
声をかけると、彼はゆっくりこちらを向いた。
顔色は悪い。頬が前より痩せたように見える。
「佐倉さん……。」
驚きと、少しの安堵。
そんな色が入り混じった視線だった。
「勝手に来てしまいました。すみません。」
「いえ。ここは、あなたが来てはいけない場所ではありません。」
結は小さく微笑んだが、その直後、膝がかくりと折れた。
「危ない!」
私は慌てて駆け寄り、腕を支えた。
軽い。想像していたよりずっと。
その軽さが、どれだけのものを削ってここに立っていたのかを物語っている気がした。
「大丈夫です。」
結はそう言うものの、声に力がない。
「さっきの人……。」
何と表現すればいいのか分からず、言葉が途切れる。
「二度目を望む方は、ときどき現れます。」
結はトンネルの入口を一瞥した。
「それだけ、未練が深いのでしょう。
一度だけと伝えても、心が納得するとは限らない。」
「でも……今のは、かなり危なかったんじゃないですか。」
ランタンの炎が乱れた瞬間を思い出しながら言う。
「不安定な気持ちで扉を叩かれると、こちら側も負担が大きいのです。」
結の視線が、自分の手に落ちる。
「今日のようなことが続けば、そう長くは持ちません。」
淡々とした言い方だった。
まるで自分の寿命を、天気予報のように告げている。
「……それでも立つんですか。ここに。」
問いかけると、結は少しだけ笑った。
「立つことができる限りは。」
その答えに、胸の奥がきしむような感覚が広がった。
言い返せる言葉が見つからない。
「さっきの方は、きっと時間がかかるでしょう。」
結は続けた。
「今日ここで扉を開けなかったことを、恨むかもしれません。
でも……いつか、“開かなかった扉が支えになっている”と気づく日が来るかもしれない。」
その言葉には、優しさだけではなく、わずかな祈りが混ざっていた。
私は支えた腕をそっと離し、彼の顔を見つめた。
「結さんは、自分をすり減らしてまで、そういう人のためにここにいるんですか。」
「自分のためでもあります。」
即答だった。
「私は、止まってしまった人を何人も見てきました。
そして同時に、歩き出す人も見てきました。」
目を閉じると、その光景が見えているのだろう。
まぶたの裏に、数え切れない再会と別れが並んでいるようだった。
「……灯は、危険なものです。」
結はゆっくり目を開けた。
「使い方を誤れば、心を縛ります。
自分の問いに答えを求めすぎると、向こう側を傷つけることもある。」
男の叫びが、再び耳の奥によみがえる。
「それでも、人は来るんですね。」
「ええ。」
結はあっさりと言った。
「今日の方も、森下さんも、あなたも。」
そう言われて、一瞬返事ができなかった。
私もまた、灯に惹かれてここまで来たひとりだ。
しかし同時に、違いもあるのだろうか。
自分がどちら側に足を踏み出そうとしているのか、まだはっきりとはわからない。
「佐倉さん。」
結が私の名を呼んだ。
声は優しいのに、その中に小さな棘のようなものが紛れている。
「あなたは、今日のような場面を見ても、まだここにいたいと思いますか。」
「……分かりません。」
嘘をつくことはできなかった。
言葉を選びながら続ける。
「さっきの人がもし一人じゃなくて、誰かが一緒にいれば、ほんの少しでも、違う形で終わらせられたかもしれない。それを見届ける人がいても、いいんじゃないかって、そう感じました…」
結はしばらく黙っていた。
その沈黙が責めるものなのか、噛みしめているのか、判断がつかない。
やがて、彼は小さく息を吐いた。
「……だから、あなたが怖いんです。」
思ってもみなかった言葉だった。
「怖い、というのは……?」
「灯の側に立つ人は、いつか必ず、自分の灯を削ることになります。」
結は、遠くを見るような目で言った。
「見届けることを選ぶ人は、ときに、依頼者以上に深く入り込んでしまう。
あなたのような方は、特に。」
胸の奥で、微かなざらつきが生まれる。
認められたような気持ちと、拒まれたような感覚が入り混じる。
「それでも、立ちたいと思うなら……。」
結は言葉を切った。
「そのときは、きちんと覚悟を持ってください。」
まるで将来の話をしているような口ぶりだった。
灯の側に立つかどうか、その選択を迫られる日が来ることを、当たり前の前提として話している。
私は視線を足元に落とした。
硬い砂利の感触。冷えた空気。
耳の奥で、またあの小さな揺らぎの音がしたような気がした。
◇
その夜、家に戻ってからも、あの男の叫びと、結の答えが頭の中で繰り返されていた。
机に肘をつき、ランプだけをつける。
柔らかな光が、壁に淡い影を描く。
目を閉じると、胸のあたりで何かが小さく震えた。
それは恐怖だけではなく、別の何か――引き寄せられていく感覚。
灯は、慰めにもなる。
同時に、危険でもある。
それを今日、目の前で見た。
それでも、あの場にいたいと思ってしまった自分を、私は否定できなかった。
胸の内側で、言葉にならない揺らぎが音もなく広がっていく。
まだ見ぬ未来へ向かう細い線のように、それはゆっくりと形を取り始めていた。
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