第9話 余韻とゆらぎ

 あの夜から、まだ数日しか経っていない。

なのに、玲子と直也の再会は、どこか夢の外側の出来事のように感じられた。


 トンネルの前で別れたあと、私たちは駅まで一緒に歩いた。

 無理に言葉を探さなくても、沈黙が苦ではなかった。

 玲子はときどき空を見上げ、そのたびに口元をきゅっと結び直していた。


「……変な感じですね。」


 駅の手前で、彼女がぽつりと言った。


「さっきまで“あっち側”にいたのに、もうこうやって切符売り場の前に立ってる。」


「うん。」


「でも、ちゃんと話せたからかな。

 悲しいのに、さっきまでより空気が吸いやすいです。」


 自分の胸に手を当てて確かめるように、玲子はゆっくりと呼吸をした。


「ありがとう、美羽さん。」


 こちらを見て微笑んだ顔は、泣き疲れているはずなのに、不思議と晴れやかだった。


「私のほうこそ。……一緒に行かせてくれて、ありがとう。」


「また連絡させてもらってもいいですか?」


「もちろん。」


 それだけ言葉を交わし、玲子は改札の向こうへ消えていった。

 背中を見送っていると、自分の中の何かも、静かに歩き出し始めているような気がした。


 


 数日後。仕事終わりにスマホを見ると、玲子からメッセージが入っていた。


『今度、例のカフェで会えませんか?話したいことが少しあります。』


 短い文面なのに、その向こう側にある気持ちの揺れが伝わってくるようだった。


『いいですよ。6日の19時とかどうですか?』


 送信してしばらくすると、「ぜひ」とスタンプ付きで返事が届く。

 画面を閉じると、胸の奥がそっと波打った。


 あのトンネルで見た、触れられないふたりの姿。

 直也の言葉、玲子の涙と笑顔。


 全部が、まだはっきりと心の中に置かれている。


 


 約束の日、仕事帰りにカフェへ向かうと、玲子は既に席についていた。

 前に会ったときと同じ、窓側の席。

 一つ違うのは、彼女の表情が依然より少し柔らかかったことだ。


「お疲れさまです。」


「お疲れさま。」


 向かい合って席に着くと、コーヒーの香りが鼻をくすぐる。

 他愛ない仕事の話を少し交わしたあと、玲子がカップを両手で包み込むように持ち、視線を落とした。


「……部屋、少し片づけました。」


 その一言で、何の話かすぐに分かった。


「一緒に暮らすはずだった部屋?」


「はい。ずっと止まってたんです。

 彼のマグカップも、買ったままの食器も、そのまま。

 その時間を動かしたら、全部消えてしまいそうで怖くて。」


 玲子はゆっくりと続ける。


「でも、この前会ってから……“置いていくんじゃなくて、連れていくんだな”って思えるようになって。」


 カップの縁をなぞりながら、少し恥ずかしそうに笑った。


「本当に少しだけですけど。

 使っていなかった電気ケトルを箱から出して、

 新しいハンカチを棚にしまっただけなんですけどね。」


「それでも、大きい一歩ですよ。」


 そう言うと、玲子は「そうだといいんですけど」と小さな声で返した。


「直也の写真は、そのままです。

 あの日と同じ場所に置いてあります。

 でも、前よりまっすぐ見られるようになりました。」


 視線の先にあるものを見つめるような眼差しだった。


「“私の人生、ちゃんと生きてくるね”って、心の中で言えるようになったから。」


 その言葉を聞いた瞬間、胸のどこかが静かに震えた。

 父との再会の夜、自分も同じようなことを心の中で呟いた記憶がよみがえる。


 玲子は、ふと顔を上げて私を見た。


「あの日、私の隣にいてくれて、ありがとうございました。」


「本当に、何もしてないですよ。」


「そんなことないです。」

 玲子はきっぱりと言った。


「あそこにひとりで行ってたら、多分私は途中で逃げてました。

 直也に会うことが怖くて。

 でも、美羽さんがいたから……“私だけの物語じゃない”って思えたんです。」


 “私だけの物語じゃない”。

 その響きが、心の奥にゆっくり沈んでいく。


 玲子は少し照れたように笑い、続けた。


「灯に触れたのはあの日が初めてでしたけど……。

 あれって、死者だけのためのものじゃないんですね。」


「どういう意味ですか?」


「生きている人のほうも、一緒に変わっていくんだなって。

 私、今やっと、“直也のいない明日”を考えようとしているので。」


 彼女のその言葉に、私は強く頷いた。


「私も、そうでした。」


 父のことを話すか迷いながら、少しだけ口を開く。


「私も、会う前は、ずっと時間が止まったままだったけど……

 あの夜から、少しずつ進み始めた気がして。」


 全部を語る必要はなかった。

 玲子は「そうなんですね」と静かに受け取り、深くは聞いてこなかった。

 それが、ありがたかった。


「私……」

 自分でも不思議だったが、口が自然に動いた。


「これからも、あの場所に行くと思います。」


「え?」


「もう自分の大切な人を呼ぶことはできないけど。

 誰かが誰かと会うときに、そばにいることならできると思うから。」


 言葉にして初めて、はっきりしていなかった輪郭が形を持った気がした。


「私、あの場に立ち会うのが怖かったはずなのに……

 玲子さんと一緒にいたとき、“あ、これが私のやりたいことかもしれない”って。」


 玲子は驚いたあと、ふわりと表情をゆるめた。


「それ、とても素敵だと思います。」


 彼女は真っ直ぐに言った。


「灯を結ぶ人じゃなくて、そのそばに立つ人。

 そういう存在がいてくれると、きっと救われる人がたくさんいると思います。」


 “灯を結ぶ人じゃなくて、そのそばに立つ人”。

 その言い回しが、胸の奥で小さな音を立てた。


 もしかしたら私は、灯を直接扱うことより、

 そこに立ち会うことで誰かの心を受け止める役目を望んでいるのかもしれない。


 そんな考えが、静かに心に沈んでいった。




 帰り道、ひとりで駅へ向かいながら、私はさきほどの会話を何度も反芻していた。


 玲子はもう、完全に立ち直ったわけじゃない。

 きっと、これからも思いがけない瞬間に涙がこぼれる日があるだろう。

 それでも、あの人は自分の足で前へ進もうとしている。


 その姿を目の当たりにしたことで、私の中でも何かが変わり始めている。


 自宅に帰り、部屋の明かりをつけずにカーテンだけを開けた。

 街の光が淡く差し込み、テーブルの上のグラスがぼんやり光る。


 ソファに座り、目を閉じる。

 玲子の涙。直也の笑顔。父の声。結の横顔。


 いくつもの光景が混ざり合い、胸のあたりでゆっくりと渦を巻く。


 そのとき、不意に何かが耳に触れた。


 ──かすかな、ゆらぎの音。


 最初は外の風かと思った。

 でも窓ガラスはほとんど揺れていない。

 静まり返った部屋の中で、別の場所から微かな音が届いているような感覚。


 水面に小石を落としたときに生まれる波紋みたいな、

 小さな鈴の玉が遠くで転がるような……そんな音。


 目を開けると、テーブルの上のグラスの水が、ごくわずかに揺れていた。


「……気のせい、かな。」


 笑いながら呟いてみる。

 でも、心のどこかで知っていた。


 それは外からのものじゃない。

 自分の中から響いてきた音だ、と。


 父と会ったとき、玲子と直也の再会を見届けたとき、

 心の内側に落ちた光の粒が、少しずつひとつに集まり始めている。


 まだ名前のついていない、小さな光。

 誰のために燃えるのかも、まだはっきり分からない。


 けれど――


 その揺らぎが、今まで感じたことのない“予感”を連れてきていることだけは、はっきり分かった。


 ソファにもたれ、胸のあたりにそっと手を当てた。

 そこにある温度を確かめるように、ゆっくり息を吐く。


 耳をすませると、あの小さなゆらぎの音が、また少しだけ聞こえた気がした。

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