第8話 二人の声が交わる夜

 旧トンネルの手前まで来ると、空気の質が変わった。

 夕暮れの残光が遠くで揺れ、足元の影が少しずつ濃くなり、世界が静かに沈んでいく。

 

《ここから先は、生きている人間の時間ではない》


そんな気配が漂っていた。


 玲子は立ち止まり、両手を胸の前で軽く押さえた。

 震えているようには見えないのに、指先がわずかに固まっている。


「大丈夫?」と声を掛けると、彼女はゆっくりとうなずいた。


「行きます。」


 その短い返事の中に、迷いは感じられなかった。


 結が手元のランタンに視線を落とし、小さく息を整える。


「ここから先は、私が導きます。

 森下さん、心の中で彼の名前を静かに思い浮かべてください。

 言葉にしなくても構いません。」


 玲子は目を閉じ、呼吸をひとつ深く吸い込んだ。


 その瞬間、風が止んだ。

 葉擦れの音も、遠くの車の音も消える。

 世界が一度だけ、静寂の膜に包まれたようだった。


 ランタンの明かりがふっと揺れた。

 その揺れに合わせて、トンネル奥の闇の密度が変わる。

 ただの暗がりではなく、なにかを胎内に抱えているような色。


 玲子のまつ毛がかすかに震え、目がゆっくり開く。


(……直也。)


 声には出していない。

 けれど、その名前は確かに世界へ投げかけられた。


 次の瞬間、闇の奥に光が差した。


 柔らかいのに、形を持つ、不思議なあかり。

 霧のように漂う光の粒が、ひとつに集まって人の影をつくっていく。


 肩の線、首の角度、立ち姿。

 記憶に残っている“誰か”の輪郭。


 玲子は息を止めたまま動かない。

 目の前の光がゆっくりと色づいていく。


 そして――その影が、こちらを向いた。


「……玲子?」


 名前を呼ぶ声が生きていた頃と同じ響きで、空気に溶けていく。

 玲子の瞳が大きく揺れ、その場に立っているのがやっとのようだった。


「直也……?」


 手を伸ばす。

 けれど、彼に触れる前に光が揺れ、玲子の指は空を掴んだ。

 触れられない、と理解するより先に、現実が先回りして突きつける。


 それでも、彼は微笑んだ。


「来てくれたんだな。」


 玲子は頷いた。

 涙がこぼれるのに、声は震えていなかった。


「来たかった。どうしても、言いたいことがあったから。」


「俺もだよ。」


 彼は、一歩、彼女の方へ近づく。

 光の粒が足元からふわりと舞い上がり、玲子と直也の間に優しい境界をつくった。


「直也……ごめんね。

 あの日、ちゃんと向き合わないまま終わっちゃって。 “また明日ね”って言ったのに……。」


「謝るのは、俺のほうだよ。」

 直也はかすかに笑う。


「君に任せっきりだった。

 仕事のことも、家のことも、全部“あとで話せばいい”なんて思ってた。

でも、その“あとで”が来る前に、終わってしまって...情けないな...」


 言葉が落ちるたびに、玲子の涙が増えていく。


「俺は幸せだったよ。玲子と一緒にいた時間が、本当に大切だった。

 それを言えなかったことだけが、ずっと心残りだった。」


 玲子は唇を結び、溢れる涙を無理に止めようとしなかった。


「私、あなたと生きる未来を信じてた。

 名前が変わる日も、暮らす部屋も、全部……。

 でも、あなたがいなくなって、どこに向かっていいか分からなくなった。」



 直也は優しく微笑みながら、玲子の頬のそばに手を伸ばそうとする。

 けれど触れられない。

 その代わりに、光の粉が玲子の頬をなぞるように流れていく。


「本当にごめん....突然いなくなって...」


 玲子は涙を拭き、震えた声で返した。


「でも……今日会えて、やっと分かった。

 あなたと過ごした時間は終わりじゃない。

 ちゃんと持っていっていいものなんだって。」


 直也は静かに頷いた。


「うん...いつでも思い出してほしいし、忘れてほしくない。でも、それとは別に……君には前へ進んでほしい。」


 玲子の肩がかすかに揺れた。


「直也……。」


「君が幸せになるのを見たい。誰かと笑って、前に進む姿を。例え相手が俺じゃなくても。」


 その言葉は、優しさと痛みが同じ温度で混ざっていた。

 玲子は泣きながら、それでも微笑もうとしていた。


「そんなふうに言われたら、前に進まないとね……。あなたが誇れる私でいたい....」


 光がふっと揺れた。


 別れの時が近い。


 直也は玲子を見つめたまま、穏やかな表情で言った。


「玲子、ありがとう。

 君と出会えて、俺の人生は本当に幸せだった。」


 玲子の涙がぽたりと地面に落ちる。


「私も……直也と出会えて、本当に良かった。」


 光が細くなり、直也の輪郭がゆっくりと薄れていく。


「……さよなら、玲子。」


 その言葉に、玲子は小さく首を振った。


「さよならじゃないよ...私の中には、ちゃんと...ずっとあなたがいるから...!」


 直也の表情が、ほっと緩んだ。


 そして、光が静かにほどけていった。

 手のひらからこぼれる砂のように、ひとつ、またひとつと消えて──

 最後に残った微かな輝きが、玲子の胸元へすっと吸い込まれた。


 玲子はその場にゆっくりと膝をつき、目を閉じた。

 泣くだけではない、深い呼吸がひとつ漏れる。


 私はそっと彼女の背に手を添えた。

 玲子の肩は震えているのに、どこか安定して見えた。


 結がゆっくりとランタンを伏せた。

 淡いあかりが消え、世界が元の夜の色に戻っていく。


 玲子は涙を拭き、少しだけ笑った。


「……ちゃんと、届きました。」


 その声は弱くない。

 ようやく歩き出せる人の、偽りのない声だった。

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