第7話 旧道へ続く影
玲子と待ち合わせたのは、駅前の小さなロータリーだった。
冬の気配が混じる風が頬に触れる。陽はまだ高いが、どこかで夜の影が静かに膨らんでいる気がした。
白いコートの袖を整えながら周囲を見渡すと、少し離れたベンチに玲子が座っていた。
膝の上で両手をぎゅっと重ね、じっと地面を見つめている。その横顔は、思っていたより落ち着いていた。
近づくと、彼女はゆっくり顔を上げた。
「来てくれて、ありがとう。」
その一言に、胸の奥で何かが静かにほどける気がした。
私は微笑み、隣に腰を下ろす。
「こちらこそ。……大丈夫ですか?」
「正直わからないです。でも、行きたい気持ちが消えなかったから。」
その表情に、数日前の自分を重ねた。
痛みを抱えながら、それでも進もうとする人の顔は、きっと似ているのだろう。
ロータリーを行き交う車の音が遠くで揺れている。
あの旧道へ向かえば、もう後戻りはできない。
でも、ふたりともそのことを口にする必要はなかった。
「行きましょうか。」
玲子が立ち上がり、私はうなずいた。
歩きながら、彼女はぽつりと語り始めた。
「彼とは……喧嘩も多かったんです。でも、離れる未来なんて考えたことがなくて。結婚式も、両親への挨拶も、全部これからで。」
言葉は淡々としているのに、どこかで息を押し殺しているようだった。
「一緒に暮らす予定だった部屋、今もそのままなんです。片付けられなくて。」
「うん……。」
「部屋に入るたび、時間が止まったみたいで。
でも、その止まった場所から、自分だけ歩き出すのが怖かったんです。」
玲子の横顔は、今日の空よりずっと透明で、壊れそうに見えた。
だけど、そこに確かな意志もあった。
「だから今日を選んだんですね。」
「はい。元々、入籍する予定だった日でしたから。」
彼女の声が少し揺れた。
歩幅を合わせながら、私は言葉を慎重に探した。
「……私にできるのは、そばにいることだけです。」
「それが一番、心強いです。」
玲子は、強く、でも短く微笑んだ。
駅から少し外れると、街の喧騒が薄れ、空気が変わり始めた。
木々の影が長く伸び、遠くから冷えた土の匂いが漂ってくる。
旧トンネルへ続く道は、相変わらず静かだった。
足を踏み入れた瞬間、私の胸の奥で何かがひっそりと動いた。
ここに来るのは二度目なはずなのに、初めてより緊張している。
この先で、誰かの灯が現れ、誰かの心が解き放たれる。
それを目撃するという事実が、足元の感覚を少しだけ曖昧にした。
「本当に……この先なんですか?」
玲子の声は小さかった。
私は深く息を吸い、うなずいた。
「大丈夫。怖いところじゃありません。でも……心が揺れる場所です。」
玲子はその言葉に、ほっとしたように微笑んだ。
二人で一歩ずつ進んでいると──
前方の小さな坂の上に、人影が現れた。
風が凪いだように空気が止まり、玲子の足がわずかに止まる。
影はゆっくりと近づき、柔らかな光の中へ姿を現した。
結だった。
「待っていました。」
その声は、あの夜と同じ落ち着きを含んでいるのに、どこか深い疲れの色が滲んでいた。
「あなたが玲子さん、ですね。」
玲子は緊張で口元を固くしながら、かすかにうなずいた。
結は彼女の様子に気づき、静かに言葉を添えた。
「安心してください。あなたの灯は……確かに、ここに向かっています。」
玲子のまなざしが震え、呼吸がひとつ乱れた。
「ここから先は、私が案内します。
美羽さんも一緒に来てくれますか?」
「はい。」
そう答えた瞬間、空気の層が一段深くなったように感じた。
街の灯りが次々と点り、旧道の影がすっと伸びていく。
三人の影が並び、夜へ続く道の入り口にそっと寄り添った。
夜の瞬きが、もうすぐ私たちを包もうとしていた。
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