第3話 父との再会

 トンネルの中は、外よりもずっと冷たかった。

夏の気配が濃くなってきた六月とは思えないほど、空気はひやりとしていて、足元に落ちる自分の影さえも薄くかすんで見えた。


ランタンの灯りだけが頼りだった。

橙色の光は、結の足元から半径数メートルほどを柔らかく照らしている。

コンクリートの壁には無数のひび割れが走り、その上に伸びた蔦が、まるで古い傷を覆うように絡みついていた。


歩くたびに靴底が砂を踏む音がする。

それ以外には何の音もしなかった。

夜の虫すら、この場所を避けるように静まり返っている。


「すぐに、始まります。」

結の声が暗闇に響く。


私は無意識に息を詰めた。

胸の鼓動が急に強く、痛いほど跳ねる。


結はトンネルのほぼ中央まで進むと、ランタンを地面にそっと置いた。

そして炎の前に膝をつき、両手を静かに重ねた。


その動作は、祈りのようでもあり、儀式のようでもあった。

灯の揺れが徐々に落ち着き、周囲の闇が少しずつ淡くなっていく。


「ここから先は、あなたの灯が道を作ります。

 強く願ってください。“会いたい”と。」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあったものが、堰を切ったように溢れてきた。


会いたい。

会って話したい。

伝えたい言葉が山ほどある。


謝りたいことも、ありがとうと伝えたいことも。

三年間、押し込めてきた感情が、全身の中で暴れ出す。


目を閉じると、父の笑顔が浮かんだ。

子どもの頃から何度も見てきた、あの照れくさい笑顔。


「……お父さん……」


嗚咽が混じった声が胸から漏れた。


その瞬間だった。


ランタンの灯が大きく揺れ、強く、強く膨らんでいく。

まるで炎が息を吸い込んだかのように、橙色の光が一気に周囲に広がった。


明かりがトンネルの奥へと流れ込み、その奥から淡い光がゆっくりと立ち上っていく。


暗闇が割れたようだった。

霧のような光が揺らめき、その中に、ひとつの影が現れた。


私は息が止まった。


影はゆっくりと形を取り、輪郭が浮かび、色を伴い……

一歩、また一歩とこちらへ近づいてくる。


その歩き方を、私は知っていた。

毎日見ていた。

どれだけ時間が経っても忘れようがない、懐かしい歩幅だった。


光の縁を越えた瞬間、その顔がはっきりと見えた。


「……お父さん……?」


声が震えていた。


そこに立っていたのは、間違いなく、私の父だった。

最後に見たときより少し若い姿。

病に痩せる前の、いつもの父。


「美羽……か?」


父の声を聞いた瞬間、全身から力が抜けた。

膝が震え、呼吸すらままならなかった。


「本物……なの……? 本当に、お父さん……?」


父はゆっくりと近づき、気恥ずかしそうに笑った。


「久しぶりやな。……来てくれてありがとう。」


その声には、あの日と同じ優しさがあった。

私はこらえきれず、涙が溢れた。


「会いたかった……ずっと……ずっと会いたかった……!」


込み上げてくるものを抑えられず、涙が頬を伝って止まらない。

父は泣きじゃくる私を見て、困ったように眉を下げた。


「そんな泣くなや。美羽は昔から涙もろいんやから。」


「だって……だって……」


「ええんや。全部、ええんや。」


父はそっと手を伸ばす仕草をした。

本当は触れられないはずなのに、その距離が縮んだだけで温かさを感じた。


「お父さん……あの時……間に合わなくて……ごめんね……」


私は涙の合間に言葉を絞り出した。


「最後に何も言えなかった……ありがとうも、ごめんねも……言えてなかった……!」


父は首を横に振り、私の目をじっと見つめた。


「美羽。お前は何も悪くない。仕事しとったんやろ? あれがお前らしい生き方や。」


「でも……!」


「ええか。」


父の声が静かに響く。


「親はな、子どもに生きていてほしいんや。それだけで十分なんや。謝る必要なんか、どこにもない。」


胸が詰まり、息が乱れた。


「ずっと伝えたかったんや。お前はよう頑張っとる。お父さんは誇りに思っとる。」


涙が次から次へと溢れた。

父の言葉は、三年間胸に溜まっていた痛みを優しく溶かしていく。


ふと、父の体が少しずつ淡い光を帯び始めた。

ランタンの火が細くなっている。

時間が……終わろうとしている。


「……いやだ……まだ話したい……!」


「十分や。

もう、お前の顔を見られただけで幸せや。」


「嫌だよ……帰らないで……!」


父は静かに微笑んだ。


「美羽。生きるんや。笑って、前に進め。

それが、お父さんの願いや。」


光が強くなると共に、

父の輪郭がゆっくりとぼやけていく。


「お父さん……!」


「美羽……ありがとう。

 お前の人生は、これからや。」


最後の言葉が、光の中に溶けていった。


父は静かに消えた。


ランタンの灯がひとつ揺れ、細くなり、またゆっくりと息を吹き返すように明滅した。


その場に立ち尽くした私は、声にならない声で泣き続けた。


結は私のすぐ後ろで、静かにそれを見守っていた。


父の温もりの代わりに、ランタンだけが淡い光を落としていた。

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