灯守 (あかりもり)
ねこの真珠
第1話 灯りを探す者
六月の雨は、湿った気配をまとって家の中に忍び込んでくる。
仕事帰りの私は、いつものように玄関の灯りをつけ、パンプスを脱いでスリッパに足を滑り込ませた。
「ただいま……」
返事はない。
母は今夜もパートの夜勤で遅い。
二年前から始めた病院の清掃の仕事は、夕方から深夜にかけてのシフトが多く、家の中は前よりずっと静かになった。
バッグをソファの横に置き、ネクタイの代わりに首元を締めつけていた社員証のストラップを外す。
ようやく胸が少しだけ軽くなった。
テレビをつけると、ニュースキャスターが淡々と事件や事故を読み上げている。
誰かの不幸な出来事は、いつもどこか遠い世界の話みたいに聞こえる。
私はリモコンをテーブルに置き、ローテーブルの下にしまってある古いアルバムに手を伸ばした。
父の三回忌が近づくにつれて、自然と手がそこに伸びてしまう。
アルバムを引き出すと、表紙のビニールが少し黄ばんでいた。
端の方はめくれ、長く触られたもの特有の柔らかさが指先に伝わる。
「……お父さん。」
誰に聞かせるでもない声が、ふっと漏れた。
ページを開くと、花見、運動会、旅行。
色あせた写真の中で、父はいつも少し照れくさそうに笑っている。
運動会で、私を肩車してくれた父。
キャンプで真っ黒に焦がした焼きそばを「最高傑作や」と得意げに掲げている父。
台風の日、仕事帰りに無理をして駅まで迎えに来てくれた父。
亡くなって三年が経つのに、写真の中の父はどれだけ見ても年を取らない。
時間から取り残された笑顔が、余計に胸を締めつけた。
「……会いたいな。」
ぽつりとこぼれた言葉が、静まり返ったリビングに落ちる。
そのとき、テーブルの上に置いていたスマホがぶるっと震えた。
ピコン、と短い着信音が静かな部屋の中で鳴り響いた。
私はアルバムから目を離し、スマホの画面を横目で見つめた。
見慣れない表示だった。差出人は「unknown」。
アドレスの欄にも、数字と記号が無作為に並んでいるだけで、どこかの迷惑メールのように感じられる。
でも、好奇心に負けて通知をタップした。
開かれたメールの本文には、たった一行だけ。
”あなたは “灯守あかりもり” をお探しですか?”
「……え?」
思わず声が出た。
灯守——。
聞いたことのない言葉なのに、どこか懐かしい響きがあった。
漢字を目でなぞる。
「灯を守る」と書いて「あかりもり」。
心臓が、ドクン、と強く脈を打った。
父のアルバムを開き、「会いたい」と口に出した直後に届いたこのメールが、なぜかただの偶然とは思えなかった。
迷惑メールなら、もっとそれらしい宣伝文句が並んでいるはずだ。
英語や中国語の文章に怪しいURL。
金儲けの誘い。出会い系サイトの誘導。
でも、このメールにはそういうものが一切なかった。
「……誰?」
私は差出人情報を開いてみたが、そこに書かれている記号の羅列は、何の手がかりにもならなかった。
返信用のアドレスも、正規のドメインとは思えない。
普通なら、ここで削除ボタンを押して終わりだ。
こんなあやしいメールに関わるべきではない。そんなことは分かっている。
でも、指はなぜかスマホの画面から離れなかった。
“お探しですか?”
私は、何を探しているんだろう。
父が死んでから三年。
大きく取り乱すこともなく、仕事を休むこともほとんどなく、私はなんとか「普通」の日常を続けてきた。
周りからは「しっかりしてるね」と言われる。
母からも「美羽は本当に助かる」と感謝されている。
だけど、その「普通」を守るために、
置き去りにしてきた感情がたくさんあることも分かっていた。
病室に間に合わなかったあの日のこと。
最後に交わした会話のこと。
言えなかった「ありがとう」と「ごめんね」。
それらはずっと、胸の奥の暗い場所で固まっていた。
私はスマホを持つ手に力を込めた。
返信なんか、してはいけない。
いつもみたいに、削除すればいい。
頭では分かっているのに、心はそれを拒んでいた。
指が勝手に、文字入力の画面に移動する。
…"会いたい人がいます。"
送信ボタンの赤い表示が、じっとこちらを見つめている。
押すか、やめるか。
数秒間の逡巡しゅんじゅんのあと、私は目を閉じて画面をタップした。
メールは、あっけないほど簡単に送信された。
「……やっちゃった。」
胸の奥がざわつく。
後悔とも期待ともつかないざわめきが、波のように押し寄せてくる。
それから一分とたたないうちに、再びスマホが震えた。
返事が来たのだ。
私は息を呑み、急いで画面を開いた。
”明日の深夜零時。
桜ヶ丘の旧トンネル跡へ。
あなたの灯が届くなら、お連れします。”
「旧トンネル……?」
桜ヶ丘のその場所は、地元の人間なら誰でも知っている。
昔、小規模な崩落事故があり、それ以来通行止めになった旧道のトンネルだ。
今は柵が設置されていて「立入禁止」の看板が立っていると聞く。
肝試しに行く高校生もいるらしいが、基本的には誰も近寄らない。
よりによってそんな場所に、深夜に来いというのか。
「無理でしょ……普通に考えたら。」
私は苦笑しながらも、メールの文面を何度も読み返した。
お連れしますって…誰を?
あなたの灯が届くなら?… 灯??
さっきから、やたらと「灯」という言葉が出てくる。
灯り、明かり、光。
暗闇の中にぽつんとある、小さな炎。
「……お父さん。」
私は再びアルバムに視線を落とした。
そこには、ビールジョッキを片手に、豪快に笑う父の写真があった。
会社の同僚たちとの飲み会で撮った一枚。
ネクタイを頭に巻くという、どこかで見たことのあるベタな酔っ払いスタイルを、父は本当にやっていた。
情けないけれど、本当に愛おしい人だった。
『美羽は、真面目すぎるところがあるからなあ。もうちょい肩の力抜いて生きたらええで。』
生前、父がよく言っていた言葉が、耳の奥に蘇る。
そんなふうに言った本人は、結局、肩の力を抜く前に居なくなってしまった。
あの日、私は残業で病室に行けなかった。
「仕事なんだから仕方ない」と周りは言ってくれたが、自分ではそう思えなかった。
父が亡くなったのは、私が病院に向かっている途中だった。
電車を乗り継ぎ、息を切らして病棟の廊下を走った。
でも、病室に着いたときには、すべてが終わっていた。
母が握りしめていた父の手は、もう冷たくなりかけていた。
「なんで、あのとき……」
胸の奥から、三年間押し殺してきた言葉がこぼれかける。
私は慌てて唇を噛み締め、それを飲み込んだ。
テレビは、さっきから同じニュースばかり繰り返している。
外ではまだ雨が降っているらしく、窓ガラスに小さな水滴がぶつかる音がしていた。
スマホの画面をもう一度見る。
”明日の深夜零時。
桜ヶ丘の旧トンネル跡。”
おかしな話だ。
幽霊を呼び出す、宗教的な儀式か何かだと言われたほうが、まだ納得できる。
でも——
「もし、本当に……」
そこに父が来るのだとしたら。
たった一度でいい。
ちゃんと顔を見て、「ありがとう」と「ごめんね」を言えたら。
それだけで、私の明日は、少し変わるかもしれない。
私はスマホを伏せ、アルバムを閉じた。
膝の上に置いた手が、かすかに震えている。
時計を見ると、まだ夜の九時前だった。
母が帰ってくるのは深夜だ。
話そうか迷ったが、やめた。こんな話をしたところで、心配をかけるだけだ。
ゆっくりと立ち上がって、キッチンでお湯を沸かす。
インスタントのスープをカップに入れ、お湯を注ぐ。
湯気が立ちのぼり、鼻腔に塩の匂いが広がった。
一口飲んでも、味がよく分からなかった。
気づけば、頭の中は「明日の深夜零時」のことでいっぱいになっていた。
行くべきじゃない。
危ないかもしれない。
常識的に考えれば、やめるべきだ。
それでも、胸の奥から聞こえる声は一つだけだった。
——行きたい。
私はスープを飲み干し、マグカップをシンクに置いた。
鏡の前に立つと、そこにはひどく疲れた自分の顔が映っていた。
二十七歳。
仕事と家事と、時々母の病院の付き添い。
それなりに忙しく、それなりに真面目に生きているつもりだ。
だけど、そのどこにも「本音」が置かれていないような気がした。
「お父さん、どうするべきかな。」
鏡の中の自分に問いかけてみても、答えは返ってこない。
当たり前だ。父はもういない。
なのに、心のどこかで、まだ返事を待っている自分がいる。
ベッドに入ったのは、日付が変わる少し前だった。
スマホはベッドサイドの棚の上。
天井を見つめながら、私はシーツの端を握りしめていた。
瞼を閉じると、旧トンネル跡の光景が浮かぶ。
朽ちたコンクリート、ひび割れた壁。
そこにぽつりと灯るランタンの光——そんな場面が、見たこともないのに頭に鮮明に浮かんできた。
夢か、幻想か、それともただの妄想か。
「……行く。」
誰に聞かせるでもなく、私は小さく呟いた。
その言葉を口にした瞬間、胸のざわつきがほんの少し静まり返ったように思えた。
深夜の静寂の中で、外を叩く雨音だけが
遠い喝采のように聞こえていた。
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