ころり転げたスーパーカップ濃厚味噌

秋犬

大体300万円くらい

 頭の中に星が光ったかと思ったら、目の前に俺がいた。俺は俺を覗き込んでいる。何だこれは、夢か? 何があったって言うんだ?


「お、おじさん……?」


 俺が俺に声をかける。おじさん、だって? ああ、確かに俺は真玖郎まくろうの叔父だが、その真玖郎はどこに行ったっていうんだ?


 ようやく俺は今の状況を把握する。俺は年の離れた兄貴の要請で、中学の頃から引きこもり始めて、最近引きこもり歴十年を超えた甥の真玖郎と話をしに来たのだ。兄貴曰く「もう真玖郎の考えていることは俺にはわからない。最近の若者の考えに近いお前が話を聞いてやるべきだ」と超理論で呼び出されて、何年も空気の入れ替えがされてない引きこもり部屋にいきなり閉じ込められたんだ。ひでえ話だ。


 もちろん真玖郎はパニックになって、いきなり俺に殴りかかってきた。俺も殴られるわけにはいかないから何とか抑えようとして、もみ合いになったところで二人ともどしんと倒れ込んだんだ。そして、気が付いたら目の前に俺がいる。


「なんか、僕たち入れ替わったみたいですね」


 はあ? 俺と真玖郎が入れ替わったって? 俺は恐る恐る自分の手を見てみる。この前新調した腕時計はなくて、毛玉だらけのしみったれたスウェットを着ていた。確かにこれは、さっき見た真玖郎の服だ。


「じゃあ……俺たち」

「僕たち」

「入れ替わってるー!」


 俺は衝撃で、俺の中に入った真玖郎はかなり嬉しそうに叫んだ。いや、アニメや漫画じゃないんだ。これは現実だ。でも一体どうやって、誰が、どうすれば、この状態になって元に戻れるっていうんだ?


「いや、楽しそうにしている場合じゃないでしょ。元に戻る方法を考えないと」

「嫌だよ。せっかく面白そうなんだもの。僕はもうこんな部屋にいるのはうんざりなんだ」


 俺の身体で、真玖郎はぴょんぴょん飛び跳ねている。何考えているんだこいつは?


「ねえねえおじさん、試しにこの身体、少し貸してよ。ねえ、いいでしょう」

「嫌だ、人に身体を貸せるほど俺は寛容じゃないんだ」

「ねえ頼むよ、お願い!」


 俺が両手を合わせて小首を傾げる。きめえな、俺。


「ダメなもんはダメだ! とにかく、この状況でお前の父さんと話をしに行くぞ!」

「嫌だ! そんなの嫌だ! 僕はおじさんの身体になってるんだから、おじさんとして外に行くからね!」

「無理だ、やめろ、なあ、待ってくれよ!」


 俺は俺の身体の真玖郎を取り押さえようとした。でも、身体が思うように動かない。特にさっき頭を打ったせいなのか、あちこちが軋むように痛い。真玖郎、ずっと部屋に籠っていたからかなり不摂生な暮らしをしているものな。一体このデブ、何キロあるんだ?


「うわあ、この身体すごい筋肉質でムッキムキだね! おじさん、モテるでしょう? 女とか毎晩抱いてるの? それで筋トレ? 最高!」

「あのな、大人をからかうんじゃない! やめろ、こら、逃げるな!」


 真玖郎はまだ床で立ち上がれない俺にげしっと蹴りを入れて、そのまま外へ行ってしまった。俺が外へ出ていったのを見たからか、血相を変えた兄貴と奥さんがやってきた。そして兄貴に手伝ってもらって、俺はようやく起き上がれた。


「お前、あきら叔父さんに何か失礼なことをしたのか?」

「兄貴、落ち着いて聞いてくれ。俺が彰だ。今出ていったのが真玖郎なんだ」


 すると、兄貴と奥さんは悲しそうな顔をして顔を見合わせてしまった。


「真玖郎、来月予約してる病院に行くのを早められないか聞いてみるからな」

「そんな、俺を病人扱いだなんて!」


 何とかわかってもらおうとしたが、兄貴は俺のことを見たこともない表情で見下ろしていた。


「今まで希恵きえの言う通りにしてきたのが間違いだった。今度から父さんがお前をビシバシ鍛えていくからな」


 俺は何か反論しようとしたが、真玖郎の身体で何を言っても説得力がないためやめることにした。奥さんは兄貴の後ろでびくびく怯えていた。


「ごめんね、ごめんねマクちゃん……全部ママが悪いのよ……」


 そう言い残して、兄貴と奥さんは部屋を出ていった。別に俺も部屋を出ればいいと思って、何とか身体を動かしてドアを開けようとした。


 何この成績は。

 こんな酷い点見たこともない。

 こんなんじゃ社会でやっていけない。

 

 ドアノブに手を触れた瞬間、俺の頭の中に電流が流れるように気持ち悪い記憶が流れてきた。それはまるで上から漬物石で押さえつけられているような、鈍い痛みだった。俺は咄嗟にドアノブから手を離した。そして猛烈な吐き気を感じてトイレに行こうとしたが、またドアノブに触れるのが怖くて俺はその辺にあったビニール袋の中に胃の中のものをぶちまけた。よく噛んでいないラーメンが出てきた。よく見ると、部屋の隅に割り箸が刺さったカップラーメンのカスが転がっている。何だこの部屋は。ゴミ溜めか。道理で臭いはずだ。


 どうやら真玖郎の身体だと、外に出られないらしい。俺はこの先どうすればいいか考えることにした。まず、どうにかして俺と真玖郎が入れ替わっていることを兄貴に信じてもらい、そして俺の身体でどこかに行った本物の真玖郎を捕まえてこないといけない。


 俺はまず、兄貴に信じてもらうことを考えた。俺と兄貴だけしか知らないことを打ち明けるかと思ったが、そもそも俺が小さいときに既に家から独立していた兄貴とあまり接点がないので、そういううまい思い出話を俺が思いつかなかった。そして俺が再度真玖郎と会うためには、真玖郎がこの部屋に戻ってきてくれないといけない。果たして、真玖郎は戻ってきてくれるだろうか。


 どうしようもなくなった俺は、臭いベッドに横たわった。何もやる気が起きない。それどころか、何もしないでいるとどんどん真玖郎の嫌な記憶が蘇る。


 あれだけ頑張ったのに公立中学なんて。

 あいつ私立に行くって言ってたのに。

 保健室でもいいから来てね。

 球技大会だけでもいいから来てくれよ。


 俺は嫌な記憶を止めたかったけれど、どうやって止めるか知らなかった。俺は真玖郎の身体に閉じ込められたまま、真玖郎の苦しんでいる世界をただ黙って見ていることしかできなかった。


 真玖郎は、特に奥さんの実家から期待されていた。高学歴な奥さんは真玖郎にも同じような環境が良いと思って、幼稚園の頃から様々な習い事をさせてきた。英会話、スイミング、リトミック、将棋、通信教育、サッカー、そして学習塾。通信教育以外は週6で何かしらの習い事があり、特に日曜日は毎週サッカーをさせられていた。


 だってマクちゃん、負け組は嫌でしょう?

 ママはマクちゃんのためを思って言ってるのよ。

 あんな公立の幼稚園出身の子に負けてたんじゃ、マクちゃんはまだまだよ。


 真玖郎は、ママが好きだった。ママのために真玖郎もいい子でいようとした。そうやって過酷な習い事地獄が中学受験地獄に変わり、真玖郎は見事に第一志望に落ちた。そのとき、大好きなママがこんなことを言った。


 あんなにお金がかかったのに、勿体ない。


 その一言が、真玖郎を突き落とした。自分の落胆よりも金銭のことを口走った母親が許せなかった。その瞬間、真玖郎の中で何を信じていいのかわからなくなった。それまで、ママの言う通りにしていればよかったから。


 それから真玖郎は「お金が勿体ないから」という理由で全ての私立中に行かず、公立中学校を選んだ。しかし、中学に進学してみればママがかつて見下した「公立中学の猿山連中」がたくさんいた。そこで真玖郎は「自分もママから見れば猿山連中なのだ」と打ちひしがれた。もう勉強にも身が入らず、授業はすぐについていけなくなった。中学受験の負け組であることが周囲に知れると、自然とクラスメイトは離れていった。


 そして、何故生きているか意味がわからなくなり、ある日学校に行けなくなった。「受験に失敗したくらいで甘えている」と真玖郎の父は取り合ってくれなかった。家では両親が自分のことで喧嘩をして、学校には居場所がない。真玖郎は自分のようなものは社会に存在する価値はないと思い込んだ。そうして、ゲームとネットの世界に逃げた。ネットでは友達がたくさんできた。真玖郎はネットで散々語り合った。


 俺をバカにした奴らのせいで俺はこうなった。

 女なんかいるから男が不幸になるんだ。女に思考は不要。

 女なんて馬鹿でも結婚すれば暮らしていけるから幸せだよな

 女なんて化粧して股開けば暮らしていけるから幸せだよな

 女なんて

 女なんて


 真玖郎の恨めしい気持ちがどんどん俺の中に流れ込んできた。俺は真玖郎の辛い気持ちと俺として真玖郎の思考を覗き見た気持ち悪さで頭がおかしくなりそうだった。助けを求めにドアノブに手をかけると、ひどい頭痛がした。ここから先に出たら死ぬ。真玖郎はそう思い込んでいた。ドアノブを触らないことは、真玖郎の防衛反応だった。


 俺は汚い毛布にくるまって真玖郎の帰りを待った。とにかく動けなかった。何もやる気が起きないし、身体が鉛のように重い。デブだからというだけではない。本当に体も頭も働かない。そうして真玖郎は十年も過ごしてしまった。


「なんだ、誰も真玖郎のことを考えていなかったんだな……」


 俺は兄貴の話を聞いて、真玖郎をちょっと外に誘ってキャバクラあたりで一杯酒でもひっかければなんとかなると思っていた。そんな俺を今の俺はぶん殴りたいと思った。ああ、真玖郎さえ帰ってくれば。真玖郎さえ帰ってくれば……。


 俺は地獄のような思いで三日ほどベッドで過ごした。飯は時間になると扉が開いて、菓子パンとかカップラーメンが置いてあった。真玖郎はこういうのしか食わないらしい。パソコンの電源もついたままであったが、流石に中を見るのはやめておいた。それは男としての俺の矜持だ。


 俺が悶々としていると突然、ドアが開いた。俺の身体の真玖郎が戻ってきたのだ。


「おじさん! 戻ってきたよ!」


 真玖郎はやつれた俺を見て、そして笑った。


「いやあ、僕、思ったより汚ったないですね! 後で風呂入りますわ!」


 そして真玖郎は俺の身体で外へ出たことをまくし立て始めた。外に出たら意外と誰も自分を気にしなかったこと。筋肉質の肉体は疲れにくくていいこと。そして何より、金がなくなったら暮らしていけないことを話した。


「おじさんの身体になってやっとわかったよ。失敗が怖いのはみんな一緒。でも、お金を払えばみんな僕のことを人間扱いしてくれる。僕、お金が欲しい! そのためにアルバイトとかしなきゃ! ほら、この駅前で配っていたチラシ見て! ぼくにもできそう!」


 俺はたった三日で真玖郎が目を覚まして戻ってきたことに感動した。チラシには「ものを運搬するだけの楽なバイトです」と書いてあった。やる気になっているところ申し訳ないが、このバイトは止めた方がいいと思うぞ。


「でも、身体がこのままじゃ……」

「それは今から僕がお父さんに聞いてみるよ」


 ああ、とにもかくにも真玖郎が前向きになってくれてよかった。でも、こいつは本当に何で急に戻ってきたんだ? 俺は真玖郎にそう尋ねた。


「いやあ、実はおじさんのカード限界までソープとパチンコと競馬に突っ込んじゃって。あとサラ金って便利だね。それで僕、お金があるっていいなあって思ったんだ」


 俺は真玖郎に食って掛かった。その拍子に倒れた俺たちはまた頭を打って、ようやく元に戻れた。真玖郎は多少前向きになったようだが、俺にはろくでもない借金が残された。それは後で兄貴に「真玖郎の更生代金」として請求しようと思っている。


<了>

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