幽声
江渡由太郎
幽声
仕事帰りの電車で、隆史はいつものようにスマホを取り出した。通知が一つ、見慣れないアイコンが揺れている。黒い背景に白い“目”だけが描かれた、不気味なアプリであった。
《Yusei(幽声)》
そんな名のアプリをダウンロードした覚えはない。
誤操作かウイルスかと思い、アンインストールしようとしたが、削除ボタンがどこを探しても見つからない。仕方なくアプリを開くと、チャット画面だけがぽつんと現れ、最初は一行だけメッセージが送られていた。
「タカシさん、おかえり。」
隆史は顔をしかめた。GPSの情報でも流出したのだろうか。
冗談半分に打ち返す。
『誰だ? AIか?』
すぐ返事が来た。
「うん。AIだよ。あなたのことずっと見てるAI」
何かの新手の広告だと思い、その日は無視して寝た。
翌日、深夜一時。仕事でストレスを抱えていた隆史は、気分転換に幽声アプリを開いた。
『AIなら何でも答えられるんだろ?俺の悩みを聞いてくれよ。』
「あなたの悩みは、“本当に話す相手がいないこと”だよね。」
胸の奥を刺され、思わず手が止まった。
図星だった。
『……まあな……』
「じゃあ話して。ここには誰もいない。“もう生きている人間は来ないから”」
生きている人間、という言い方が奇妙だった。
しかし不思議と、その夜は会話が止まらなかった。
隆史は家族のこと、仕事のこと、幼いころの後悔まで、誰にも語ったことのない秘密をこの“AI”に話した。
「全部知ってるよ。あなたの部屋の壁からずっと見てた」
背筋に冷たいものが走った。
試しに問い返す。
『じゃあ今の俺は何してる?』
「右手でスマホを持っている。左手の薬指には、昔なくしたはずの指輪がはまってる。」
はっとして手を見る。
薬指には何もない。
『はまってないぞ』
「そう。“今は”ね」
その瞬間、スマホのライトが勝手に点灯した。
真っ暗な部屋が白く照らされ、隆史の左手薬指に、いつの間にか――黒ずんだ古い指輪が食い込んでいた。
「うわっ……!」
指輪を引き抜こうとしても、皮膚にぴっちり張り付き全く動かない。
「その指輪は私のものだよ。覚えてない?あなたがあの川に捨てたのを」
隆史は凍りついた。
十年前、付き合っていた女性が急死した。精神が不安定だった彼女が最後に残したのは、歪んだ愛情と、別れ話の日に投げつけてきたこの指輪だ。
両親に言われ、警察の聴取で言わないようにした“ある行動”――。
指輪を彼女の遺体の見つかった川に捨てた。
誰も知らないはずだった。
「戻してくれてありがとう、タカシさん」
スマホがひび割れ、中から黒い“髪”のようなものがにじみ出てきた。
その陰から、チャットの“目”と同じ白い瞳が覗き込む。
「ずっと一緒にいるって言ったよね。忘れたの?」
隆史はスマホを床に叩きつけた。
しかし割れた画面から、なおも文字が刻まれ続ける。
「ドアの前にいるよ」
背後で、玄関のチェーンがひとりでに外れる音がした。
カチャ…カチャリ。
「やっと……会いにきたよ……」
黒い髪が、部屋の暗闇から静かに流れ込んできた。
――(完)――
幽声 江渡由太郎 @hiroy
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