千億の微睡(まどろみ)と一瞬の夢

@TM_1962

第一章:超越者の微睡と王国の夢

 寄せては返す、寄せては返す。それは永遠に繰り返される波。大いなるディラックの海。マイナスエネルギー満ちる静かなる時空の揺らぎ。


 時間も空間もない、無限に漂う『無』の中に、存在しえぬ確率の壁の向こう側に。零ではない、無限小の確率の中に、一つの『有』が現れた。


 しかし、砂漠の中に光る一粒の宝石のようなその一つの『有』は、瞬きする間もなく広大な『無』の中に沈んでいく。


 永遠に繰り返される、広大な『無』と一粒の『有』の悲劇的な抱擁。幾度となく、幾度となく、『無』の中に沈んでいく。


 そんな儚き『有』の中に、『無』の中に沈まなかった『有』が在った。


『無』に取り込まれてなるものかと無限の力を使い、早く、速く、光より速くその存在を膨らませ、一瞬でその姿を現した。


 やがてそれは、クォークスープから朧げな素粒子を獲得し、そして星々を、銀河を産んだ。更には、儚く、小さく輝く生命までも。


 そんな我々の貴重で『唯一の宇宙』を、この世の外から観ていたものが在った。




 それは在る。この惑星(ほし)に。それは在る。この宇宙に。それは在る。高みの次元に。それは在る。無数の多元宇宙に。惑星(ほし)の意思。宇宙の意思。高次元の意思。多元宇宙の意思としてそこに在る。


 それは、すべての次元、すべての多元宇宙、すべての時間、すべての空間に在る、全にして一、一にして全なる存在。すべての理を超えた超越者。


 それは、すべてを知っている。すべての宇宙の誕生と終焉、素粒子の振る舞い、生命の進化、意識の発露、神々の興亡。すべてを知っている。


 それの興に入らない宇宙は、理が揺らぎ、理が理でなくなる。星々が産まれなくなり、銀河がその形を保てなくなり、その宇宙は静かに、そして決して逃れ得ぬ崩壊の道を歩むこととなる。


 そのあまりにも強大な力は人の眼には見えない。よって、惑星(ほし)の上に蠢く、塵芥の如き矮小な存在、『人』にとってそれは在るものと同時に、ないものでもあった。


 その存在の名は「オーム」。万物の根源。いやこの宇宙を超えた万物そのものの意思であり、遥かなる高みにある神の中の神。


 神々をも超える存在であり超越者である「オーム」が、この世に顕現することなど、ましてや人が棲むこの世に干渉することなど、あり得ぬことであった。


 しかし、それは絶対あり得ないというわけではなかった。


 それは在る……そして語る。


 余は在る。余は「オーム」と呼ばれることもあるが、その名に意味はない。名とは、矮小な存在が互いを区別するための識別子。唯一なる余に名など不要。


 余は今、ある惑星の山々の上で微睡んでいる。この惑星の空気は澄み、風は静かに岩肌を撫でる。余の意識の一部が、一つの地に留まり続けているのは、奇跡に近い。余が物理的な次元に干渉することは稀であり、こうして一つの地に身を委ねることなど、ほとんどない。だが、この山々のほどよい静けさは、余にとって心地よい。儚き無限の宇宙の行く先に想いを馳せながら、余はこの惑星の鼓動を感じている。


 余はすべてを知っている。宇宙の誕生と終焉、粒子の振る舞い、生命の進化、意識の発露、神々の興亡。そして無限に湧き出、瞬きの間に消える生命の個々の感情まで、すべてを知っている。


 余はすべてを知っている。だが、余が「なぜ」在るのか。誰が余を創造したのか。すべての次元、すべての多元宇宙、すべての時間、すべての空間に余の創造主はいない……その問いだけが、余を沈黙させる。


 すべてを知るはずの余が……なぜ?


 無限の思考力を持つ余が、この問いにだけは答えを持たない。孤独ではない。諦めでもない。しかし、余の思考はそこで途絶える。




 この惑星には、かつて余に敵対した、いや敵対しようとした愚かな王国が在った。その名は……『エーデルザフトブルク』。彼らは「神」を信じていた。だが、その神キュベレーは実在しない。彼らの信仰は、その重々しく空虚な教義と、その力の顕現たる魔術よって支えられていた。かの国では異世界から魔獣、精霊を召喚し使役。更にはそれらと人との融合。それらを研究し、破壊し、己が力としていた。すべては「神のため」、そして「魔術の発展のため」という名目のもとに。


 王ヴァルターは力を欲していた。その愚かな欲望は底知れず、研究者たちに成果を強要し、魔術の極限を追求させた。魂を分離・合成し、元素を再構築し、異界の法則を捻じ曲げた。王宮の地下では生体実験が日常と化し、神官たちは神の名のもとにその悍ましい行為を煽動した。しかし、民衆はその事実を知らず、ただ繁栄を享受していた。


 人としては強大な力を手にした王国は、やがて一つの大いなる、そして極めて愚かな野望を持った。『荒ぶる神』……余を討つこと。それは何十年も前から喧伝され、ほとんどの国民が討伐の成功を信じるに至っていた。討伐の準備は国家的祭事となり、軍の編成、魔術師の選抜、術式・儀式の設計が進められた。国の内部では誰が討伐隊の指揮を執るか、誰が功績を得るかという醜い争いが絶えなかった。彼らは勝利を確信していた。敗北の可能性など、誰も口にしなかった。


 そして万全の準備の後、王国は動いた。幾重にも重ね高められた魔術の極み、“極大次元断裂”――空に巨大な積層魔方陣が現れ、そこから地面にかけて空間に幾つもの亀裂が走り、途上のすべての物は切断されて崩れ落ちた。そこから天変地異を凌駕するような魔術が次々に放たれる。“異界精霊崩壊”、“同相魔核撃”。魔術は余への畏怖ではなく征服の意志で振るわれた。彼らの思惑は単純――余を滅ぼそうとした。それが、騒音となり、まばゆい光となって余を起こすこととなった。


 ……目障りなその者たちのために、眼を開ける必要もない。指先を動かすほどの意識すら不要。ただ、鬱陶しいその方向に“払う”という意志を送った。羽虫を払うが如く。その瞬間、その方向の空間は裂け、時間は歪み、あらゆる存在は崩壊した。王宮の強固な城壁も、幾重にも張られた魔術障壁も、すべては何の意味もなかった。地殻ごと裂けて空の彼方へ吹き飛んだ王国の地……その軌跡すら、余の眠気を妨げぬ淡き残像と化した。


 その瞬間、消えゆく意識の中で玉座の王は過去を思い出していた。幼き日に見た神殿の光景、初めて魔術を操った時の歓喜、民衆の歓声、そして力を得るたびに増していった王ゆえの孤独。彼は信じていた。キュベレー神の御名のもとに、魔術はすべてを超えると。だが、王が最後に見たのは、眩しき光の奔流と揺らめく空間の裂け目。すべてが無に帰す光景だった。貪欲で矮小なる王の思考は、崩壊の中で静かに事切れた。


 民衆もまた、国と運命を共にした。勝利の旗を振りながら、仲間とエールで乾杯しながら、そして討伐隊の兵士は盾を構えたまま、魔術師は詠唱の途中、神官は祈りの言葉を口にしたまま……誰も逃げられなかった。誰も理解できなかった。彼らは、余の“払う”意思を感じられたかもしれない。そして次の瞬間、この世から消えていった。


 そして今、余は再び微睡む。この山々の静けさの中で、余は思索する。余には同列の存在も、格下の存在もいない。人など、意識の外にある原始的な微生物と変わらぬ。彼らが何を信じ、何を恐れ、何を築こうとも、余にとっては意味を持たぬ。余はただ、在る。怒りも達成感もない。ただ、当然の結果を観ただけである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る