躍進期⑲ 誰にも教えていなかった

2010年11月14日(日)


奈良県吉野郡西吉野村 自宅にて


秋も深まってきた。

昨夜は満天の星空が広がっていたせいか、今朝は一段と冷え込み、冬の足音が聞こえてくるような寒い朝を迎えた。もっとも、激しい運動をするにはかえって好都合な気温だと言えるだろう。

私と寧音は自宅を出て、谷を挟んで向かい側に建つお寺まで運動を兼ねて散歩することにした。


「紅葉の季節も終わりね。いよいよ冬も間近だって感じるわよね?」


「そうだね。家に帰ったら床暖房のバルブを開けるとするか」


この集落をはじめ紀伊山地では、各戸に設置された太陽熱温水器で温められたお湯を使って、風呂や床暖房などに活用する家庭が多いのだった。


「それにしても……」と言いながら寧音は、お寺の境内から向かい側に見える自宅を含む集落全体を見渡して言った。


「最初に来た時と比べたら風景が様変わりしたわよね。ここまで住宅が増えるとは思わなかったわ」


その通りだと思った。

当時空き家だった物件は、社員寮として使用できるように建て替えられ、全て満室となっているし、空き地を利用して新たな建物も建てられて、最初に見た風景と比較すると、確実に3倍以上の軒数になっているはずだった。


そこに住むのはヤタガラスなどに採用された若い男女で、この小さな集落は、いつの間にか若い人々で活気にあふれる場所へと変わっていた。


「うん。この集落にも日用品とか食料品を扱うお店や、娯楽施設も欲しいところだね。それに子供もこれから生まれてくるだろうし、保育園や学校の整備を始めなくちゃね」


私のプランは第二フェーズへ移行していくことになるだろう。まだまだ手を抜ける段階ではない。

私がそんなことを考えながら風景を見ていると、彼女が話題を変えた。


「今日はいよいよマラソン大会よね。盛り上がるかしら?」


そうだ。今日は第一回「大和の都マラソン」が開催されるのだ。


「いろいろ仕掛けてあるからね。まずはランナーの皆さんの驚く顔が見られるんじゃないかな?」


そう言って私は寧音と笑いあった。



奈良県五條市 豊臣本社ビル前 大和広場にて


午前8時半。


現在の気温は7℃。

五條の街は盆地特有の冷気に満たされていた。

だが、空は雲一つないほど晴れ渡り、晩秋らしい空の高さとなっていた。


これから30分後、ここから多くのランナーが日頃の健脚を披露するマラソン大会がスタートする。


種目はフルマラソンと10km。


コース上には約2.5km毎にトイレ併設の大規模なエイドステーションが並び、奈良県内の特産物がランナーに提供される。すでに交通規制も始まっていて、五條市内は初のマラソン大会開催で盛り上がっている頃合いだろう。


コースは五條市内と西吉野村を往復するという、比較的高低差の少ない走りやすい設定で、今回の募集人員は5000人だ。

本当は1万人以上の大きな大会を目指していたが、何といっても初めて開催する大会だから運営ノウハウというものが不足していた。だから、まずは中規模大会を開催し、徐々に大きな大会へと育てていく予定だ。


第一回東京マラソンが開催されてから3年余り、日本でも大型の市民マラソンが定着しつつあり、私としてもこの街に集客してもっと盛り上げるためにも、是非やりたかったイベントの一つだ。


ランナー目線で見ると、エントリー費用はフルマラソンで5000円と平均的な金額だ。だが、それに比べると用意した景品や賞品類は、ある「仕掛け」によって景品表示法を完全にクリアしつつ、限界まで豪華に仕上がっていた。


通常、エントリー費5000円の大会において、全員に一律で配る景品の上限額は、法律で取引価額の2割、つまり1000円までと定められている。完走賞のバスタオルやメダル、ドリンク、柿の葉寿司、バナナをそのまま計算に含めると、それだけで上限枠が埋まってしまう計算になる。


そこで私は、3つのアプローチでこの壁を合法的に突破する計画を立てた。


まず、全員に配る完走賞のバスタオルとメダルには、豊臣グループ各社で構成されるスポンサーロゴを大きく入れ、純粋な景品ではなく「協賛企業の広告宣伝物」という建て付けにすることで、1000円の制限枠から除外した。これで食品やドリンクの原価を合わせても、法律の規制ラインをきっちりクリアできる。


次に、目玉となるApple製品や、Google、YGNの先端ガジェット類は、すべて「懸賞」扱いにした。男女別・年代別の上位入賞者はもちろん、遠来賞や最高齢完走賞、さらには100位や500位といった「飛び賞」を設定し、成績や運で手に入る形にしたのだ。一般懸賞の扱いになれば、一商品あたり最高10万円まで合法的に提供できるため、豪華な副賞を何本でも用意することが可能になる。

これとは別に100位ごとに少額の商品券を散りばめた飛び賞を大量に作ったのも、全体の完走意欲を煽るための仕掛けだ。


最後の一押しが、ランナーにとって最大の支援となる沿道の「おもてなし」だ。コース上のエイドステーションで提供する補給食を大会運営からの配給ではなく、地元の有志や商店街による「私設エイドの自主的な振る舞い」という形式にした。五條や西吉野の皆さんが自発的に特産の梅干しや温かいにゅうめん、追加の柿の葉寿司を振る舞う分には、景品表示法の対象外となる。


手ぶらで走っても地元の名物でお腹いっぱいになり、おまけに最先端ガジェットが当たるチャンスまである。


それらは募集時の開催要項には記載されておらず、受付でゼッケンを受け取る際にそれを知り、ランナーたちは目を丸くしていたらしい。

その報告を聞き、してやったりの気持ちになった。

これで、相当なインパクトを来場者に与えられただろうと。


だが、お楽しみはこれからだ。


ちなみに、受付時に行った参加者へのアンケートによれば、5000人のうち約8割が五條市を訪れるのは初めてという回答だった。そして、近隣で観光してみたい場所としては、戦艦大和が他を大きく引き離して人気のトップに立っていた。


私は豊臣ビル前に設置された大会本部に寧音と共に座っていた。大会会長は私だから、開会の挨拶とスターター役をせねばならないのだった。


目の前には通称「大和池」と名付けられた遊水地が広がり、その中央には原寸大の戦艦大和が圧倒的な存在感を放ちながら鎮座しており、人々の目を釘付けにしていた。


スタート地点にはすでに多くのランナーが整列を始めていた。スタート順はエントリー時の申告タイムの速い順で、先頭がAブロック。以下Kブロックまで設定されており、各ランナーは大和池を囲むように指定された各エリアへ集合しつつある。


だが、ここに集った人々には大会関係者を含めて、まだ知らせていないことがある。


実はこの大和が今日初めて『主砲を発射する』というお披露目の場なのだ。

午前9時ジャストのスタートに合わせて、9門の主砲が一斉に花火を打ち上げる予定になっている。


ここ一帯が竣工した日から今日まで、私は竹中重治のアドバイスを参考に、時間をかけて大和の砲塔と主砲を密かに改造していた。

もっとも、改造工事は艦内だけで行われたから、外部の人間には察知されなかったはずだ。


発射装置の構造そのものは一般の打ち上げ花火の装置と大差ない。

違いがあるとすれば、大和の巨大な砲身内部に花火打ち上げ用の専用発射筒を組み込み、安全かつ確実に打ち上げられるようにしたことだろう。


砲塔内部での作業は、かつて本物の戦艦大和が主砲弾を発射したのと同じようなプロセスを経て行われる。花火玉とそれを打ち上げるための装薬は、砲塔下部の弾火薬庫にそれぞれ保管されており、ほぼ自動で装填される仕組みだった。


まず、花火師が主砲砲身の尾栓を開け、砲身内に異物がないか確認したのち、花火玉、続いて装薬がラマーと呼ばれる太い金属棒を用いて自動装填された後に、花火師が尾栓を確実にロックする。


各砲門の発射準備が整うと、『砲術長』が砲塔の旋回と、砲門を最大仰角の80度まで上げることを命令する。

これに伴って防空指揮所の上に設置された世界最大級の15m測距儀も、特に意味はないものの、『目標』方向へ指向される。


全砲塔と全砲門の発射準備が完了してグリーランプが九つ点灯したことを確認し、『艦長』の発射命令に従って砲術長が発射ボタンを押すという流れだった。


発射後は砲身の仰角を元に戻し、尾栓を再び開けて内部の状況を確認し、花火玉と装薬を装填して……という作業を繰り返すのだが、それは後日、花火大会が開催されたときに行われる作業であって、今回はスタートの祝砲として一回だけ発射して終わりの予定だった。


ところで、艦長役は小二郎が志願してきたので任せた。彼なら時間ぴったりに花火を発射するだろう。


8時45分になり、開会のセレモニーが始まった。

私も司会者に呼ばれ壇上に上がり、マイクの前に立った。

すでに会場にはランナーが整列を終えていて、5000人という数字以上の熱気を感じた。

周辺には見物客や応援のために集まった多くの人たちがあふれていた。


「ランナーの皆さん。おはようございます!

マラソンを走り抜けるには絶好の気温と天候に恵まれましたので、良い記録が出ることをお祈りしています。日頃の練習の成果を存分に発揮してください。さて、皆さんにはお知らせしておりませんでしたが、今大会のスタートを記念して、ある催し物を行います」


私はここで言葉を区切り、ランナーたちの反応を見た。

まあ無反応といったところか。中には「こいつが木下か」と思ったのか、好奇の目を向けてくる人が結構いたが、これも想像していた通りだ。


私は戦艦大和を指さしながら言った。


「というわけで、池の中にある戦艦大和に注目しておいてください。スタート直後にイベントがありますので、楽しんでいただければ幸いです。では、間もなくスタートです。皆様のご健闘をお祈りします!頑張ってください!」


近くにいた大会実行委員長が、私の言葉を聞いて不思議そうに首を傾げたのが目に入った。

挨拶が終わり、次に私はゆっくりとスタート台の方向へと向かった。


時計は8時57分を指し、「スタート3分前です!」のアナウンスが流れた。


会場の雰囲気は一気に緊張したものへと変わりつつある。その場でシューズの紐を確認するランナーもいれば、軽くストレッチをするランナーもいる。私の近くでスタートを待つ若い男性ランナーは、手のひらで太ももをパンパンと叩き、気合を入れ直している。


だが、そんな中でも大和の方向に目を向けたランナーの目が、驚きの表情と共に見開かれているのが見えた。


最初に気づいたランナーが大和を指差す。


それにつられたかのように周囲のランナーが大和に目を向けると、彼らの表情もまた驚愕に歪んでいた。

やがて、ざわめきが徐々に拡がっていく。


「お、おい。あれ……」


「……動いてる?」


「まさかとは思うが……」


そんな声が聞こえてきたが、この大和池を取り囲むように整列しているランナーが、共通して抱く思いは「動くなんて聞いていない」だろう。


3基の巨大な主砲塔がゆっくりとこちらに向くのが見えた。同時に主砲の砲身が徐々に仰角を付けて上を向いていく。


それに合わせて艦橋頂上部に設置している15m測距儀が連動して、こちらに向け動き始めた。

さらに……巨大なスクリュープロペラが回転し始めているのがはっきりと見えた。


水で満たされたら、そのまま水上を走り始めるのではないか、目撃した人たちはそんなふうに思ったのではないだろうか。


そうこうしているうちにスタート時刻が近づいてきた。


司会者が叫んだ。


「スタート10秒前! On your marks!」


私まで緊張してきたが、右手に持ったスターターを上空に向け、時計を見ながら午前9時ちょうどに引き金を引い……たつもりだった。

だが、緊張しすぎたせいか、指に力が入らない。発射しない。


そのもたつきは時間にすれば0.5秒か、0.6秒くらいの短い時間だったはずだが、大和の主砲が先に火を噴いた。


3基9門の主砲から火柱と白煙が一斉に噴き上がる。


ドォォォン!!


次の瞬間、腹の底まで揺さぶるような重低音が大和池一帯に轟いた。

砲口から吹き出した白煙は朝の冷たい空気の中で一気に広がり、まるで本物の戦艦が砲撃を開始したかのような光景を作り出していた。


音とほぼ同時に胸を押されるような圧力が襲い、背後の豊臣ビルのガラスが揺れたのではないかと思うほどの風圧を感じた。

あまりの衝撃に私も一瞬固まってしまったが、慌ててもう一度引き金を引く。


パーン!


乾いた音が響き渡った。しかし、その音をスタートの合図として受け取れた者はほとんどいなかった。

全員が大和の方向へと目を奪われており、私が失敗したことにすら気づいてはいなさそうだった。

それどころか大きなどよめきが起こった。


「うおおおおっ!?」


「マジかよ!!」


「なんだあれ!?」


ランナーたちから悲鳴とも歓声ともつかない声が上がった。

本格的な練習をしてこの日に備えてきただろう先頭のランナーたちですら、走り始めることを忘れたかのように立ち止まったままだった。


しかも先導役の白バイ隊員たちですら、地面に足をつけたまま大和の方向を向き、呆然とした表情をしていた。


誰もが驚いていたのがわかった。

だが驚きはまだ終わらなかった。


九つの砲口から放たれた花火玉が、高く高く晩秋の空へと上がっていく。


そして……


ドドドォォォンン!


九輪の大輪がほぼ同時に青空の中で咲き誇った。


赤、青、金、緑。

色とりどりの光が晩秋の澄んだ空いっぱいに広がる。

通常なら夜空を彩り、観客を沸かせるはずの一尺半玉である。それが戦艦大和の主砲から放たれ、朝の青空に九輪同時に咲いたのだから、その光景は現実離れしていた。


「すげえ……」


誰かが呟いた。


その声は多くの人の気持ちを代弁していたと思う。


大和は動いた。そして主砲は発射された。

しかも発射されたのは模型用の演出装置ではなく、本物さながらの巨大な花火発射システムだったのだ。


会場全体が歓声に包まれる。


その歓声に背中を押されるように、ようやく先頭集団が走り始めた。

それにつられて後続のランナーたちも次々と前へ進む。


我に返った司会者が慌てて叫ぶ。


「ス、スタートしております!ランナーの皆さん前へお進みください!」


その声に会場から笑いが起きた。

そうだった。秘密を守るために司会者にすら教えていなかったのだった。ちょっと申し訳ないことをしただろうか。


本来ならスターターの音と同時に大会が始まり、スタートライン近くに並んだ和太鼓による応援演奏が始まるはずだった。

だが、関係者を含めほとんどのランナーが大和を見つめ、空を見上げ、10秒近くその場に立ち尽くしてしまったのだ。


私はそんな光景を見ながら思わず苦笑した。


「まあ、そうなるよな」などとつぶやき、本来なら私の号砲で始まるはずだったのだが、主役の座は完全に大和に奪われてしまった。


大和が動いたという事実は、今日の大きなニュースとして全国に知れ渡るだろうなと思った。


本部に戻ると寧音も笑っていた。


「藤一郎、あなた、完全にマラソン大会の主役の座を奪われちゃったわね」


「まあね。ちょっと慌ててしまったからね」


そう言いつつも、大きな満足感があった。


見送るランナーたちの表情は実に良かった。

驚き。興奮。そして笑顔。遠方から来た人たちも、きっと今日のことを忘れないだろう。


大会実行委員長が私に歩み寄って笑顔を見せた。


「木下さん!いやぁ……こんな仕掛けがあったなんて予想もしていませんでしたよ。あの大和が動くなんてねえ……しかも花火を打ち上げるなんてすごい演出効果だ」


「いや、驚かすつもりは……ありましたね」


私が笑ってそう言うと、委員長はあきれたように言った。


「あの大和が姿を現してから半年以上経ち、すっかり見慣れていたものですから不意を突かれました。本当に木下さんは策士だ」


「不意を突かれた」これが多分、現場にいた五條市民の感想を代表するものだろうなと思った。


第一回大和の都マラソン。


そのスタートは、9門の主砲が咲かせた九輪の花火とともに幕を開けたのだった。


その日のネット空間では、この話題で持ちきりだったそうだ。また一つ、五條に名物が誕生したと感じた。


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