サーチライト

きょうじゅ

本文

 書く事だけなら、ぼくにもできそうだ、と。そう、思ったのだ。


 僕の名前は非。韓の王族の生まれだから、姓をあえて含めて名乗るなら韓非となる。まあ韓子(韓先生)とでも韓非子かんぴし(韓非先生)とでも呼んでくれるといい。それだけの知恵と才覚は持ち合わせて生まれてきたつもりだ。


 いま中原に覇を唱える者はなく、天下は乱れに乱れている。戦国の七雄と呼ばれる諸国のうちで秦が最大の国で、おそらくは天下を統一するなら秦であろうと目されてはいるが、それでは困るのである。なぜってぼくは韓の王子のはしくれだからだ。王位継承権で数えればだいぶ下の方だし、別に重きを置かれるというほど特別な地位に居るわけじゃあないし、何より韓は七雄諸国の中ではもっとも弱くて立場の危うい国だが、そうはいっても祖国なのである。滅びてしまっては困る。だから、僕は僕なりに、祖国のためにできることはやろうとした。異端の儒者として名高い、荀子(荀況先生)の門下に入って学問を収めてきたのも祖国のためだ。


 だけど正直、あんまり楽しい日々ではなかった。僕には生まれついての、そしてこの年になっても治らない重い吃音どもりがある。どんな難しい哲学の題を解こうが、どんな高邁な儒家の学説を説こうが、僕が口を開くたびに同門の者たちはひそひそと囁き合って僕を嗤った。笑わない奴と言えば、同期の中では李斯りしのやつくらいなものだ。


 だが、文章題を解くことにかけては僕は誰にも負けなかった。師にも認められていたし、李斯のやつなんかは『俺もお前さんにだけは絶対に敵わないよ』なんて言っていた。


 だから、僕は思ったのだ。国策を一書をしたため、王に献じて、以て祖国に尽くさんと。


 それで、書いた。まあ書いた。どんどん書いた。だが、正直なところうちの国の王は(いちおう親戚だからあまり悪く言いたくはないのだが)ろくでもない重臣ばかりを取り立てて真面目に政治をする気がなく、僕の懸命の献策をまじめに取り上げようとはしなかった。僕は頭に来たので、それについても書いた。


「法術の士で君主に認められたいと願っている者は、君主から信頼され愛されるという親密さを持たず、古くからの馴じみの恩恵もあるわけではない。そのうえ、法術のきびしい言葉によって君主の曲がった悪心を矯正しようとするものだから、これは、君主とまっこうから対立するものである。彼らはしたがって地位も身分も低く、仲間もなくて孤独である。そもそも君主と疎遠な身で、君主に近しく愛され信頼されている者と争ったのでは、道理として勝ちめはない(金子治訳:岩波文庫『韓非子』)」。


 正直なところ、祖国には愛想が尽きた。最近、文が届いたんだが、李斯のやつが秦に仕官しないか、という。あいつはいま秦の王に仕えていて、ずいぶんと出世を遂げているそうだ。その秦の王という人物がどこで手に手に入れたんだか僕の書いたものを読んで、興味を示してくれたという。


 だから、秦に行くことにした。秦の王のせいというのは、具体的にどういう人物であるのかは知らないが随分と有能な男であるらしいから。あいにく大臣だなんて柄じゃあないから李斯のやつが期待してくれているほど秦で出世を遂げられるかは分からないが、今度は秦王のために、書いてみるとしよう。僕の書ける限り、あらん限りの、この世界の道を照らすための光を。


 それなら、ぼくにもできそうだから。

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サーチライト きょうじゅ @Fake_Proffesor

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