僕と悪魔の胸の奥

菊田優

第1話 雨の底

 王都には、光の届かない場所がある。


 石造りの楼閣が立ち並ぶ中心街。その影に押し出されるように、

 廃材と破れた布を寄せ集めて作られた地区が広がっていた。


 灰街はいまち


 誰も正確な地図を作ろうとしないほど、路地は入り組んでいる。

 その迷路を、シグリルは息を切らせながら駆けていた。


 細かな雨が、灰色の屋根と泥まみれの石畳を叩く。

 外套のポケットの中で、銅貨が数枚、心もとない音を立てた。


(……足りないのは分かってる)


 妹の薬を買うには、明らかに少ない。

 それでも今日は、どうしても薬屋を覗いておきたかった。


「――まだ、開いててくれ……」


 細い希望を胸に、シグリルは小さな木の扉の前で足を止めた。


 看板代わりの古びた板。

 その横に、新しい札が打ち付けられている。


結晶疫クリスト・ペスト患者への販売制限 ※王都医療院およびギルド通達による》


 その一文を読んだ瞬間、

 シグリルの呼吸が、ひゅっと浅くなった。


「……また、増えてる」


 前に来たときは、「高額薬の販売制限」だけだった。

 今は、病名そのものが札に刻まれている。


 シグリアの腕に広がる、白く細い紋様が頭に浮かぶ。


(買える買えないの前に、“売っちゃいけないもの”にされたってことか……)


 扉を軽く叩いてみる。

 中から、人の気配はしない。鍵もかけられているようだった。


 何度か呼んでみても、応答はない。


 ――灰街ごと、切り捨てられたような感覚。


 喉の奥が、少し焼けるように熱かった。


「……分かってたろ。今さらだ」


 小さく自分に言い聞かせ、店先から離れようとした、そのとき。


 通りの端に吊るされていた古い魔石ランプが、

 ぴしり、と小さくひび割れた。


 灰街では、珍しい音ではない。

 湿気に弱い粗悪品は、すぐ壊れる。

 雨の日には、よくあることだ。


 ただ、妙だったのは――


 シグリルが一歩、動き出した瞬間に、破裂したことだった。


 ぱん、と軽い破裂音。

 ひび割れたガラス片が、雨水の中に散らばる。


(……たまたまだ)


 振り返りかけて、シグリルはやめた。


 胸元に手を当てる。

 いつもより、少し早い鼓動。呼吸がうまく合わない。


 生まれつき、走るとすぐに息が上がる体質だ。

 それだけのはずだ、と自分に言い聞かせる。


(変なこと、考えるな)


 雨の日は、ただでさえ気分が沈む。

 余計な不安を増やしても、いいことはない。


 シグリルは、背を向けて歩き出した。


 その背後で、割れたランプの中の魔石が、

 ほんの一瞬だけ、煤けたような色に瞬いたことには気づかないまま。


 


 大通りへ続く少し広い路地に出ると、

 濃い影がひとつ、雨の幕の中から現れた。


「おい、少年」


 低い声に振り返る。


 濡れた鎧。厚い肩。

 胸元には、見慣れない紋章――巨大ギルド《アースフォーデル》の印。


 灰街でその紋章を見ることは、滅多にない。


「……な、何か用ですか?」


 思わず一歩、後ずさる。


 男は、険しい顔のままシグリルを見下ろした。


「この辺りで、“妙な反応”が出ていてな。確認の巡回だ」


 淡々とした口調。

 だからこそ、この場所では異質だった。


 灰街に“巡回”など、普通は来ない。

 守る価値のない場所と、ずっとそう扱われてきた。


「妙な……反応?」


「魔石や魔物、契約者。何でもいい。

 ここ数日、王都の外れで変な揺れ方をする魔力が多いんだ」


 男の視線が、ふとシグリルの胸元で止まる。


「息が荒いな。具合は?」


「……さっきまで走ってたので」


 シグリルは、できるだけ何でもないふうに答えた。


「病気じゃ、ないです」


 結晶疫という言葉だけは、何としても口にしたくなかった。


「そうか」


 男はそれ以上踏み込んではこなかった。


 ただ、空気が少し重くなる。

 雨音が遠くなったような感覚だけが残る。


(早く行こう)


 背筋にじんわりと冷たい汗が滲む。


「……僕、もう帰ります。妹が待ってるので」


「灰街の子か」


 男は小さく鼻を鳴らした。


「夜が濃くなる前に帰れ。ここ最近、森側も静かじゃない」


「……はい」


 会釈をして通り過ぎる。


 背を向けたあと、男が何かをつぶやいた気配がした。


 聞き取れないほどの小さな声。


「――消えたか。……気のせいなら、それでいいが」


 シグリルには届かないまま、言葉は雨に紛れた。


 


 灰街の路地を再び走るうちに、

 胸の違和感は、さっきより少しだけ薄れていった。


 家に近づけば近づくほど、

 重くなっていた足が、自然と軽くなる気がする。


(大丈夫だ。僕は普通だ)


 薬屋に閉め出されても。

 ギルドの男に睨まれても。


(胸の苦しさも、きっと疲れのせいだ)


 自分にそう言い聞かせているうちに、

 雨音は、少しだけ優しく聞こえるようになっていた。


 


 やがて、見慣れた建物が視界に入る。


 歪んだ木の扉。雨でふやけた壁。

 それでも、シグリルにとっては一番落ち着く場所。


 扉の隙間から、かすかな咳の音が漏れてきた。


「……ただいま。シグリア」


 そっと扉を開けて声をかける。


 薄暗い部屋の奥から、小さな返事が返ってきた。


「おかえり、シグリル」


 その声を聞いた瞬間、

 胸の奥でかすかに揺れていた何かは、

 まるで眠るように静かになった。


 雨の底で。


 誰も知らないまま――物語が静かに動き始めていた。 王都には、光の届かない場所がある。


 石造りの楼閣が立ち並ぶ中心街。その影に押し出されるように、

 廃棄された木材と破れた布を寄せ集めて建てられた地区があった。


 灰街(はいまち)。


 誰も正確な地図を作らないほど入り組んだ路地を、

 シグリルは息を切らしながら走っていた。


 外套のポケットには銅貨が数枚。

 妹の薬を買うには足りないが、

 今日はどうしても薬屋を覗いておきたかった。


「――まだ、開いててくれ……」


 細い希望を胸に、店の前で立ち止まる。


 扉の前には乾かぬ雨に濡れたひとつの札。


《結晶疫(クリスト・ペスト)患者への販売制限》


 その文言を見た瞬間、

 シグリルの呼吸が、痛いほど冷たくなった。


「……また、変わったのか」


 シグリアの腕に広がる白い紋様が頭に浮かぶ。

 けれど嘆く時間も惜しい。

 扉を叩いてみるが、応答はない。


 ――やはり閉め出されたのだ。


 店を離れようとしたときだった。


 通りの端に置かれた古い魔石ランプが、

 小さくひび割れた。


 そんな音は、灰街では珍しくない。

 粗悪な魔道具はすぐ壊れる。

 湿気が強い日はなおさらだ。


 ただ、妙だったのは――

 シグリルが一歩、動いた瞬間に破裂したこと。


(……偶然だ。気にするな)


 そう思い直し、胸元を押さえる。

 元々少し呼吸が浅い体質。

 走るとすぐ息が上がる。

 それだけだと、自分に言い聞かせる。


 シグリルは歩き出した。


 その背後で、ランプの割れた欠片がほんの一瞬だけ、

 黒く光ったように見えたことには気づかずに。


 大通りへ続く路地で、濃い影がひとつ動いた。


「おい、少年」


 振り返ると、大柄な男が立っていた。

 濡れた鎧。鋭い目付き。

 胸には最大手ギルド《アースフォーデル》の紋章。


 灰街でこの紋章を見ることは珍しい。


「……な、何か用ですか?」


「この辺りで、“妙な反応”が出ていてな。

 警戒巡回だ」


 男は淡々としていた。

 だからこそ、異質だった。


 灰街に“巡回”など、普通は来ない。


 男の視線が、シグリルの胸元で静止する。


「妙な息の乱れだな。風邪か?」


「……走ってきただけです」


「そうか」


 男はそれ以上追及しなかった。

 ただ、その場の空気がわずかに重くなった気がした。


 足元の雨水すら、音を潜めるような。


(……帰ろう。シグリアが待ってる)


 シグリルは会釈し、その場を離れる。


 背後で、アースフォーデルの男がひとつだけつぶやく。


「――心臓反応ではない、か」


 シグリルには届かない声。

 雨がすべてを吸い込んでいった。


 灰街の路地を走るうちに、胸の違和感は薄れていった。

 家に近づけば近づくほど、心が落ち着くようでもあった。


(大丈夫だ。僕は普通だ。

 胸の苦しさも、きっと疲れのせいだ)


 そんな思考が、雨音に溶けていく。


 気づけばシグリルの足は家の前にたどり着いていた。

 扉の隙間から、か細い咳がひとつ漏れる。


「……ただいま。シグリア」


 その声に、妹の柔らかい返事が返ってくる。


 胸の奥でかすかに揺れた何かは、

 まるで眠るように静まっていた。


 雨の底で、

 誰も知らないまま――物語が静かに始まっていた。

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