第三話 合神
森を吹き抜ける夜風は、枝同士を擦らせ、鋭い軋みを響かせていた。
そのざわめきを断ち切るように、突然、甲高い咆哮が闇を震わせ、虫の声が一瞬で消え失せる。
――暴雉獣(ぼうちじゅう)の叫びだった。
蔦をはね飛ばし、巨大な影が闇の奥から飛び出す。乱れた羽毛をまとった山のような巨体。太い脚が地を踏むたび、枯葉と泥が舞い上がり、鋭い喙が月光を受けて青白く光った。
「だから言っただろ! お前がさっき余計なことして暴れたから、こんな化け物が出てきたんだよ!」
阿虫(あむし)は振り返りながら怒鳴った。
黒い夜行服の少女――“銀狐(ぎんこ)”と呼ばれる義賊は、霊獣化(れいじゅうか)した霊狐(れいこ)に跨り、木々を縫うように跳び回る。
網目の黒いストッキングが月影にちらついた。
「全部あんたの挑発のせいよ! あんな逃げ方するから、卵まで焼けたんだから!」
「はぁ!? 俺のせいみたいに言うなよ! 避けなきゃ俺が死んでたわ!」
「暴雉獣は執念深いの! 巣を焼かれたら、天の果てまでも追ってくるんだから!!」
暴雉獣は怒気のこもった咆哮を上げる。
太い脚が地を蹴ると、一人の背丈を超える茂みを軽々と跳び越え、阿虫の背後すれすれに落下した。
爪が地面を深く抉り、生臭い風が首筋を刺す。
「そっちは駄目!」
銀狐は横目で先を見ながら鋭く方向を変える。
「あっちは行き止まり!」
「先に言えっての!!」
二人は言い争いながらも足を止めず、森の巨木の間を走り抜けた。
暴雉獣の巨体が木に激突し、幹が折れ、倒木の衝撃が地面を揺らす。
森は一気に混乱に包まれた。
一方その頃、壊れかけの馬車のそばでは――。
西門鼎(シモン・かなえ)は地面にどさりと座り込み、手には付け替えたばかりの車輪の釘を握っていた。
腕はしびれ、肩から指先まで力が抜けている。
「……ふぅ、これで……なんとか動くはずだよな。」
大きく息を吐いたその瞬間、森の奥から木々をなぎ倒すような轟音が響いた。
「……いやいやいや、今の音、絶対ヤバいやつだろ。」
胸の奥がざわりと冷える。
脳裏に浮かぶのは、あのいつも調子のいい友人――阿虫(あむし)の顔。
「まさか……本当に何か起こしてないよな……?」
不安に駆られ、髪をぐしゃっと掴んでかきむしる。
それでも、嫌な予感は消えなかった。
「……しゃーねぇ。あいつに何かあったら、この苦労が全部パーだし……阿橙(あだい)にもぶっ飛ばされる……。」
馬車の下から長弓と矢筒を引っ張り出す。
文句をぶつぶつ言いながらも、その手つきは妙に慣れていた。
「はぁ……面倒くせぇ。でも行くしかねぇか。」
夜の森へ向かって弓を抱え、走り出した。
その頃、阿虫(あむし)と銀狐(ぎんこ)は暴雉獣(ぼうちじゅう)に追われ、すでに泥まみれになっていた。
「このまま走り続けたら、俺の脚が先に終わるわ!」
阿虫は肩で息をしながら叫ぶ。
「お前、“銀狐”って呼ばれてるくらいなら、なんか策のひとつでも――」
「今考えてるわよ!」
銀狐は鋭く言い返し、ふと足を止めた。
「――あんた、そのまま暴雉獣を引きつけて。合神(ごうしん)する!」
阿虫は思わず振り返る。
「今?! お前、その気配……まだ――」
「黙ってて!」
銀狐は阿虫の言葉を遮り、霊狐(れいこ)の背から軽やかに飛び降りた。
霊狐は彼女の隣に並び、ふわりと尾を揺らし、淡い光の粒を散らす。
「来て、霊狐。」
白い狐影が小さく身を震わせると、一筋の白光となって跳ね上がり、銀狐の胸元へと飛び込んだ。
光はそのまま体内へと溶け込み、内側から沸き立つように狐火の白光が肩、胸、背へと溢れ出し、薄い紋様を描きながら広がっていく。
銀狐は深く息を吸い、気(き)と神(しん)を整える。
気――肉体を巡る力、息と血に宿る奔流。
神――意思の刃、気を束ね動かす枷。
気が円環のように体内を巡り、神がそれを確かに掴んだとき――
鎧魂萃(がいこんすい)に宿る精(せい)が応じて、鎧の形を成す。
次の瞬間、少女の鎖骨と頬に、炎の舌のような赤い紋が浮かび上がった。
――赤焔の戦紋(せんもん)。
燃えるような紋が首筋から頬へと走り、全身を熱を帯びた光で包む。
その変化に、阿虫の目が鋭く細まる。
――やっぱり、この紋は……。
彼は口にこそ出さないが、その血統を見抜いていた。
銀狐は片膝をつき、鎧魂萃を高く掲げる。
「霊狐――合神!」
白光が爆ぜ、甲片が肩、胸、背へと一気に形成されていく。
精が戦紋に沿って肉と噛み合い、装甲は生き物のように成長していく。
だが――
銀狐の呼吸が、突然ふっと乱れた。
「っ……!」
阿虫は即座に悟る。
気が足りない。神が抑えられていない。
流れを無理に押し上げたせいで、経絡が悲鳴をあげている。
銀狐は歯を噛みしめ、残りの甲片を形成しようとするが――
赤焔の戦紋はみるみる色を失い、銀色の甲片が震える。
直後、金属を裂くような鋭い音が響き――
甲片は四散し、砕けた光が逆流して鎧魂萃に吸い込まれた。
霊狐の影も引き戻され、鎧魂萃は光を失い、地面へ鈍い音を立てて落ちた。
銀狐はその場に倒れ込み、荒い息を吐きながら天を仰ぐ。
額には冷たい汗が滲んでいた。
「……だから言ったんだ、無理だって。」
阿虫が苦く言う。
「その程度の気じゃ、合神は逆に死ぬ。」
「……うるさい……っ」
銀狐は起き上がろうとするが、腕が震えて力が入らない。
そのとき――
暴雉獣の巨大な影が、ふたりを覆うように差し掛かった。
巨禽が三つの鋭い爪を揃え、銀狐めがけて振り下ろす。
「ちっ……!」
阿虫は咄嗟に飛び込み、銀狐の体を抱えて横へ転がった。
直後、暴雉獣の脚が叩きつけられ、地面が大きく抉れ、土と石が四方に飛び散った。
「お前ほんと無茶しやがる!!」
阿虫は息を荒げながら叫んだ。
背後では暴雉獣がさらに怒号を上げ、ふたりへ再び迫ってくる。
暴雉獣(ぼうちじゅう)が今にも二人を踏み潰そうと迫った、その瞬間――。
風を裂く鋭い音が、横合いから飛び込んできた。
「――中れッ!」
細く鋭い影が、一直線に暴雉獣の顔面へ突き刺さる。
矢は右眼に深々と食い込み、暴雉獣は耳をつんざく絶叫を上げて頭を振り乱した。
「どうだ! 俺の矢、決まっただろ!?」
木陰から飛び出してきたのは、西門鼎(シモン・かなえ)。
肩で息をしながらも、弓を構えた姿は妙に得意げだった。
阿虫(あむし)はちらりと彼を見て、息を吐く。
「まあまあだな。あと一息遅かったら、俺がお前に幽霊になって礼を言ってたところだ。」
「おい、もっと素直に褒めろよ! こういうのを救世主の登場って言うんだぞ!」
だが西門鼎の自慢は一瞬で終わった。
右眼を潰された暴雉獣は、怒号とともにさらに狂暴化し、
周囲の木々をなぎ倒しながら阿虫たちめがけて突進してきた。
「……なんか、やりすぎたかもしれん。」
西門鼎の顔がひきつる。
阿虫は銀狐(ぎんこ)を抱き起こし、倒木の陰へ優しくも強引に押しやった。
「お前は動くな。さっきので気が乱れてるだろ。休んでろ。」
銀狐は唇を噛んで黙り込む。
悔しさが目の奥に宿りながらも、体は言うことを聞かない。
阿虫は袖口を払うと、腰袋から一つの深紅の結晶を取り出した。
――鎧魂萃(がいこんすい)。
表面は濡れた血のように赤く、内部には禍々しい闇火が渦巻いている。
その奥には、四肢をたたんだ地獄の魔犬の影が潜んでいた。
「……ったく、こんなところで使うとはな。」
阿虫はそれを軽く放り上げる。
鎧魂萃は空中で裂け、暗紅の光が爆ぜる。
闇色の骨甲をまとった魔犬が、その光の中から無音で姿を現した。
地面に着地した瞬間、口端から漏れるのは唾液ではなく、赤黒い鬼火。
魔犬は暴雉獣に向かって低く唸り、影を伸ばすように阿虫の足元へと寄り添った。
阿虫は髪を後ろでひとまとめに結び、静かに目を閉じ――呼吸を整える。
気が、静かに、しかし確実に体内を巡り始める。
川がゆっくりと流れるように丹田から四肢へ広がり、再び戻ってくる。
神はその流れを鋭い糸のように束ね、決して逃さない。
その瞬間――
阿虫の皮膚に、青白いひび割れのような紋様が浮かび上がった。
――氷結の戦紋。
足元の魔犬が影となって跳ね上がり、阿虫の背へ、腕へと流れ込んでいく。
炎のような闇火が甲片を形成し、胸部、肩、腰、脚へと一気に装着されていく。
背中の骨翼のような装置が展開し、そこに埋め込まれた二つの器具が震えた。
それは七殺魄(しちさつはく)――七つの武器形態を生む“精”の源。
阿虫が目を開いたとき、その瞳は氷のように冷たかった。
銀狐は木の陰からその姿を見つめ、息を呑む。
「……完全合神……。やっぱり、この人……。」
西門鼎はもっと単純に叫んだ。
「お、お前いつの間にそんなカッコいいの手に入れたんだよ!? ずるいぞ!!」
「話せば長い。」
阿虫は淡々と答え、肩をまわす。
甲片が“ガキッ”と重い音を立てた。
七殺魄が反応し、右腕へと“精”が流れ込む。
阿虫の掌に形成されたのは――巨大な幅広の長剣。
刃全体が薄く凍りつき、空気を震わせながら白い霧を散らす。
「五分だけだ。」
阿虫は自分に言い聞かせるように呟く。
「五分で終わらせる。」
地面を蹴った瞬間、阿虫の体は残像だけを残して前方へ跳んだ。
暴雉獣が巨喙を開き、正面から阿虫を丸呑みにしようと迫る。
阿虫は空中でわずかに身をひねり、その喉元に大剣を振り下ろした。
刃が触れた部分から、氷の紋がパッと広がり、暴雉獣の羽が一枚、また一枚と凍り落ちる。
怒号を上げた暴雉獣が再び襲いかかると――
喉の奥に黒い渦が生まれた。
「……吐息か。」
暴雉獣(ぼうちじゅう)の喉奥に黒い渦が巻き、次の瞬間、無数の羽刃が弾丸のように四方へと放たれた。
阿虫(あむし)はすぐさま大剣を収め、背の七殺魄(しちさつはく)から別の“精(せい)”を引き出す。
白い光が左腕に集まり、瞬く間に厚く重い盾が形成された。
「銀狐(ぎんこ)、伏せてろ!」
阿虫は銀狐の前に踏み込み、盾を大きく構える。
激しい衝突音が連続し、羽刃が盾にぶつかって火花を散らす。
鋭い刃が飛び続けても、阿虫の腕は一寸も揺るがない。
「うわあああああああっ!!」
叫び声は阿虫ではなかった。
少し離れた木陰で、“安全な場所”だと思っていた西門鼎(シモン・かなえ)が、
遠慮なく飛んでくる羽刃に追われて全力で逃げ回っていた。
「おい! なんでそっちにも飛んでくんだよ!? 俺はモブだろ!? 狙うなよ!!」
「お前が勝手にそっち行っただけだろ!」
阿虫は盾の後ろから怒鳴り返す。
ようやく羽刃の雨が止んだとき、暴雉獣は大きく肩を揺らし、片目から血を垂らしながら息を荒げていた。
阿虫は盾を解き、七殺魄から再び“精”を引き出す。
今度現れたのは、細身で鋭い長槍。
「動くなよ。」
阿虫は地面を蹴り、一気に懐へ潜り込む。
暴雉獣の太い脚の関節めがけて槍を突き立て、
そこから一気に冷気を流し込む。
突き刺さった箇所から瞬時に氷が広がり、
地面の泥ごと脚を凍りつかせて固定した。
暴雉獣は必死に足を引き抜こうともがいたが、
氷はぎしりと音を立ててさらに強く締めつける。
「よし……!」
阿虫は槍を光に戻し、再び跳躍する。
膝を軸に踏み台にして高く舞い上がり、
回転しながら暴雉獣の顎へ渾身の飛び蹴りを叩き込んだ。
巨体が大きく仰け反り、後方の木々をなぎ倒しながら地面へ崩れ落ちる。
着地した阿虫の手に、再び長い細身の剣が形成された。
彼自身もっとも使い慣れた形だ。
「――終わりだ。」
阿虫の身体が一閃の光となって走る。
「奥義――氷魄斬(ひょうはくざん)。」
剣が暴雉獣の喉元を静かになぞった。
わずかな音すら立たない。
ただ白い霧が線となり、そこから全身へ凍気が走る。
ひと呼吸ののち、暴雉獣の首が氷結し、
音もなく――砕けた。
巨体が痙攣し、完全に沈黙する。
阿虫は大きく息を吐いた。
体内の気が緩み、七殺の甲片が一つ、一つと光を失い、
わずかな赤い光粒となって鎧魂萃(がいこんすい)へ戻っていく。
氷結の戦紋が消え、阿虫の足が少しだけよろめいた。
「……ギリギリだったな。」
木陰から銀狐がこちらを見ていた。
目には複雑な感情――驚愕、悔しさ、そして何かの確信が浮かんでいた。
一方で、西門鼎は――
「よーし、俺の出番だな!」
自信満々に小刀を取り出し、暴雉獣の死骸へ駆け寄り、
高価そうな部位を物色し始めた。
「この爪、この喙(くちばし)、この翼の根元の筋……全部売れるぞ!」
「お前、それしか頭にねぇのか……」
阿虫は呆れながらも銀狐を支えて立たせる。
「気が乱れてる。歩くな。馬車まで行ったら話を聞かせてもらうぞ。」
銀狐は彼の手を乱暴に払おうとしたが、力が入らず、
結局よろけて再び阿虫に支えられた。
銀狐は阿虫を数秒見つめ――
確認するような、しかし否定したいような、複雑な視線を落とした。
そのとき。
――林の奥が赤く揺れた。
阿虫の全身が一瞬で緊張する。
茂みの中から、規律正しい足音が近づいてきた。
赤い紋様をあしらった甲冑を身にまとった夏侯家(カコウけ)の士兵が列を成し、無言のまま火を掲げて森の闇を押し退けていく。
西門鼎の馬車も、少女たちも、すでに士兵たちに確保されていた。
「や、やばっ……! 北王夏侯家の兵だぞ!? 俺ら終わった!!」
西門鼎は顔面蒼白になる。
阿虫は黙って前を見つめていた。
兵たちが二手に分かれ、道を開ける。
そこから、白い外套をまとった影が静かに歩み出た。
鉄の白面具が無表情で光を反射し、
その奥の視線は冷たく、氷のようだった。
北王夏侯家・護衛隊隊長――白蓮(ハクレン)。
西門鼎は小声で震えるように言った。
「な、なんだよあれ……夜中にあんな面被って怖すぎるだろ……!」
「黙れ。」
阿虫は低く制した。
白蓮は阿虫には目もくれず、まず銀狐へ視線を向けた。
「菖蒲(しょうぶ)様。お怪我を。」
銀狐――夏侯菖蒲(しょうぶ)は、弱々しく視線をそらす。
「……来るなって言ったのに。」
白蓮は何も言わず、片手を軽く上げる。
兵たちが菖蒲の周囲を保護するように動き出す。
――彼らは“捕縛”ではなく、“救出”に来たのだった。
白蓮は最後に阿虫を一瞥した。
その一瞬の眼差しは、刃のように冷たかった。
阿虫は引かず、静かに見返す。
火の明かりが揺れ、
森の闇が深く沈む。
夜はまだ終わらず――
運命の交叉は、ここから始まろうとしていた。
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