第一話 夜風

刺すような寒風が山脊を駆け抜け、

吹き荒れる雪粒が容赦なく頬を叩いた。

山腹の裂け目が轟音とともに崩れ落ち、

白い濁流となった雪崩が少女と少年を一瞬で呑み込む。

世界は白に染まり、

冷気は呼吸すら凍らせるかのようだった。

少女は倒れ込む少年を抱きしめ、

迫り来る雪石から身を挺して守った。

指先の感覚は瞬く間に消えた。

それでも少女は、腕の中の少年にわずかな温もりを残そうと必死だった。

「だいじょうぶ……です、若様(わかさま)……

 旦那様(だんなさま)が……きっと……助けに来てくださいます……」

声は風に溶けてしまいそうに弱々しい。

少年の睫毛には白い霜が積もり、

恐怖と寒さで震えながらも言葉が出なかった。

少女は薄れゆく五感に抗いながら微笑み、

少年の頬を胸元へそっと抱き寄せる。

「どんなことがあっても……

 わたしは……若様のそばに……」

その瞬間、風が少年の代わりに泣き叫ぶように吹き荒れた。

少女の命は、静かな抱擁の中で凍りついた。

――それが、少年の心に永く刻まれる“夜風”の記憶となった。

「阿虫(あむし)! 阿虫! また寝てんのかよ!!」

車輪の激しい揺れが、少年を凍える記憶から引き戻した。

はっと目を開けると、胸の奥にまだ痛みが残っている。

今の彼は、あの雪崩で埋もれた弱い子供ではない。

古びた外套に身を包み、下半分を黒布で覆った少年――阿虫(あむし)だった。

揺れる馬車の中には十数人の少女が押し込められ、

安物の斗篷の下で怯え、震えていた。

しかし――

阿虫の視線は、自然と馬車の隅に座る一人の少女で止まった。

怯えていない。

震えてもいない。

呼吸すら感じさせないほど静か。

馬車が大きく跳ねても、

彼女だけは影のように“揺れずに落ちていた”。

阿虫と一瞬だけ視線が重なる。

その瞳は、澄んでいるのに底なしの虚無を宿していた。

冷たく、静かで、情緒の欠片すらない。

――生きている気配がしない。

(……やっぱり、ただの娘じゃねぇな。)

そう思いながらも、阿虫は視線をそらした。

今日の目的はあくまで 西門鼎(シモン・かなえ) の手伝いであり、

余計な厄介事に関わるつもりはない。

「だからよ阿虫! 寝てる場合じゃねぇだろ!」

御者台から聞こえる、聞き慣れた声。

黒布で顔を覆い、斗篷を羽織った御者――

阿虫の悪友、西門鼎(シモン・かなえ)だ。

「あー……馬でもちゃんと走らせとけよ。

 二日も徹夜で付き合ってんだ、帰ったら姉ちゃんに殺される。」

「大丈夫だって! 報酬はキッチリ払うからよ!」

「あのな西門鼎、お前の“払う払う”は信用ねぇんだよ。」

「いやいや、今回は本当だって! 本当なんだって!」

「黄毛(こうもう)は使えねぇ、臭玉(くさだま)は馬より頭悪い、夜梟(やきょう)は役所勤め。で、消去法で俺が呼ばれたわけだ。」

「頼れるのはお前だけなんだよ!

 腕っぷしだけはマジで信用してんだから!」

「だったらひとりでやりゃいいだろ。」

「……金がねぇんだよ。」

阿虫はため息をつき、再び車壁にもたれた。

だが耳の端では、隅の少女が放つ“死の気配”をずっと感じ続けていた。

馬車が林道へ差しかかった、その時だった。

ヒュッ。

鋭い空気の裂ける音。

次の瞬間、車輪が吹き飛び、

馬車が大きく傾いて転倒した。

「きゃあああっ!!」

「いやあああっ!!」

少女たちが雪崩のように転がり、泣き喚く。

頭を抱える者。

木箱にぶつかり呻く者。

恐怖の波が一気に車内を覆った。

だが――

あの隅の少女だけが、

まるで重力が存在しないかのように、ふわりと無音で着地した。

斗篷は乱れず、姿勢も崩れない。

もとの位置に“影が戻った”ような動きだった。

阿虫の背筋に冷たいものが走る。

(……やっぱりな。)

「阿虫! 襲われた!!」

西門鼎が転げ落ちながら叫ぶ。

阿虫は土埃を払いながら周囲を見渡した。

「落ち着け。強盗の動きじゃねぇ。」

林は異様なほど静かだった。

風も止み――

“気配”だけが残っている。

「動くな。」

月光に照らされ、黒い影が木々の間から歩み出る。

密やかな黒の夜行服。

透けるような黒絲の編み込み。

そして、銀の狐狸面。

露出した双眸は鋭く、敵意も憐憫も宿さない。

足さばき、重心、呼吸。

どれも素人の動きではない。

(……やっぱり訓練されてやがる。)

「北境外から掠われた少女を運んでいる、という情報がある。」

その少女――銀狐(ぎんこ)は静かに言い放つ。

夜の義賊銀狐(ぎんこ)。

「抵抗するなら容赦はしない。」

「おい阿虫……誰だよこれ……」

西門鼎が青ざめる。

「銀狐だよ。黒奴売買ぶっ潰すって噂の、ちょっとだけ有名なヤツ。」

銀狐は視線を細める。

「武器を捨てろ。従わなければ――捕縛する。」

阿虫は肩をすくめた。

「ひとりで俺たち捕まえんのか? 冗談キツいな。」

「ひとりで十分よ。」

低く冷たい声が落ちた瞬間――

カチン。

四方の木々に仕掛けられたワイヤーが一斉に起動し、

銀糸が空中へ伸び、杭が跳ね上がり、

網が広がる。

月光を反射して煌めく罠が、一瞬で包囲を描いた。

だが――

阿虫の身体は、風に触れるように自然に動いていた。

銀糸の角度をずらし、

杭の軌道をずらし、

網の張力を殺す。

必要最小限の動きで、罠が罠でなくなる。

銀狐の眼が初めて揺れた。

(……見切った? いや、この子……何者?)

次の瞬間、後方で別の罠が起動。

「阿虫! 後ろ!!」

シュッ! シュッ!

二本のワイヤーが、飛来した矢によって切り裂かれる。

振り返ると――

短弓を構える西門鼎。

膝は震えているのに、

口元は得意げに吊り上がっていた。

「へっ……たまには……やるだろ?」

「うるせぇ。黙ってろ。」

「……ちぇっ。」

銀狐は静かに息を整える。

「なるほど……普通の手じゃ足りないわけね。」

阿虫がひらひらと手招きする。

「来いよ小狐。

 どんだけやれるか見せてみな。」

銀狐の体温が、わずかに下がった。

怒りではない。

“覚悟”の温度だ。

腰の袋から取り出したのは、透明な結晶――

内部に銀紋が流れる铠魂粹(かいこんすい)。

阿虫の目が細まる。

(……本気だな。)

銀狐は結晶を地に叩きつけた。

――轟。

狐火が爆ぜ、銀光が波紋のように広がる。

木々がざわめき、

影が伸び、

空気が震える。

炎の中心から――

三尾の霊狐が姿を現した。

銀火が毛皮に絡み、

尾が揺れるたび、光が風を裂くようにゆらめいた。

あまりに美しく、

あまりに危険な存在だった。

銀狐はふわりと跳び乗る。

夜行服が銀焔に照らされ、輪郭が白く縁取られる。

鞭も命令もない。

ただ背に触れるだけで、霊狐が応える。

「逃げ切れるなら――やってみせなさい。」

阿虫は片手を軽く上げ、笑った。

「言ったな?

 後悔すんなよ。」

そう言って林へ駆け出す。

足取りは軽く、迷いがない。

まるで山風そのもの。

銀狐は霊狐の背に身を伏せた。

次の瞬間――

銀光が林を裂いた。

狐火が飛び散り、

地面が爆ぜ、

落葉が渦を巻く。

狩りが、始まった。

――この夜風こそが、

 少年を“戻れない運命”へ押し出す始まりとなった。

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