「Re:Trace」〜時を紡ぐ者たち〜
月野あかり
プロローグ
「Re:Trace」
〜時を紡ぐ者たち〜
Warning #001**
深夜2時33分
ミネルヴァ・ロジック研究所の廊下は、冷たく静寂に包まれていた。
蛍光灯の白い光が、ぽつり、ぽつりとスポットライトの道標のように行く手を照らしていた。
安倍空真(くうま)は、そこに一歩近づくにつれ、スマホを握る手は白く赤く、力が入る。
-拒否不可、と書かれていた。
送り主は、研究所の主任である芦谷蓮からのメッセージ。
空真の大学時代の同級生でもある。
「…深夜に“拒否不可”って…何考えてるんだよ…」
ため息をつきながら研究室の前に立つ。
ドア越しに、明るい光が漏れている。
ノックする間もなく、ドアが自動で開いた。
「遅かったね、空真くん。」蓮は黒いパーカー姿で、いつもの様に飄々とした笑みを浮かべていた。研究者というより、夜の街を爽やかに闊歩する青年の様だ。
「蓮さん……急に呼び出して、いったい何を……」
蓮は言葉を遮り、スクリーンを指差した。「Warningが出た、初めての。」
空真の喉が小さく鳴る。
研究所の壁一面を覆うスクリーンには、“一時停止”された映像が映し出されていた。
室内灯の下、洗濯物を畳む女性の姿。
どこにでもあるような日常シーン。
だが…
その後方の廊下に、黒く細い“柱”のような影が立っていた。
人ではない。
人の形をしているように見えるのに、顔がなく、輪郭がどこか揺らいでいる。
蓮が淡々と言う。
「これは、Re:Trace初の“停止映像”だね」
空真は息を呑む。
「……何ですか、これ。」
「分からない。でも…」
蓮は、空真の目をじっと見る。
「こういうのを“視える”のは、君だけでしょ。」
空真は言葉を失った。
蓮は操作パネルに触れ、映像をスローで巻き戻した。
影は女性の背後に溶け、また現れ、輪郭が波打ち、存在がにじんだ。その度に、空真の心臓がひゅっと硬く縮む。
「違法行為や異常行動に反応するWarningとは別の、“認識不能データ”で停止してる。」
蓮の声は淡々としているのに、その奥にある興奮が隠しきれていない。蓮には影が“影”として視えているわけではない。
Warning表示の位置に、わずかな“変なノイズ”を感じるだけだった。
「…僕はこういうの、専門じゃ…」
「専門じゃない。でも視えるでしょう?」
空真は沈黙した。
否定しようとして口が開きかけたが、声が出なかった。
蓮は画面に指を滑らせ、影の輪郭をズームする。
すると…
影の左手に、小さな護符のようなものが握られていた。五芒星の崩しが刻まれている。空真の顔が青ざめる。
蓮は静かに尋ねた。「…何かあるの?」
空真は目を伏せた。
「僕は……もう関係ありません…神社も、祈祷も、術も、全て…」
蓮は首を横に振った。
「関係なくても、祓う力がある限り避けても逃げても、一生逃れられないって自分でも感じてるよね」
スクリーンの影が、こちらへゆっくり振り返る。
顔のない“闇”。
次の瞬間、画面が赤く染まった。
【Warning/再生停止】
【継続には追加契約が必要です】
【本アプリは本映像に関知しません】
空真は椅子の背に手を伸ばし、必死に呼吸を整えた。
蓮はモニターを見つめたまま、低い声でつぶやく。
「空真くん。“始まった”んだよ。」
…
研究所を出ると、ビル風が強く顔に吹きつけた。街灯に照らされた歩道で、空真は蓮の言葉を反芻しながら
ふと足元を見る。
…影が、遅れて動いた。
自分の影が、わずか0.5秒遅れて振り返るように動いた。
空真は凍りついた。
「…また……?」
街は空真を闇に残したまま、始発電車を待つ人達の波へと飲み込まれて行く。
ただ、彼の影だけが静かに揺れていた。
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