昼は平凡OL、夜は精霊の救世主 <スローライフは箱庭の中で>

水玉りんご

第1話 始まり

 ──私は、いったい何のために生きているんだろう。


 そんな言葉が、最近は自分の中で勝手に再生されるようになった。


 私は小春。

 仕事と家を往復するだけの毎日を五年以上続けている。


 朝は同じ時刻の電車に乗り、同じ顔ぶれの通勤客と揺られる。

 会社では割り当てられた業務を淡々とこなすだけ。

 特に期待されているわけでもなく、叱られはしないけれど褒められることもない。

「この仕事、誰でもできるよね」と言われれば、否定できない程度の立ち位置。


 辞めたところでやりたいことがあるわけでもないし、転職活動をするほどの気力もない。

 気づけば、現状維持という名の惰性で生きているだけだった。


 今日も残業帰り、夜の11時を過ぎたアパートは冷蔵庫の音だけが生きている。

 コンビニで買ってきた浅漬けをそのままつまむ。

 一応皿に移そうとしたのだが、手を滑らせ割ってしまい指まで切ってしまったのだ。

 若干ぬるくなった缶ビールを片手に天井をぼんやりと見上げる。


「はぁ……。」


 ため息は癖になっていた。


 その時、ふとテーブルの上の“木の箱”が視界に入った。


 帰宅した時、玄関前にぽつんと置かれていたものだ。

「誰かの落とし物かな?」と拾い、とりあえず部屋に持ち込んだまま放置していた。


 手のひらサイズの立方体。

 軽そうに見えて意外と重く、木の表面には細かい模様が描かれていた。

 古いけれど、なぜか“人の手を離れて久しい”という感じはしない。

 不思議な清潔感があった。


「ゴミじゃなさそうだし……開けてみる?」


 平坦な日常を送る私には、これくらいの出来事でもちょっとしたイベントだ。

 誰にも迷惑をかけない範囲の好奇心くらい、許されるはず。


 側面に一筋の線が入っている。開くならここのはず、とフタを慎重に上に向けて持ち上げてみるが、びくともしない。

 力を入れても、爪を立ててみても、ひねってみても同じ。


「接着剤じゃないよね……」


 独り言を言いながら箱を回して観察する。

 この模様は何かヒントにならないだろうか。

 そっとなぞると先ほど切れた指先がチリリと痛んだ。


 ……そのときだった。


 模様の一部が一瞬、呼吸するように“脈打つ光”を放った。


「え……?」


 私が瞬きをしても、その光はまだそこにあった。

 二度目の脈動が起こり、まるで私の指を導くように微かに揺らめく。

 直感で、私はその模様をそっとなぞった。


 次の瞬間、まるで鍵が外れるように“カチリ”という音がして、フタがスッと開いた。


「えっ」


 中には意外なものがあった。

 箱の中には白けた土台の上に、ミニチュアの小さな小屋と枯れ木、そして岩と川のようなもの。

 それは箱庭だった。


「わぁ…初めて見た…って、え、何!?」


 驚く間もなく、箱の内部から白い光が噴き出す。

 視界が塗りつぶされ、身体が浮くような感覚に襲われ──


 音が消えた。

 重力が消えた。

 世界が、私を一度手放した。


 ……


 ……


「……い、いら……い」


 耳に届いた声が、最初は人の言葉だとは理解できなかった。

 高いような低いような、不思議に震える音。


 まぶたをゆっくり開けると、そこはアパートの天井ではなかった。


 木とホコリと土の匂いがする、質素な小屋の天井。

 板はところどころ割れ、外の光がいくつもの筋となって差し込んでいる。


 起き上がった瞬間、私は息を呑んだ。


 私の周りを囲んでいたのは──

 手のひらサイズの、小さな生き物たち。

 歪なゆで卵に短い手足の生えたような小さな生き物。

 中には毛が生えたり尻尾が生えたり色もさまざまである。

 どこか童話で見た精霊のようでもあった。


 そんなに酔うほどまだ飲んでなかったはずなのに。

 思わず口元を押さえて記憶を辿る。

 夢なのか?状況を把握しようと、私は立ち上がった。


 彼らはつぶらな瞳でこちらをじっと見つめ、緊張したようにざわついていた。


「ピピピ…人間…」「わ来た……プ」「チチチチ」


 言葉が聞き取れたことで、余計に状況が飲み込めない。

 私は、慌てて辺りを見渡した。


「え、えっと……ここ、どこ……?」


 差し込む日差しに目をすがめつつ、声が震える。

 夢だと言うには、痛みも温度も匂いも、現実的だ。


 中のひとりが、手を大きく掲げながら前に出てきた。

 白くて一番ゆで卵に近い形状だ。


「ぼくたちが呼んだ。小春さんを。ここに。」


 私は箱の光のことを思い出し、息を呑む。

 ゆで卵の声がよく聞こえるようにしゃがんだ。


「どうして私の名前を?」


 しかし、ゆで卵は質問には答えずに話を続ける。


「ここの土地は荒れているから、このままだと領主に取られちゃう。」


 小屋の外を指すように、小さな手が震える。


「にぎやかなお祭りを開けば領主は手を出せないんだ。ぼくたちは精霊と呼ばれていたけど、今は小さくて力がない。だからあなたを召喚したんだ。」


 私は、荒地の風の音を聞いた気がした。

 ギシギシと小屋が軋み、ほこりが降ってくる。

 現実の私は、何もできないちっぽけな存在。

 でも──


 ここでは、何かを変えられるのだろうか。


 問いを抱えた私に、精霊たちは一斉に頭を下げた。


「どうか──お願いします!」


 そのひたむきさに押され、どうしたものかと考えた。


 ……その瞬間。

 小屋の外で、低い唸り声のような音が響いた。


 精霊たちの表情が硬くなる。


「……だめだ。“あの人”が来た……!」


 代表して話しているゆで卵はプルルンと全身を震わせた。

 それ以外は「ピピピピ、チチチ」と囀りながら、急いで棚の陰や私の足元に身を寄せた。


「え、あの人って……誰!?」


 小屋の扉が、強く叩かれた。


 ドンッ。


 ドンッ。


 胸の奥で、何かがゆっくりと動き出す。


 ──あぁ。

 私の“平凡な毎日”が、終わったのだ。


 扉を叩く音は、まるで私に「ここから逃げるな」と告げているようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る