スルメイカは、自由を夢見て海へ還った。〜大量消費の運命に抗った男の漂流記〜

Tom Eny

スルメイカは、自由を夢見て海へ還った。〜大量消費の運命に抗った男の漂流記〜

スルメイカは、自由を夢見て海へ還った。


〜大量消費の運命に抗った男の漂流記〜


序章:焦げ付く運命


潮風が運んでくる塩と、醤油ダレの焦げ付く匂い。そして、軒先の奥から響く地獄のような「ジューッ!」という鉄板の叫び。それが、イカ太郎の毎日の世界だった。


イカ太郎は、港町の土産物屋の軒先に並べられた、山積みのスルメイカの一匹だった。大量に水揚げされた「異例の豊漁」の波に乗って獲られた彼は、まだ体内にわずかな水分と、微かな「生きたい」という願いを留めていた。他の仲間たちは、すでにカチカチに固まり、太陽の下で運命を受け入れている。


「ジューッ!…ギチギチッ」


熱せられた巨大な鉄板が、生のイカを一瞬で平らに焼き上げる音。主人は、焼き網で焼くよりも手っ取り早い「プレス式」で、イカを硬い鉄の重しで押し潰す。親友の「ゲソ吉」が、その鉄板へと運ばれるのをイカ太郎は最後に目に焼き付けた。ゲソ吉は、潰される直前、わずかに震えるゲソで、かつて二匹で見た**「夜の海に輝く満月」**の方を指差した。


(あぁ、僕が最後に見たかったのは、あの青い海だ。硬く、平らにされて、誰かのビールの友になるなんて、断じて嫌だ。僕は、もう一度、あの深い海で、自由に泳ぎたい!)


イカ太郎の「生きたい」という願いは、単なる抵抗ではなかった。それは、海中で最後に見た、あの青く深い世界の記憶、そして、もう一度満月を海面から見たいという、彼がイカであることの全てを懸けた憧れだった。


その瞬間、強い潮風が吹き荒れ、軒先の暖簾を激しく揺らした。イカ太郎は、全身に残る最後の水分と柔らかさをバネにして、山積みの中から宙へ飛び出した。


逃走と絶望


即座に、海中での習性で体内の水を噴射しようと試みるが、乾いた体からはわずかな粘液と、茶色く乾いたイカ墨の痕跡が、熱いアスファルトを薄汚すだけだった。それでも、その粘液は主人の目を一瞬くらませる最後の抵抗となり、彼はカサカサと音を立てながら、アスファルトの路地を転がり、海を目指して逃走を始めた。


逃走の途中、イカ太郎は豊漁によって活気づく人間社会の熱狂を目の当たりにする。魚市場には、山のように積まれた新鮮なイカの群れ。そして、ラジオからはニュースが流れていた。


「…今期はスルメイカが異例の豊漁となりました。しかし、国が定める漁獲枠の上限を超過したため、小型船の採捕停止命令が出されています。」


豊漁。それは、自分たちが獲られすぎたという事実。逃げた先に、本当に自由な海は残っているのだろうか?


さらに、彼は運送業者のトラックの側面に貼られた巨大なポスターを目にした。そこには、切り刻まれた仲間のイカを小麦粉の生地で包み、黄金色に焼き上げた**「大阪名物イカ焼き」**の宣伝が躍っていた。ポスターの下には、「特注のプレス機で一気に焼き上げ!」というキャッチコピーが踊る。


(姿焼きだろうと、イカ焼きだろうと…!どこへ逃げても、俺たちの運命は、熱い鉄板に平らにされることなのか。この街を越えても、運命は変わらないのか!)


イカ太郎の絶望は、港町から日本の都会へと広がっていることを知った。


助言:沈まぬ船


さらに乾燥が進み、体が動かせなくなったイカ太郎を救ったのは、港の物知り猫、スミ丸と、岸壁の穴に潜む老タコ、タコツボだった。


スミ丸は冷たく言い放った。 「お前さん、もう手遅れだ。その体じゃ、海に戻ったって泳げやしない。鉄板プレスから逃げたところで、お前はもうただの硬い**『スルメ』**だ」


絶望の淵で、岸壁の穴からぬっと顔を出したのは、かつて都会で**「カリッと焼かれる」運命**を逃れた老タコ、タコツボだった。彼は、イカ太郎の硬い体を見て言った。


「お前は私の仲間(たこ焼き)とは違い、火と油の地獄を潜り抜けた『硬さ』がある。」 「その硬さが、お前の身を守る盾となる。沈まぬ体を信じろ。」


老タコは、静かに結論づけた。


「お前はもう、沈むことを知らぬ船だ。」


タコツボの言葉は、イカ太郎の絶望的な状況を逆転させる知恵だった。彼は、もはやイカとして泳ぐことはできないが、硬い「スルメ」だからこそ、沈まずに海を漂える。


終焉と自由


数日後、イカ太郎は最後の力を振り絞り、岸壁へと転がり出た。彼の体は、まさに土産物屋に並ぶ**「するめ」そのもの**。硬く、平らで、もうイカの面影はない。


夜の帳が下り、静寂が訪れる中、彼は海面から数メートル上の岸壁の淵にたどり着いた。周囲は、焦げ付いた醤油ダレの匂いではなく、澄み切った潮風の匂いだけが満ちていた。


「泳げなくてもいい。もう一度、あの青の中へ…」


ゴツゴツとした岸壁から、彼は硬い体を海へと押し出した。


ドボン!


だが、彼は石のように沈まなかった。硬く乾燥し、平らになった彼の体は、水面でひっくり返ることなく、まるで船の破片のようにプカプカと波間に浮いた。


泳げない。でも、彼は沈まない。役割を終えた彼の体は、自由な道具となった。


潮の流れに身を任せ、沖へ向かって漂い始めたその時、イカ太郎の目の前を、小さな波間に揺られながら、少し焦げた、魚の形の何かが通り過ぎた。


それは、尾びれの一部と、餡子の匂いをわずかに残した、もはや食べ物とも生き物とも判別がつかない、哀しい残骸だった。


(ああ、君も…)


イカ太郎は、それがかつて同じ運命から逃れた先駆者だと直感した。自由を得た先で、彼は運命に飲まれた。しかし、イカ太郎の硬い体は、今、その先駆者の残骸の上を、ただ静かに漂っていく。


イカ太郎は、海に戻りながら、自分の体が、誰かの食卓に並ぶこともなく、永遠におつまみになることもなく、潮の流れに身を任せて沖へ、沖へと運ばれていくのを感じた。


それは、生きている時よりも遥かに自由な漂流だった。


泳げ!スルメイカ。


彼は、もはやイカではない。 彼は、運命に逆らい海に還った、自由の象徴となった一枚の硬い板として、水平線の彼方へと、いつまでも漂い続けた。

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