親子丼に潜む浮遊霊

狐月華

親子丼に潜む浮遊霊

 夕方の冷え込みは、昼のかすかな温度をすっかり奪っていた。乾いた風がアパートの外階段を抜け、郁人の頬に触れる。雪こそ降らないが、吸い込む空気は喉の奥を刺すほど冷たい。


 郁人は子どもの頃から霊が見えた。


 しかしそれは、特別な力などではなく、日々の生活に余計なざわつきをもたらすだけの体質にすぎなかった。向き合う気力もとうに薄れ、今では、見えるか見えないかより、夕食の献立の方がずっと重要だ。


 行きつけのスーパーの自動ドアが開くと、外の冷えが押し戻され、店内の柔らかな暖気が頬を撫でた。蛍光灯の白い光が均一に天井から降り注ぎ、冬の夕暮れとは別の時間がそこにある。


 買い物かごを手に、郁人は青果コーナーへ向かった。


 整然と並ぶ長ネギ。その値札の赤い「本日のお買い得」の文字が、静かな店内でひときわ目を引く。


(ネギが安いのは助かる)


 軽くしならせて重みを確かめ、一本をかごに入れた。寒さでこわばった指先をこすりながら肉売り場へ向かう。


 冷蔵ケースの前はひんやりとして、吐く息がわずかに白む。青いエプロン姿の店員が、鶏もも肉に黄色い割引シールを淡々と貼っていた。


 ――ピッ。


 控えめな音に足が止まる。貼られたばかりのシールの「20%引き」が、郁人の料理心に火を点けた。


(これは買いだな)


 迷わずかごに収める。冷たいパックが底に触れ、小さく音を立てた。


 さて、どう調理するか。


 真っ先に浮かぶのは唐揚げだが、一人暮らしの揚げ物はどうしてもハードルが高い。油の処理を思うだけで肩が重くなる。


(寒いし……温かいものが食べたいな)


 さっき外を歩いたときの指先の冷えがよみがえる。自然とひとつの料理が浮かんだ。


(……親子丼にしよう)


 出汁の香り、半熟卵のとろりとした舌ざわり、甘く煮えたネギ。想像するだけで、冷えた体の芯がゆるむ気がした。冷蔵庫には卵が二つ残っていたはずだ。


 郁人は長ネギをもう一本かごに入れる。細長い緑の葉が蛍光灯の光を受け、淡く艶を帯びた。


 レジへ向かう足取りは軽い。献立が決まっただけで、冬の夕方の冷えがどこか和らぐ。


 自動ドアが開き、外気が再び肌に触れた。


(帰ったらすぐに作るか。ネギは厚めに切って……)


 白い街灯の下を歩きながら、郁人は小さく息を吐く。

 霊が見える体質がどうであれ、今晩の温かい丼ぶりの方が、なにより現実的で、なにより大切だった。


 雪こそ降らない冬の夜道。

 それでも親子丼の湯気を想像するだけで、胸の奥がふっと温かくなる。


***


 アパートに戻った郁人は、灯りをつけるや否やキッチンに立った。外の冷たさがまだ肌に残っている。温かい料理を作ると思うだけで、ささやかな期待が胸に灯る。


「親子丼〜♪」


 鼻歌を口ずさみながら、鶏肉のパックを開けた瞬間、ひやりとした空気の揺らぎが背筋を撫でた。


 ――あ、妙な気配。


 一瞬ぞわりとしたが、「またか」と思う方が早い。


 郁人は霊の気配に慣れすぎて、驚くより先にため息が出るほどだ。また鼻歌を口ずさみながら、鶏肉を手に取った。


 まな板に置き、一口大に包丁を入れる。


 長ネギは風味を引き出すため、やや厚めの斜め薄切りにした。包丁が走るたび、白い断面の水分がきらりと光る。


「親子丼〜♪」


 鼻歌は止まらない。


 冷蔵庫から卵を取り出そうと手を伸ばした瞬間、さきほどとは違う温度を伴う気配が、部屋の奥の空気をふっと膨らませた。


(……まぁ、よくあることだ)


 卵を割り、菜箸で軽く溶く。


 スマートフォンのレシピ通りに割り下を作り、鍋にかける。


 いつのまにか奇妙な気配は消えていた。


 割り下がふつふつと立ち始めたころ、鶏肉を入れようと塊を握った瞬間――

 再び、あの気配が戻った。空気の層が一枚増えたような重み。その奥から、何かが訴えるような微弱な震えが、郁人に触れた。


 ――ちがう……ちがうぞ……


「何が?」


 声には出さず、心の中で小さく首をかしげる。心当たりなどない。


「まさか、お肉の鶏の声?」


 一瞬手に握った鶏肉の塊を見つめるが、普通の鶏肉だ。


 郁人は無視し、鶏肉とネギを鍋へ放り込む。


「親子丼〜♪」


 心の耳に栓をするように、わざと鼻歌を大きくした。


 鍋にふたをするが、霊の声には通じない。


 ぐつぐつと煮える音の下で、低い声は静かに響き続けた。


 溶き卵の椀を手に取った瞬間、また新たな気配が空気の層に滲んだ。


 さっきのものとは温度も高さも違う。しかし言葉は同じだ。


 ――ちがう……ちがうぞ……


「今度は、卵か?」


 レシピにはこうある。


 “まずは溶き卵の2/3を回し入れる”


「はいはい」


 郁人は卵を流し入れた。


 その瞬間、二種類の気配が重なり合うように強まり、声が響く。


 ――ちがう……ちがうぞ……


 ふたをしても消えない。


 火を止め、残りの卵を入れる。再びふたをし、余熱で蒸らす。


 すると、霊の言葉の中に、別の“意味”が混じり始めた。


 ――ちがう……ちがうぞ……こいつは、この卵は……

 おれの、わたしの、こどもじゃない……!


 ――ちがう……ちがうぞ……この鶏は……

 おれの、わたしの……親ではない……!


 声はひとつの意思へと収束していく。


 ――ちがう……ちがうぞ……断じて、親子ではない……!

 おれたち、わたしたちが親子というなら……人類はみな、親子になってしまう……!

 だから! 断じて! 親子丼なんかじゃないんだ!!!!


 キッチンの空気が震えた。


「……はいはい、わかったって」


 郁人は苦笑し、鼻歌を切り替える。


「た〜にん丼〜♪ 他人丼〜♪」


 その瞬間、霊の気配は嘘のように消えた。


「……ほんとに他人丼でよかったんだな」


 ふたを開ける。立ち上る湯気の向こうで、卵の黄色がやわらかく揺れ、煮汁を吸った鶏肉と長ネギがつややかに光った。


 炊きたてのご飯にそっと具を乗せる。


 卵がご飯の余熱でわずかに締まり、ふわりと香りが広がる。


「……いただきます」


 一口運べば、とろけるようなうまみが広がる。


 出汁の優しさ、ネギの甘み、卵の柔らかさ。すべてがこの寒い夜にしみ渡る。


「……うまっ」


 気付けば郁人は、あっという間に平らげていた。


「……他人丼でも、こんなにうまいんだな」


 丼を置き、ほうっと息をつく。


 食後の温かさが胸に満ち、外の冷たさも霊の騒ぎも遠い。


「本物の“親子丼”って……どんな味なんだろうな」


 ぽつりとつぶやき、流しに食器を運ぶ。


 明日も自炊をしよう。


 いつか本当の親子丼を食べる機会があれば、そのときばかりは霊にも文句を言わせまい――そんな冗談めいた決意が胸に浮かぶ。


 静かな夜のキッチンには、出汁の香りだけがやわらかく残っていた。


――完――

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