第48話 エチュード②
出店通りを並んで進んでいく。
会社の廊下を歩く時よりずっとずっとゆっくり。なんとなくそうした方がいい気がした。
「圭はお腹空いてる?」
自然に口から放たれる名前。練習でもしてきたんだろうかと疑ってしまう。
俺だったら、彼女のことを「ちな」と自然に呼べるようになるまで1年以上かかる自信がある。だからなんだという話ではあるんだが。
「空いてる空いてる、やっぱこういう出店で味濃いめのもの食べるのが美味いからな」
「ひゅ〜わかってるぅ〜!ビールでいい?いいよね?」
そう言い残すと、彼女は手頃な屋台へと駆けて行った。
あれ、さっきまでの清楚で大人しい感じはどこに行ったんだ。一瞬で元の千波に戻ってしまった。
……ちょっと安心したとか思ってないぞ。
あの千波は心臓に悪い。
「ねぇ見て見て!浴衣着てるからってサービスしてもらっちゃった!」
差し出されたプラスチックのパックには溢れんばかりの焼きそばが詰められていた。もう輪ゴムで留まってないだろそれは。
牛丼屋もかくやと言わんばかりの紅しょうが、しなしなのキャベツ、黒に限りなく近い麺。胃袋を直撃する香りだけで酒が飲めそうだ。
「悪いな」
「いいってことよ、彼女だからね」
一膳しかない箸を口で割る千波。
ラーメンを食べる前にしか見ない光景だ。
というかナチュラルに嘘つくじゃねぇか。
「誰が彼氏だ、誰が」
雰囲気にあてられたからだろうか。すんなりと「彼氏」なんて単語が口から滑り落ちていく。
「あんた以外誰がいるのよ。いいじゃない。今日くらいは」
今日くらいは。
それは魔法の言葉だ。仕事が上手くいかずに飲みに行く時、久しぶりに会う友人と旅行に行った時、ゴールデンウィークや年末の休みに入る直前など、「仕方ない」の免罪符として出される言い訳は、なんとも使い勝手が良い。
「というか既に名前で呼びあってるし、誰に見られる訳でもないし〜」
「それはお前が」
「お前が?」
持ち上げられた麺から湯気が立っている。
真っ黒なキャンバスに灰色の煙はよく映えて。
「ちなが強制し……むぐ」
「ごちゃごちゃ言ってないで楽しみましょうね、せっかくのデートなんだから」
なんだか今日の千波は強い。
どこが、と聞かれれば的確に答えられないけど、圧というか美しさというか感情というか、千波ちなという人物の概念が大きく発露している。
端的に言って、魅力的なのだ。
なんてことが頭を過ぎった瞬間、彼女の手が視界に映る。
脳天まで駆け抜けるソースの味。旨味をぎゅっと詰め込んだそれは、太めの麺とよく絡んで口の中を蹂躙していく。
一度ついたソースの味を洗い流すためには。
「これ、でしょ?」
スっと差し出される350mlの理解。
酒飲みな彼女は全部わかっているのだ。それが顔のいい人間から出てくるのもまたいとおかし。
「悪いな」
カシュッとタブを引いて泡とご対面だ。
屋台のゆるやかな光を反射するビールの泡は虹色で……もうこれが花火ってことでいいんじゃないか?
「もう、そればっかりじゃない。悪いと思ってるなら私にも焼きそばちょうだいな」
そう言うと、千波はわざわざ箸をこちらに寄越してあんぐりと口を開けた。
今まさに持っていた箸で食べればよかったじゃないか。
「こんな人通りの多いところで……」
「じゃあ誰にも見られない木陰ならしてくれるってこと?いいでしょう、すぐに行きましょう、今すぐに!」
ふんすっと息を吐いて目を開く千波。こわいって、なんかその、本気度が。
「なんでそんなに強情なんだよ」
諦めて麺を持ち上げると、あーんと開いている口に箸を押し込んだ。
もっきゅもっきゅと咀嚼、飲み込んだ千波は嬉しそうに目を輝かせる。
「もらうわよ」
言うが早いか、真っ白の腕が伸びてきた。
反応する間もなく奪われるビール缶。気持ちはわかる。一刻も早く流し込みたいよな。
「んんん……ぷはぁ〜!やっぱこれよね!」
「おっさんみたいな声出しやがって」
「見た目とのギャップで好きになりそう?」
「減らず口を」
「いいじゃない、今日くらいは〜大事な日なのよ」
豪快な口調とは裏腹に丁寧な仕草で口元を拭うと、彼女は少し先を指さした。
「あそこ空いてるじゃない、さっさと座りましょ!」
心のどこかで気付いている。このデートがどういう類のものなのか。
「お、おう」
だから気後れしてしまうのだ。自分なんかがこの舞台に立っていいのかと。
誰かにお見せできるほど固まっていない、あやふやな気持ちで。
腕を引っ張られるままに地面に腰を下ろす。
左側に感じる熱が薄い布を通り越して肌に伝わる。きっと我に返ってはいけないのだろう。
花火の夜はどこか特別だ。
それこそ「今日くらいは」が効果を発揮してしまうくらいに。
「ねぇ圭」
こちらに目を向けずに千波は口を開く。
花火は、未だ上がらず。静かな興奮だけが辺りを包んでいる。
「どうした」
ソースの匂いも味も、全部忘れさせるほどの甘い香り。
「私ね」
雑踏の中でも彼女の声は鮮明に聞こえる。
まるで、周りの音がすべて気を遣って遠くに行ってしまったかのよう。
「あれ、ちなちゃん……と、立野くん……?」
千波の声で空気が震えるまさにその瞬間。
聞き慣れた別の声が鼓膜を揺らした。
反射的に振り返ると、目の前にいたのは広報課のジュリエット、瑚夏ゆりその人だった。
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