第30話 毒は飲んでも呑まれるな⑤〜舞台裏〜
side:瑚夏ゆり
すっかり静かになった車内。
顔が熱い、とんでもなく。これが地獄の業火だったらまだマシだったかもしれないのに。
残念ながら自分の内から湧く熱だ。
今日の私はどこかおかしい。風邪だろうか、むしろ風邪であってほしい。
これが正常だなんて恥ずかしすぎる。
後輩の男の子を銭湯に誘って、そのまま飲みにも。
挙句の果てには家にまで連れ帰って……。
こんなのいつもの私じゃない。
しかも、しかもよ?一番聞かれたくないことを聞かれてしまったのに、全然嫌じゃないどころか嬉しくて。
「こうやって俺を誘ってるのはジュリエットですか?瑚夏さんですか?」
明日の天気を聞くかのようにさらっと確かめる立野くん。
針で刺されたかのような痛みが心臓を襲う。
大人になってから本音で話したことなんて、どれくらいあっただろう。
いつの間にか心の奥の奥、誰にも見つからない部屋の中の更に棚の奥、そんな場所に本音を隠してしまった。
誰かを傷つけないため、自分を守るために。
「なんでもない、ただの瑚夏ゆりよ」
ちょっと迷ったけど、私は本心を伝えることにした。
これが初めてかもしれない。
ジュリエットでも、それを「演じている」私でもない、素の状態の私をさらけ出すのは。
初めて会った時、水族館に行った時にお願いしたことを、彼はずっと大切にしてくれている。
私をジュリエットにしないでって。
普通は逆よね。
自分の好きな王子様にヒロインにしてもらうんだ。
でも私は違う。
悲劇のヒロインを演じるのが疲れてしまったから、なんでもないモブ役になりたいの。
ただの疲れたOL、瑚夏ゆりに。
もしくは、もしくは……そんなことが起こるだなんてアラサーで考えるのも恥ずかしいけれど、叶うのなら。
叶うのなら、誰かの書いたお話みたいな借り物じゃない「人生」という演目ではハッピーエンドのヒロインでいたいわけ。
そんな恥ずかしい妄想をさらけ出しても許される関係は、甘くてぬるくて、きっとかけがえのないもの。
一度手放してしまえばこの先の生涯、手に入れるのは至難の業だろう。
「なら今は、毒も短剣も要りませんよね?」
刹那、感じた熱に身体が震える。
彼の、立野くんの口から放たれたのは「私のことを正確に把握している」言葉だった。
そして重ねられた手。
「これじゃあせっかくの毒も飲めないし、短剣で首を切ることもできないわ」
心の中に住むジュリエットがぼやく。ざまぁみろ、私と彼の間に演技なんて必要ないのだ。
なんて幸運。
前に告白してきた有象無象とはレベルが違う。私への理解度が青天井だ。
でもうかうかはしていられない。
どうやら彼の近くにはかわいいかわいいポニーテールの同期がいるから。
今のところ、僅差で私が前にいるかもしれないが、こんな距離なんですぐに詰められてしまう。
欲しいのは彼の心ひとつだけ。
だから一度掴んだら放さないようにしなきゃ。
あぁ恥ずかしい、いつの間にか私、彼のことが好きだったみたい。
自分を客観視すると意外と冷静な瑚夏ゆりが顔を出す。
期待していたより暖かくて、恐れていたより冷たい。
予想なんてあてにならないものだ。
◆ ◇ ◆ ◇
タクシーの窓はいつの間にか見慣れた景色を映していた。
そうそう、このまま真っ直ぐ行って二つ目の信号を左。
座席に添わせた手はまだ熱を保っている。
自分から立野くんに近付くのは緊張しないのに、彼から来ると身体が固くなってしまう。
あれ、そういえば部屋って綺麗だっけ。
散らかった思考はそのままに、視界は私の巣を捉える。
駅から数分、近くにスーパーもあるそこそこ広い賃貸マンション。
新卒で今の会社に入ると同時に引っ越してきたこの場所には、私の苦悩も涙も努力も落ちている。
そこに愛を加えられたらって思うのは、ちょっとキザすぎかしら。
財布を出そうとする彼を力で押しとどめてクレジットカードでお会計。
必要以上に力を込めて密着したのはここだけの話だ。
「結局来ちゃったんだ」
黒い車体を見送って一息。雨上がりの香りが鼻を通り抜ける。
呼んだ自分が言うのもおかしな話だけど、高鳴る心臓を誤魔化すには彼をからかうしかなかった。
「誰のせいですか、誰の……」
諦めたような顔で立野くんはふらふらと歩いている。
金曜日までの五連勤にお酒も入ったら、そりゃ足元も覚束なくなる。
「私ね!聞くまでもなく!」
プライベートな空間に彼がいることの不思議さを、ほどよく抜けてきた酔いがカバーする。
それこそまるで物語の中にいるみたいで。
「ようこそいらっしゃい、立野くん。もう逃げられないわね」
マンションのエレベーターを降りれば、もう部屋の前。
案外落ち着いている自分がいる。
「逃げる気なんてもうないですよ……穏やかに朝を迎えられたらそれでいいです……」
眠そうにぽしょぽしょ呟く立野くんに笑ってしまう。
鞄から取り出したクラゲが揺れた。
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