第17話 ノーチラスとタイタニック②
「あの、チケットありがとうございました」
横幅の広い大きな階段を上りながら隣の瑚夏さんに話しかける。
社員証を拾ってもらったこと、チケットを送ってくれたことに一度だってお礼を言ったっけ……社会人として当たり前の常識を忘れるところだった。
「ぜんぜん〜!あれ会社のお金だし」
事も無げに彼女は呟く。
「えっ!?」
突然明かされる事実。これが経費……?
おい、法務課にも楽しい経費の使い道をくれよ。今のところおもしろくない泊まりがけの研修の旅費とかだぞ。
スマホに煌々と光り輝くこのチケットが経費なら、考えられることはひとつしかない。
「取材ですね」
「さすが立野くん、察するのが早い!正解!」
これでも同じ会社に数年勤めているから。
とはいえ、解決していない問題もあるわけで。
「なんで二枚あるんですか……」
こういうのって大体五枚とかの複数セットでもらうか、必要に応じて一枚ずつ経費で落とすものじゃないのか。
「ほんっとにね。うーん、」
綺麗な形の顎に指を当てて、何かを言い淀む瑚夏さん。
「なんか嫌味っぽくなるから忘れて欲しいんだけどさ、」
「すぐ忘れますよ、人の名前とか覚えるの苦手なんで」
「私の名前も?」
怪しく光った瑚夏さんの瞳は、朝の街中でもはっきりと見える。
何をしても負けが確定している勝負ほど虚しいものはない……ないはずだが、どこかこの会話を楽しんでしまっている自分もいる。
「さぁ、どうでしょう」
「じゃあ忘れられなくしてあげる」
濁した言葉はそれでも、まっすぐな彼女によって澄んだ水に変わる。
あの泉みたいに。
「まぁ冗談は置いといて」
冗談だったのか。
コミュニケーション強者の考えることはわからん。
「いつも二枚渡されるの。誰かと行けってことなんだろうけど、誘うと角が立つのよね〜……だからみんなで行けるように複数枚か私一人用の一枚でいいのに」
面倒くさそうに笑う瑚夏さんに、その清楚なロングワンピースはやけに似合っていて。
じゃあ俺を誘うのは丸く収まるんですか、なんて感想は餌を前にしたイルカよろしく丸呑みにした。
◆ ◇ ◆ ◇
「さて立野くん!どこからまわろっか!」
入館手続きを済ませて長い長いエスカレーターを抜けたところで、瑚夏さんは勢いよく振り向いた。
既に視界は青と黒に覆い尽くされている。
音のしない絨毯を踏みしめて彼女の元へ。
休日ということもあって人が多い。驚いたのは、同じ年代くらいのカップルが意外にもたくさんいることか。
「順路通り行きましょう、取材ですし」
あくまで取材の体をとる。
そんなものもはや建前でしかないと、二人ともわかっているはずだけれど。
「そうね、やっぱり王道が一番!原点にして頂点よ」
瑚夏さんは高らかに宣言する。
「なんだか話が壮大になってません?」
「そりゃあ、人生は演目だからね」
もしこの人生が演劇のストーリーなら。
「なら喜劇でありたいですよ。まぁ誰かに演じてもらえるほどの人生じゃない気もしますが」
毎日変わらない生活。
同じ時間に起きて同じ時間に寝て、贅沢をするなら散歩と飲酒、こんな人生が劇の演目たるのか。
「演劇はね、決まったストーリーで決まったセリフを言うんだけど」
元来、舞台芸術とはそういうものだ。
予め取り決めがあって、それを忠実にこなす。それが芸術になるということ自体がすごいと思うが。
とてとてと歩いて水槽に近づく瑚夏さん。
暗い水に反射した彼女の顔は穏やかで、心臓をぎゅっと掴まれる。
「でもね、そのセリフに込める感情は自分のものなの。他の人が演じたジュリエットと、私の演じたジュリエットは、やっぱりどこか違うの」
くるっと回転すると、彼女のワンピースが綺麗な円を描く。
まるで映画のワンシーンを見ているような、しかしその登場人物に触れてしまえそうな二律背反の感覚。
「……自分にはまだちょっと、難しそうです」
一旦保留、大人の悪い癖だ。
難しいことは置いておくのが定石だ。
多分このまま考えを深めてしまうと、帰って来られなくなる。
「『まだ』でしょ?ならこれからゆっくり知っていきましょう。そうね、たくさん時間をかけて」
またそうやって続きを匂わせる。人たらしとはまさに彼女のことを言うのだろう。
しかしこの水族館はあくまで取材で、明後日からの俺たちは今まで通りただの先輩と後輩だ。
瑚夏さんは小さく口を開いた。
「立野くんが言ってるみたいに、人生が演目だとしたら喜劇がいいなぁ」
「ジュリエットなのに?」
悲劇のヒロイン筆頭が何を言ってるんだ。
「ジュリエットなのによ。それで最後死ぬ時に言うんだ、『この芝居がお気に召したなら』」
挑戦的な目つきでこちらに視線を向ける瑚夏さん。
この人は頭にどれだけの引き出しがあるんだ。
それがわかってしまう自分もどこかおかしいのだろうか。
「『どうか拍手喝采を』ですね。ローマ皇帝アウグストゥスですか……また古い話を」
紀元前から、というかまさにイエス・キリストが生まれた時の話じゃないか。
「おー!やるじゃない!わかる人がいるとは」
うんうんと満足気に頷く瑚夏さん。
「わからなかったら空気終わってましたよ……まったく博打しないでくださいよ、水族館で。しかも二人しかいないのに」
仕組まれていたかのような会話に感心してしまう。
日々こんなやり取りをしていたら、頭が知恵熱で茹で上がってしまいそうだ。
「二人しかいない……ふふ、そうね、二人しかいないもんね。信じてたのよ、立野くんを」
耳元に唇を寄せて、ぽしょぽしょと呟かれる。
……千波は大丈夫だろうか、こんな大変な瑚夏さんを相手にして。
なんてちょっと失礼なことを考えながら、俺は赤くなった頬を隠すように水槽へ目を向けた。
◎◎◎
こんにちは、七転です。
デート回なんて書いてていっちばん楽しいんだから。
初代ローマ皇帝、アウグストゥス。
聞き馴染みのない方はぜひ調べて見てくださいね。
みなさん世界史は得意でしたか?
私は得意でした、受験で満点を取るくらいには……!
今のところ社会人生活での活かしどころはありませんが!
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