あちらこちら、そちら
佐守良日
あちらこちら、そちら
なにに、一番恐怖を感じるだろうか。
人それぞれだとは思うが、恐らくは多くの人間が、日常の中の異物だと答えるだろうと、私はそう思っている。
ただ、ここ最近、そう、この男との対話を始めてからは、自分の中の境界線を越えてしまうことなのではないかと、思うようになった。
記憶にございません、と確かに彼は、そう言った。聞き逃してしまいそうなほど、細い声だった。
無口な男。
恐らく、周りからそういう評価をされているだろうことは、容易に想像がつく。
彼との対話が始まったのは、すこし前。編集長になにか聞き出してこいとしりを叩かれ、しぶしぶここまでやってきた。
この男は、人を殺した。
結構大きな事件で、かなりセンセーショナルに報じられたがその割りに続報はあまり流れてこなかった。概ね容疑を認めていたにも関わらず、だ。
不思議に思っていた矢先に掴んだ情報は、事故による記憶喪失。忘れてしまったのだ。作業中だか運動中だかに転んで頭を打って、記憶ごと失った。
事故か故意かは分からないが、とにかく自分の犯した罪をごっそり失くしてしまったのだ。
「本当に、なにも覚えていないのですか?」
男は、困ったように押し黙る。
今日もダメかと、ため息をひとつ吐いて立ち上がると、焦ったように、なにか仄めかすように、確かに男はこう言った。
「記憶にございません。ただ、自分ならやりかねないとは、思っております」
そうして男は、語り始める。
ただ、滔々と、「覚えていない」ことを、話し始めた。
「覚えていない、だけど忘れたくはなかった。それはきっと、甘美な記憶なのだろうから」
人を殺しておいて、なにを言っているんだと、そう思う。だけど、根っからの異常者なのであれば、さもありなん、忘れたくはなかったのだろうと納得できる。
「ぼくが殺したわけではない。いや、確かに肉体はぼくだったのかもしれないが、ぼくは殺していない。だけど、ぼくがやったのだろうと、そう思うんです」
あぁ、頭がおかしくなりそうだ。
頭を抱えて、嘆く男を見つめる。
奥底から出てくる様々な感情をすべて飲み込んで、私は男の次の言葉を待った。
「もし、もしもですよ。当然、ありえない話ではありますが、もしも心神耗弱が認められて釈放なんてことになったら、ぼくは恐らく、その記憶を辿ると思うのです。どうやって殺したのか、実演すらしてしまうのかもしれない。そういう想像がね、ぼくは止められないんです」
だからきっと、ぼくは罪を認めて一生ここにいなくてはいけないんです。
その顔からは、なんの感情も読み取れない。本心かどうかも分からない。さっきまで表情豊かに語っていたのに、全くの無だった。
どこか他人事のように話すその男に、背中の真ん中あたりから、ぞわりとなにかが広がる感覚がした。やがて全身に広がったそれを振り払うように立ち上がる。
「…また来ます」
「お待ちしております」
わらった、ように見えた。
口角はあまり上がっていなかった。まるで、初めて笑みを浮かべたときのように、ぎこちない笑顔だった。前の会話がなければ、それとは気づかなかったかもしれない。
結局、男の異常性を垣間見ただけの時間だった。私は情けなくも逃げだした。だって、限界だった。
あんなもの、世に放っていいわけがない。
「それで逃げ帰ってきたの」
「すみません」
「…いいわ、今日はもう帰りなさい」
「お先に失礼します」
自分と相手の境が分からなくなって、相手が喋ってるのか、自分が喋ってるのか、分からなくなる。
彼との対話は、いつでもそうだった。
あぁ、私はこちら側でいたいのに。
男の後ろを覆う闇は、濃く深い。触れたくはないのに、触れずにはいられない。
そんなおかしな感覚に陥ってしまうのだ。
恐らく闇というものは、誰しも持っているものだと思う。いや、中にはそんなもの存在しない光そのもののような人間もいるのだろうが、私は出会ったことがない。
ただ、彼の闇はなんだか種類が違うように思う。少し、重いのだ。強いていうなら、質量が違うのだろう。恐らく、彼の闇は誰よりも深く沈んでいるのだろうと思う。
しかして人というものは、記憶を無くしても善人にはならないものなのだな。
膜が張ったようなあの目を思い出すと、少し吐き気がした。
こわい、そこにいたくない、だけど聞いてみたいのだ、本心を。覗いてみたいのだ、奥底を。
それから数週間、なにかと忙しく過ごしていると、男の訃報が届いた。
ただ、純粋に驚いた。囚人同士のトラブルで、とのことだったが、本当にそれだけだったのだろうか?なんだか心がざわざわする。
だけど、それ以上なにかする気もなかった。実際、なにもできることはなかった。
殺人犯が記憶喪失の上、獄中死。いい見出しだが、問題は中身だ。あの会話を元にしたところで、ほぼなにも聞き出せていないのと同じこと。
今から調べるにしろ、時間がかかりすぎるし、誰かがなにかを知っているとも思えない。
なんとなく、そう、本当になんの確証もないが、彼は私にしかあの話をしていない気がするのだ。
根拠はない。ただ、私がそう思うだけなのだが。これで気を利かせた彼が、心中を記した手紙でも送っていてくれたのなら、話は別だが。そんなことは恐らくしないだろう。
「死ぬつもりなんて、なかったろうしなぁ」
自分の中の『本当にそうだろうか』という考えをなんとか押し潰して、忙しさをこなす。
きっとそのうち、忘れてしまう。あの不気味な眼差しを。光の届かない、奥底の闇を。全てが彼のものなのに、自分のものではないのかと錯覚してしまうような、あの時間。いや、きっと私はさっさと忘れてしまいたいのだろう。
鍵をかけてしまっておかなくてはいけないものは、意外とこの世には多いのかもしれない。
「なんか、手紙届いてるよ」
鼓動がひとつ、全身を揺らした。まさか。心臓のあたりを抑えながら、呼吸を整える。そんな都合が良いのか悪いのか分からないことが、起こるものなのか。
ただの手紙ではないという不吉さが、全身を覆う。関わってしまった自分が悪いのは分かっている。
先日は、ありがとうございました。
その後、お変わりはないでしょうか。
あれからお顔を見れず、少し心配しております。
さて、なぜ手紙をとお思いかもしれません。
きっと僕は、もうこの世にはいないでしょう。
なんて、映画の台詞みたいですね。
一度言ってみたかったのです。
なにからお話すればいいのか…別に、記憶が戻った
わけではないのです。
一向に思い出す気配はありません。
だからなのか、ふと、思いついたのです。
思い出すことも、記憶を辿ることも許されないのであれば、僕自身で踏襲すればいいのではないかと。
それはまるで、天啓のようでありました。
ただ、やり方を間違えてはまずい。
すごくすごく、考えました。
もしかしたら、人生で初めてかもしれないというくらい、考えました。
僕を殺してもらうには、どうすればいいか。
どんな方法がいいのか。
きっと、一番に『いのち』を感じられる方法がいいと思いました。
きっと僕は、それが一番好きだったはずだと思います。
いいえ、思い出したわけではありません。
ただ、そう思ったのです。
僕のどこかが、反応したのかもしれません。
あなたの目が忘れられません。
まるで憐れむような、そんな目をしていました。
あれは、あの目は。
できることなら、あなたのその目に看取られたかった。
その手を、煩わせてみたかった。
このような執着心は、初めてです。
逞しく、気高く、ぼくはあなたのようになりたかった。
まるで、ラブレターのようだった。
一文字一文字に感情が籠っているような気がして、どうにも座りが悪い。
足先からなにかが這い上がってくるようだ。
そう、とてもとても気持ちが悪い。
破いて燃やして、捨ててしまえと頭の中で声がする。それがいいと、分かっている。
だけど。
本当だろうか。彼は本当に、自分を殺させたのだろうか。
なぜ、どうやって。いてもたってもいられず、再び刑務所に赴いた。どうしても、彼を殺した囚人に会いたかった。
「本当は、ひとつだけ覚えていることがある。怯えた目から、死ぬ直前、こちらを憐れむような目になる瞬間がある。本当に、一瞬だ。その後、すぐに死んでしまうから」
「彼が、そう言ったのですか、あなたに」
「そうです。それで怖くなってしまったんです。相手が囚人なら、罪を重ねることにはならないかなと彼が言ったので。殺されると思って、それで、気づいたときには、もう」
うまく誘導したのかもしれない。自分を殺させるなんて、まさかそんなと思ったが、合点がいった。
憐れみ、きっとそれは彼が一番理解できない感情だったのだろう。
弱く、操りやすい人間を選んで。
あぁ、分かってしまいたくなかったことが、分かってしまう。私は彼を憐れんでしまったから。
ただ、子どものような興味で、その憐れみの理由が知りたかったのだろう。
自分の手の中にある命に、彼は慄いたのかもしれない。その憐れみが、彼の記憶を消したのかもしれない。
あちらに行ってしまった。
私は、こちら。
そちらには、何がある。
なにもない四角の中にいることが、私は一番怖い。
了
あちらこちら、そちら 佐守良日 @y_samori
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