第3話 怪異の正体
夜の帳が下りると、屋敷は昼間とは別物の顔を見せた。闇に沈んだ木造建築は、まるで巨大な生き物の死骸のようだ。
広間には、異様な光景が広がっていた。
仏壇の前に鎮座するのは、荘厳な供物――ではなく、二台の巨大な業務用スピーカーと、数台のサーバーラック。無数のケーブルが、畳の上を這う蛇のように張り巡らされている。
「馬鹿げている! こんな機械を持ち込んで、何を始める気だ!」
汗だくの権田が声を荒らげる。その額には玉のような汗が浮いていた。
インカムマイクを装着し、司令官のようにモニターを見つめる蓮は、彼を一瞥もせずキーボードを叩く。
「静かに。チューニングが狂う。……月見里、マイクテストだ」
時刻は午前二時五十分。例の時間が迫る。
「来ます……」サトミが青ざめた顔で天井を見上げた。
その言葉を合図にしたかのように、空気が変わった。
鼓膜が内側から押されるような圧迫感。部屋の空気が急に重くなり、水の中にいるような閉塞感に襲われる。
『……ォォォォ……』
低い唸り声とともに家全体が振動し、障子がカタカタと震え、箪笥が物理法則を無視して大きく跳ね上がった。
「ひぃぃっ! 天狗様だ! お怒りじゃあ!」
祖母が悲鳴を上げて数珠を擦り合わせる。
「始まったな」
蓮の声だけが氷のように冷静だった。
「周波数17ヘルツから19ヘルツの間で変動。音圧レベル上昇中。……素晴らしい。教科書通りの『恐怖の周波数』だ」
ガタンッ!!
天井の梁がきしみ、吊り下げられていた重厚な照明器具がブチリと音を立てて落下した。落ちる先には、逃げ遅れたサトミがいる。
「サトミ!!」
私が叫ぶのと、蓮が動くのは同時だった。
「チッ――!」
蓮はモニターから飛び退き、サトミを突き飛ばした。
直後、ドガン! という轟音とともに、照明器具が畳にめり込む。ガラスの破片が飛び散り、私の頬を掠めた。
「蓮さん!」
「……無事だ。かすり傷にもならん」
蓮は着物の袖についた埃を払いながら、サトミを助け起こす。その目は、かつてないほど鋭く、怒りに燃えていた。
「よくも僕の大事なモルモットに手を出してくれたな。……ゆるさんぞ」
彼は素早くコンソールに戻ると、マイクのスイッチを入れた。
「月見里、耳を塞げ! 最大出力で行くぞ!」
「えっ!?」
「『
蓮がエンターキーを叩き込んだ瞬間。
ドォォォォンッ!!
スピーカーから、腹に響くような爆音が放たれた。
それは音楽ではなく、ただの「音の塊」。
しかし、不思議なことが起きた。その爆音が響いた瞬間、あれほど激しく揺れていた家が、まるで時が止まったかのようにピタリと静止したのだ。
不快な唸り声も、吐き気も、嘘のように消え去った。
「え……?」
静寂が戻った広間で、私は呆然と立ち尽くす。何が起きたの?
「『ノイズキャンセリング』と同じ原理だ」
蓮がインカムを外し、勝ち誇ったように言った。
「この家を揺らしていた低周波音に対し、正反対の波形の音をぶつけて相殺したんだ。……音による毒を、音という薬で中和したのさ」
彼はヘッドホンを首にかけ直し、呆気に取られる一同を見回して種明かしを始めた。
「この怪異の正体は『ヘルムホルツ共鳴』だ」
「ヘルムホルツ……?」
「ビール瓶の口に息を吹きかけると『ボー』と音が鳴るだろう? あれと同じだ」
蓮はタブレットにタッチペンで図解し始めた。
「この家は最近のリフォームで気密性が高められた。だが、屋根裏に通じる換気ダクトの設計がおかしい。特定の方向から風が吹くと、家全体が巨大な『瓶』となり、ダクトが『吹き口』となって空気が振動する」
その振動数がたまたま19ヘルツ近辺――人間の可聴域ギリギリの低周波だった。これは「幽霊周波数」とも呼ばれ、人間に幻覚や強烈な恐怖心を引き起こす。天狗の笑い声も、家具が動くのも、すべては風と建築構造が生み出した物理現象だった。
「ば、馬鹿な! 土地の因縁を科学で説明できるか!」
叫んだのは権田だった。顔を真っ赤にして立ち上がる。
「そ、そんなデタラメがあるか! 素人風情が!」
権田の剣幕に私は一瞬怯んだが、蓮は冷ややかな目で彼を見下ろした。
「デタラメ? ……なら聞こうか、権田さん。なぜ、あなたは今日、この時間にここに来た?」
「は? 心配だったからに決まって……」
「嘘だな」
蓮はバッサリと切り捨てた。
「あなたは知っていたはずだ。今夜、強い西風が吹くことを。そして、この風向きの時だけ、共鳴現象が最大化することを」
蓮はタブレットに、リフォームの図面を表示させて権田に見せつけた。
「ヘルムホルツ共鳴を起こすには、部屋の容積とダクトの長さ、開口部の面積が完璧な比率でなければならない。偶然でこれほど綺麗な共振が起きる確率は、猿がタイプライターを叩いてシェイクスピアを書くよりも低い。……この家は、最初から『幽霊屋敷』を作るために意図的に改造されたんだ」
広間に衝撃が走る。権田の顔から血の気が引いていく。
だが、次の瞬間、彼の顔が醜く歪んだ。
「……ガキが。余計なことに首を突っ込みやがって」
権田が懐から何かを取り出した。ジャキッ、という金属音。飛び出しナイフだ。
「キャアッ!」
「動くな! どいつもこいつも!」
権田はナイフを振り回し、サトミたちを威嚇する。完全に逆上している。追い詰められた獣の目だ。
「蓮さん、逃げてください! こいつマジです!」
私が叫ぶと、蓮はふっとため息をついた。
「やれやれ。科学的議論が通じない相手はこれだから困る。……月見里、それ、押せ」
「は?」
「僕のPCのエンターキーだ。思いっきり叩け」
権田がナイフを構えて蓮に突進する。
「死ねぇぇぇッ!」
「早くしろ!」
蓮の鋭い指示。私は考えるよりも先に体が動いた。祭壇のようなデスクに駆け寄り、一番大きなキーを中指で叩きつける。
ターンッ!!
直後。
キィィィィィィィン!!
耳をつんざくような、超高音の金属音が炸裂した。
「ぐあぁぁぁぁぁっ!?」
権田がナイフを取り落とし、耳を押さえてのた打ち回る。まるで頭を直接殴られたような衝撃だったのか、彼は白目を剥いてその場に倒れ込んだ。
「……モスキート音の強化版だ。三半規管を直接揺さぶってやった。しばらくは平衡感覚が戻らないだろう」
蓮は何事もなかったようにヘッドホンを外し、倒れている権田を冷ややかに見下ろした。
そして、震えている私の方を向き、いつもの意地悪な笑みを浮かべた。
「ナイスタイミングだ、助手。君にしては上出来だよ」
「……寿命が縮まりました……」
私はへなへなと畳に座り込む。
事件は解決した。科学の力で、悪霊も悪人も退治したのだ。
だが――。
蓮はふと、窓の外の闇に目を向けた。その横顔が、なぜか少しだけ険しく見えたのを、私は見逃さなかった。
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