すなわち、筋肉 ~祭服の下にシックスパックを作っても神に祈りは届かなかったので、世界の筋肉を知る旅に出ます~

レルクス

第1話 辞表提出。却下された。しかし、旅に出る。

 ドォォォォォォォンッッ!!!!


 大聖堂の最奥、教皇の間。

 神聖なる静寂が支配するはずのその空間に、攻城兵器が着弾したかのような轟音が響き渡る。


 震源地は、部屋の中央にある教皇の執務机。


 天板の中央には蜘蛛の巣状の亀裂が走り、その中心には、一枚の羊皮紙が深々とめり込んでいる。


 ……すっごく不思議なことを言うと、机はベッキベキなのに、羊皮紙が破けている様子がない。


 机の持ち主である教皇は問い詰めたい気持ちがほんの少し湧いたが……それは、辞表だった。


 人によって、丁寧に出すのか、それとも叩きつけるのかに差は出るだろうが、目の前にいる人間の形をした不思議な生物にとっては、叩きつける物のようだ。


「本日付けで退会させていただく」


 低いが、よく通る声だった。

 地底のマグマが鳴動するような、あるいは巨大な鐘を指で弾いたような、腹の底に響くバリトンボイス。


 声の主は、一人の男である。

 身長二メートル。


 分厚い祭服の上からでも分かる、異常な筋肉の盛り上がり。


 首の太さは丸太のごとく、僧帽筋の山脈が耳の高さまで隆起している。


 神聖兵団所属、エルクサム。

 教団最強の男が今、教皇に対し、三行半みくだりはんを突きつけていた。


「……ま、待ちたまえエルクサムよ」


 教皇は、目の前の突然変異の権化、エルクサムを呼び止めつつ、限界までひきつった笑みを浮かべながら、めり込んだ辞表に視線を落とした。


 指でつまんで取ろうとするが、分子レベルで木材と融合しているのか、ビクともしない。


「そもそも受け取れなくなっているが……聞こう、待遇への不満か? ならば給与を弾もう。プロテインの現物支給でもいい」

「不満はない。絶望したのだ」


 エルクサムは、悲しげに首を横に振った。

 その動作だけで風圧が発生し、教皇の帽子が少しズレる。


「私は毎日祈った。『山をも砕く力を』『ドラゴンを絞め落とす腕力を』と」

「……うむ。信仰熱心なことだ」

「だが、神は何も与えなかった。私の祈りは届かなかったのだ」


 エルクサムの手が、自身の祭服のボタンにかかる。


「見よ」


 パァァァンッッ!!!!


 弾ける音と共に、特注の強化繊維で編まれた祭服の前が全開になった。

 ボタンが散弾銃のように四方へ飛び散り、壁や柱にめり込む。


 教皇はボタンが自分に当たらなくてよかったと思っていた。

 多分、当たったら死んでるので。


 現れたのは、鋼鉄の壁。

 ……否、人間の腹直筋だ。

 だがその彫りの深さは、グランドキャニオンの如し。


「このシックスパックを!」


 エルクサムは右足を前に出し、両手を腰に当て、腹筋と大腿四頭筋を極限まで強調。

 ボディビルで言うところの規定ポーズ、『アブドミナル・アンド・サイ』である。


「見とるわ! 毎日!!」


 教皇が思わずツッコミを入れた。

 会議のたびに暑苦しいポーズを見せられている身としては、今更感しかない。


 そして、限界まで突き抜けた今更感をもってしてもここまで大声を出せるあたり、教皇の天職はツッコミ役なのだろう。

 不本意極まりないのは……それこそ今更だ。


「『健全な魂は健全な肉体に宿る』……経典にはそうある」

「……うむ」

「私はこの肉体を、血の滲むような鍛錬で作り上げた。いついかなる時も、神の力を受け入れられるようにだ! なのに神は、私に1グラムの筋肉も与えてはくださらなかった!」


 エルクサムはポーズを変える。

 横を向き、両手を組み、胸の厚みを誇示する『サイド・チェスト』。

 ビキィッ! という、人体からしてはいけない音が室内に響く。


「要するに、『健全な魂は健全な筋肉に宿る』……私には聖職者としての才能がないのだ!」

「『健全な肉体に宿る』だ! そもそもその解釈がおかしい! 経典を筋肉理論で翻訳するな!」


 教皇の悲鳴に近い反論など、エルクサムの鼓膜には届かない。彼の耳は、筋肉の軋む音を聞くためにあるからだ。

 

 その時。


「あの、教皇、諦めた方がいいっスよ」


 エルクサムの足元から、声が聞こえた。


 亀……と言えるだろう。ただし、甲羅には『植木鉢』が同化しており、若葉が出ているので今もないかを育てていると思われる。


 プランターとタートルが合体して生まれた精霊、プランタートル。


 何とも不思議な生物だ。

 ……いや、隣にいる筋肉ダルマの方が不思議な生物か。


 それはともかくとして、気の抜けた声で精霊が言った。


「旦那は思い込んだら一直線っスよ。昨日も『大胸筋の声が聞こえない、スランプだ』とか言って、裏山の岩壁を粉にしてきたっスから」

「……プローテよ。止めなかったのか」


 教皇に問われて、精霊……プローテは首を横に振った。


「無理っスよ。僕、ただの豊穣の精霊っスもん。旦那のバーベルのプレートくらいの重さしかないっス」


 教皇は頭を抱えた。

 この男を野に放つことの意味を、彼は理解している。


(エルクサムは、歩く戦略兵器だ)


 彼が「ちょっと隣国へ武者修行に行く」と言って国境を越えれば、それは国際社会において「侵略戦争の開始」と見なされる。


 力づくで止める? 不可能だ。『豊穣神教会』の戦力である『神聖兵団』が束になっても、拘束はできない。


 論理で説得する? 無意味だ。彼の脳内は「筋繊維」と「タンパク質」で構成されている。


 ならば――。

 教皇の脳裏に、起死回生の閃きが走った。


 毒を以て毒を制す。

 筋肉には、筋肉ロジックをぶつけるしかない。


「……待ちなさい、エルクサムよ。お前は大きな勘違いをしている」

「なんだと?」


 教皇は威厳たっぷりに立ち上がり、組んだ両手を口元に当てた。

 さも、深遠な真理を語る賢者のように。


「お前は言ったな。筋肉の全てを体得した、と」

「無論。これ以上のバルクアップは、物理的に不可能だ」

「愚か者め。お前はまだ、筋肉の入り口に立ったに過ぎん」


 ピクリ。

 エルクサムの大胸筋が反応した。


(目は口程に物を言うというが、コイツの場合は筋肉じゃな。分かりやすいんだかわかりにくいんだか)


 教皇はため息を押し殺した。


「……詳しく聞こうか」

「よいか。健全な魂が宿るとは、お前の心の中に、筋肉の理想郷、『マッスリア』を生み出すことなのではないか?」

「……マッスリア?」

「そうだ。お前は見えるのか? 自分の心の中に、筋肉の理想郷が!」


 教皇は畳み掛けた。口から出まかせ、完全なるアドリブである。


「見え……ない。まだ、私には見えない」

「当然だ。それはお前が『井の中の蛙』だからだ!」


 教皇は窓の外、広大な世界を指差した。


「北の凍土に住む巨人の『広背筋』を見たか? 南の密林に潜む魔獣の『瞬発力』を知っているか? ドラゴンの鱗を砕く『インパクトの瞬間』を、お前は知っていると言えるのか!?」

「ッッッ……!!」


 エルクサムが戦慄した。

 知らなかった。


「ち、地下のジムで満足していた私は、間違えていたのか……っ!」

「ジムじゃなくて『地下牢』っスけどね。普通の部屋は旦那の重さに耐えきれないっス」


 プローテが余計な茶々を入れてきたが、教皇は無視。


「司教権限を与えよう」

「なっ、司教だと?」

「本来、『神聖兵団』は武力のみで、こうした権限は与えていない。だが、お前には特別に与えてやる。それをもって、世界の多種多様な筋肉を学ぶのだ。そして心の中に見つけるのだ。筋肉の理想郷、『マッスリア』を!」


 教皇は、ビシッとエルクサムを指差した。


「それが完成するまで、教会を抜けることは許さんッ!!」


 静寂。

 エルクサムは震えていた。

 その目には、感動の涙が浮かんでいる。


「……教皇猊下。私は……浅はかだった」

「う、うむ」

「神官の仕事とは、布教ではなく、筋肉の見聞だったのか」

「(言ってないが)……いかにも」

「理解した。その任務、謹んでお受けする!」


 エルクサムは深く一礼すると、机にめり込んだ辞表を無理やり引き抜いた。


 バキバキバキィッ!


 机の天板が完全に割れ、無惨な木片となる。

 彼はその羊皮紙をクシャクシャに丸めると、口の中に放り込み、バリボリと咀嚼して飲み込んだ。食物繊維の摂取である。

 多分、ヤギに土下座したほうが良いと思う。


「行くぞプローテ。世界が私の大腿四頭筋を待っている」

「へいへい。……あーあ、また生態系が乱れるっスよ」


 エルクサムは踵を返し、風のように部屋を出て行った。

 

 あとに残されたのは、半壊した机と、放心状態の老人ひとり。


「…………」


 教皇の体から力が抜け、スライムのように玉座へ崩れ落ちた。

 重厚な三重冠が、ズルリと頭から滑り落ちる。


「……あの、凶行様」


 控えていた側近の枢機卿が、無表情で胃薬と水を差し出した。


「教皇な。漢字が違うぞ。……で、何だ?」

「一体、何が目的なのですか? あんなデタラメを並べて」


 教皇は震える手で胃薬を飲み下し、乾いた笑いを漏らした。


「ワシ、何言ってたんだろ。教皇の凶行。なんちゃって♪」

「落ち着いてください。座布団一枚あげますから」

「……はぁ。だがまあ、あの話の流れなら、奴は『お前の理想郷は完成していない!』と断言すれば、また鍛えだすだろう。ずっとこの教会に飼い殺しにできる」


 教皇の瞳に、古狸のような狡猾な光が宿る。


「ああそれと、ある『噂』を流しておけ」

「噂、ですか?」

「『教皇は、エルクサムの旅に、自分にとって都合の悪い信徒を同行させようとしている』とな」


 側近は、ハッと息を呑んだ。

 エルクサムは、この教会で唯一、自分と筋肉の話ができる教皇を気に入っている。

 つまり、教皇の敵は、エルクサムの敵だ。


「なるほど……。教皇様の地位を脅かす不届き者を、あの筋肉地獄ツアーに送り込むと」

「左様。最近、裏金に手を付けようとする輩も多いからな。引き締めも兼ねてということだ」


 教皇は、粉々になった机の破片を拾い上げ、ニヤリと笑った。


「筋肉は裏切らない、と言うからな。精々、教会の浄化(物理)に役立ってもらうとしよう」


 こうして。

 史上最強にして最狂の筋肉司教、エルクサムの旅が始まっていいわけないだろボケ。

 ……失礼。

 エルクサムの旅が始まった。

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