虹彩異色症
白美希結
リアチャンノコト
-ボクのキモチ- ①
【僕は愛されている
僕だけを愛しているんだよね
そうでなくなってしまう前に
取ってしまおう
二人の宝物は
ヒトリだけの
僕だけなんだ
何があっても変わらないはず
でも僕は見えてしまったんだ】
20XX年 十二月
イルミネーションが街を明るくしても、カーテン越しに光がさす頃には、お腹が必ずチクチクと騒ぎ出す。
気温なんて関係ない。この痛みは、もう何年も同居している。
もう少し、毛布と恋人同士のようにくっついていたいが容赦無く引き離される。
「わかってる。行くわよ」
お決まりの独り言を吐き、毛布とサヨナラをする。
「この季節、本当に辛い」
桜木理愛は老婆のように腰を曲げ、ササッとキッチンをすり抜けた。
エプロンをヒラヒラさせながら、朝食の準備をしているママの気配が目の端にちらついた。
「今日はご機嫌なのね」
自分にだけ聞こえる声でつぶやき、バタンと風が起きるほど強くドアを閉めた。
微かに足音がする。ドン、ドンと重さを乗せた叩き方でノックをされた。
『やば。来たよ』
数秒前までご機嫌だったはずなのに、『不』をまとった不機嫌様がやってきた。
鼻から空気をゆっくりと吐き、声の音階を上げる。
「なぁに?」
「……うるさい。ドアくらいそっと閉めなさいよ。そんなに毎日お腹痛いの?もしかして当てつけ?」
そんな訳ない。返す言葉が見つからない。
「無視?……あ、そう。あんたって性格悪いわよね。お友達がいないわけよ」
ママの波には乗れない。前触れなしで大波になり感情をかき乱してくるのだ。さざ波になるまでトイレの住人になりたかったが、スマホを忘れた。退屈には勝てない。
「理愛のお友達はトイレなのね。いつまでもこもっていればいいわ」
「今出るって」
「その前に、質問に答えなさいよ」
自ら大波にのまれにいくなんて、もう耐えらない。
しかし、カチャっと取っ手を握ったまま背を向け謝った。
「ごめんなさい」
出た。私の悪いところ。
幼い頃から『ごめんなさい』が口癖だ。不機嫌様が現れると顔を出す。
「謝ってないで、答えてって言ってるでしょ」
腹痛の理由を聞くまで通せんぼをするらしい。それならこの際、いい機会だから言っておこう。
「何年も前から、チクチクする痛みで目が覚めるの」
「それって演技じゃないの?」
────だとしたら、誰が得をするのよ。
「……ひどい」
「毎朝、俳優気取りなのかと思ってたわ」
「もしかして、痛がっていたことを知ってたの?」
思わず肩に力が入ってしまう。答えを聞くのが怖い。
「当たり前じゃない。親をなんだと思ってんの」
────ズキッ。
聞く前の時間に戻れたらどれだけいいか。
「一度も心配にならなかった?」
「日常生活を送れないほどじゃないでしょ」
体が萎むように、肩の力が抜けていく。
ママは答えを求めていたわけではない。ただ、不機嫌様の矛先を私に向けたかっただけ。
満足したらしく、クルッと背を向けキッチンに足を運ぼうとしている。
「待って。一度病院に行きたい」
振り向きながら長い髪をかきあげ、細い目で私を刺すように見た。
「一体、何を診てもらうのよ。遊びに行く元気だってあるじゃない。くだらない事を言ってないで早く朝ごはん食べて」
「だから、お腹が痛いの!」
思わず感情のまま言葉を発してしまった。
「食べたくないなら片付ける。ママのお腹が空くわけではないし。とにかく急いでるの。そんな話に付き合ってる時間はない」
「ごめんなさい……」
ママに何を言っても無駄なことを忘れていた。それは、私に関心がないからだ。
────あれは、中一の夏休み前。
学校生活でも私の『悪い癖』が何度も顔を出した。
群れる女子は、ハイエナに似ている。目が合った瞬間、もう逃げ道はない。
その中の一人が言ったのだ。
「桜木さんってすぐに謝るじゃない?弱虫なのよね」
ギラギラした目たちに囲まれ、無意識に私は『ごめんなさい』を口にしていた。
「ほらね。また謝った。ウケるんだけど」
この瞬間、獲物が誕生してしまったのだ。
よだれを垂らしながら、じりじりと近づいてくる。このままでは言葉の刃で骨まで食べられてしまう。
「ご、ごめんなさい」
それ以外の言葉は見つからなかった……。
「あんた達……ほんと、ダサ」
突然、床を震わせるような低い声が聞こえた。一瞬、追い詰められたせいで幻聴かと思ったが、違った。
「あら、一華さん。今日も一匹狼ですか?」
「群れなければ強がれないくせに。あんたとは違うの」
目がキリッとした子は、私の腕を引っ張り、盾になる。
「行こう」
自然と手を握り、その場から救ってくれた。ふわっとフルーティーな香りがした。
一瞬で、一華は特別になった。
一度噛みつかれてしまった心は傷跡を残した。
ハイエナたちの言っていたことは、正しかったのかもしれない。
それはあの日以来、校門をくぐることができなくなったからだ。
蝉の鳴き声が少しずつ減っていき、季節は変わろうとしていた。しかし、私の時間は止まったまま。
娘の異変などお構い無しにママは日常を繰り返していた。
「理愛!」
階段の下から声を張り上げ、何度も呼ぶ。
「聞こえないんだって」
枕に拳をグリっと押し込ませ、声を整えた。
「はぁーい」
ササッとキッチンを通りすぎ、階段を見下ろす。
「家にいてくれてよかった。お肉の仕入れに行ってくるから、ちょっとお店お願い!」
ママは紅葉に彩られた道へ消えて行った。
────『家にいてくれてよかった』
私はあのときの言葉が忘れられない。学校に行けない娘にかける言葉ではないから。
キッチンでお腹をさすり、ペラペラと雑誌をめくる。しかし、階段下から名前を呼ばれ、あの時と同じように声を整えた。
「はぁーい」
「いつまで二階にいるのよ!予約のパック詰めして!」
店番をした日から、どうやら私はスタッフ扱いになったらしい。
「今行きます」
とは言ったものの、すぐに腰をあげることができなかった。
────あなたの、本当に見たいものが見えます。
「片目だけにコンタクト?」
高校生なら誰もが知っているであろう『ヒビキ』がオッドアイにし、一面を飾っていた。
「本当に見たいものかぁ。……ない。」
細く刺すような目、ギラギラした目。できる事ならば何も見たくない。
でも、一華のキリッとした瞳だけは私を救ってくれた。
「会いたいな」
文字に気持ちを乗せて送信ボタンを押した。
音を立てずに階段を降りた先には、不機嫌様がパチンと大袈裟にパックを留めている。
「遅くなってごめんなさい」
「何してたのよ」
「お腹が痛かった」
一体、何のために言い合ったのだろう。無駄な時間を返して欲しい。気持ちを伝えてもママの心には私の足跡は微塵も残らない。
それならば、エグれるような爪痕を残せばいいのだろうか。
最近世間を騒がせている、あの事件……。
『両親目玉くりぬき事件』のように。
間違いなく私に愛情がない。
それなのに、いつも“愛情たっぷり”の顔で料理を売っている。
『料理は愛情というスパイスで美味しくなる』
『隠し味は愛です』
こんなキャッチフレーズは嘘だ。
【アイディール -デリ-】
・営業時間 十一時~十八時
・定休日 日曜日
我が子に愛情を持てない人が、デリなんてお洒落な店を営んでいるからだ。
そんな店が人気店になるなんておかしい。
それと、メインデリの明記もおかしい。
ローストビーフを『ろーすとびーふ』と平仮名で書いてある。
相変わらず輪ゴムの音を響かせている。
「時間がないって言ってるのに。ほんと役立たず」
「後は、切り干し大根を詰めればいい?」
「いちいち聞かないと分からないの?」
奥歯にギュッと力を込める。
糸のように張り詰めた空気はリンリンとドアが開かれる音で緩まった。
「いらっしゃいませ」
家では決して聞くことない、柔らかい声が店内を包んだ。
透明のデリケースの中で彩られていたデリたちは、閉店時間前に売り切れた。
「今日も完売したね」
ガシャガシャと洗い物をするママに声をかけた。
「早く遊びに行きたいわけ?」
「そんなつもりで言ってないよ」
不機嫌様の登場スイッチが掴めない。
「じゃあ何?」
「よかったねって言いたかったの」
「……」
水の音が遮ったのか、わざとなのか。会話は終わった。
また糸が張り詰めてきた。このままではこの糸が凶器に変身してしまいそうだ。
そうなる前に鈴の音だけを響かせ、木々たちが光を纏う世界に飛び出した。
街を歩く人たちは厚い服のせいで雪だるまのように見える。
さっきまでグツグツとしていた私は冷気に触れ、湯気が一気に蒸発してしまった。
待ち受けの通知をタップし、暖かさを取り戻した。
『私もだよー。十八時半にいつもの場所に集合ね!』
店内で一華を待つことにした。
両隣の密室からは熱を含んだ声や、音階を見失った声などが壁を響かせている。
立てた肘に顔を乗せ、片方の手で画面をスクロールしていると思わず親指を止めてしまった。
「……あの事件」
────両親の目玉をくりぬき、世間を震わせた少年は逮捕された際、こう語っていた。
『本当に見たいものが、見えてしまった』と。
彼は一体、何を見たのだろうか。
片目が赤色であったことは関係あるのだろうか。
それ以来、『ヒビキ』という名前以外の言葉は発していないらしい。
彼を怪物に変身させたものとは────
ガチャと勢いよく開かれるのと同時に名前を呼ばれ、スマホを伏せた。
「リーあー!会いたかったぁ!」
勢いを落とすことなく私の体をギューっとした。懐かしいフルーティーな香りに包まれる。
「時間作ってくれてありがとう」
「もう!そんな言い方しないの。私にまで気を使わないって約束でしょ」
肩まである髪をくしゃくしゃとされる。
「あれ?髪の色変えたじゃん。いいなぁ。校則は無視するとしても、親がうるさいからさ」
「何にもよくないよ。ママなんて気づいてないから」
「出た、出た!ないものねだり」
……目と目が合い、お腹を抱え二人の笑い声を壁に響かせた。
「今日は吐き出そうぜー!」
「おー!」
「先に歌わせて頂きます」
一華は両肩を少し上げ、クスッと笑った。
抑揚をつけた歌声に聞き惚れていると、『ブー、ブー』とテーブルが振動した。
画面を見なくても表示されている二文字を知っている。
鉛のように重たいスマホを持ち、思わず舌を鳴らした。
予想通りの文字が並んでいた。
────『ママ』
不機嫌様の登場だ。
アイコンタクトをし、トイレに向かった。
「はい」
「どうしよう……」
涙を含んだ声が聞こえ、予想外の展開に息をのむ。
「どうしたの」
「……もう、無理よ」
「落ち着いて。大丈夫だから」
「丸焦げになっちゃったの。明日は営業できない」
深い息を飲み込み、声の音階を上げる。
「何を焦がしちゃったの?」
「……ろーすとびーふ。他になにがあるのよ」
まずい。不機嫌様に変身しそうだ。
「あんたっていつもそうよね。いちいち説明しないと分からない。昼間の切り干し大根だってそう。何にも考えないで生きてる証拠よ!」
「そんな言い方……」
「どこにいるのか知らないけど、困ってるんだから帰るくらい言えないわけ?」
───いい加減にして。
「明日、営業しないから」
「ちょっと、待って。他のメニューで……」
ブチ。
遮断された機械音が一方的に聞こえ、二人の間を張り詰めていた糸も切れた気がした。
個室にこもったまま、目をつむり息を整える。
「どうしてほしいのよ。丸焦げになるまで、一体何をしてたの」
握りしめた拳を罪のない壁にむけようとしたが、『ゔぉーん』誰かが手を乾かす音が聞こえとどまった。まるで、心の水滴を全て乾かされた感覚に陥っていく。
……帰りたくない。
……帰らなければ。
かき混ざった気持ちのまま、ドアを開けた。
スマホを片手にキリッとした目が向けられる。
この部屋だけが音を奏でていない。
「もしかして、またママから?」
「そう……」
ハイエナたちを見ていた一華の目が蘇った。
「帰ろ」
「帰らない」
「気を使わないでって言ってる。帰ってこいって言われたんでしょ?私、怒ってないよ」
唇を噛み締めた。
「……帰りたくないの」
心は乾いていたはずなのに、涙が止まらない。
「泣かないで。って言いたいけど、好きなだけ泣いちゃえ!」
フルーティな匂いにギュッと包まれ、私の泣き声が壁を響かせた。
暖かい手が背中をさすってくれる。
「理愛、このまま聞いて。言われたくないかもしれないけど、もっと自分を大切にして。簡単に親から離れられないのも分かる。でも、自分の人生だよ。それに、一人じゃない。私がそばにいるから」
「……一華」
クシャクシャな顔を上げた。
「もぅ、子犬みたいなカワイイ顔しないでよ」
恥ずかしさも混ざり、もう一度顔をうずめた。
「少しスッキリした?今日は帰ろう」
「……ありがとう」
手をつなぎながら外に出た。街は様々な色をした光に彩られ、このまま光と共に消えてしまいたかった。
「あ、そうだ。これ見て」
突然、一人ぼっちにされた手に冷たい風があたる。
「買ってみたの」
「『ヒビキ』のカラコンじゃん!」
ドクドクと鼓動が早くなる。
「一応、私も女子高生だし流行りにのってみた」
「そんなの付けて大丈夫なの?」
スマホで読んだ記事を思い出してしまう。
「もしかして、『目玉くりぬき事件』のこと気にしてるの?あんなの、ただの偶然でしょ」
「……そうだよね」
本当に関係ないのだろうか。
類似した事件が起きていることを一華は知っているのだろうか。
「何か見えちゃったりしたら、連絡するよ」
あれほど、気を使わないでと言われたはずなのに笑顔でその場をやりすごしてしまった。
「いつでも連絡して」
そう言って一華は大きく手を振った。
吐く息は白いのに全く寒さを感じなかった。それは、心の方が冷たいからだろう。
足取りは重りをつけているかのように歩幅が小さい。あとひとつ角をまがれば、お店が見える。
お腹の底に力を入れ、ゆっくりと吐き出し角を曲がった。
「……電気がついてない」
あれほど帰ることを拒絶していたはずなのに、いつの間にか走り出していた。トントントンと足早に外階段を登り握ったドアノブを勢いよく引いた。
「ママ!」
暗い部屋の中でチカチカと明かりがもれている場所に近づく。何故か幼き子の声たちが聞こえる。
「ママ!」
明かりの正体は、赤いハイソックスを履いた私の映像が映し出されていた。『天国と地獄』の音楽が流れる中、走る私を凝視している。
「明日の仕込みは?本当にお休みにするの?」
ママは、椅子に座らされたフランス人形のように、瞬き一つせず、私を見つめていた。
「……ちゃん。おかえりなさい」
やめて。お願い。
────理愛ちゃんって呼ばないで。
画面から流れる音楽は天国ではなく、『地獄』の記憶を呼び起こした。
───あれは、小学一年の運動会。
九月の終わりだというのに、身体にベッタリと暑さがつきまとっていた。
「こっちにもお水、お願いします!」
大人たちの張り詰めた声が飛び交っていた。今になって思えば熱中症で倒れてしまった子がいたのだと分かる。
幼かった私は、赤白帽の中に指を突っ込みムズムズするところを必死に探っているだけだった。
バン!
合図が鳴り、一歩前に進む。スタートラインに立ってもドキドキすること無く、レンズに手を振っていた。
白いテープを切るのは誰でもない私だという自信があったから。
キョロキョロとしていると隣のレーンに並ぶ子が予想もしない言葉をかけてきた。
「見て見て!あの背が大きい人、パパなの。理愛ちゃんのパパは?」
「いないよ。ママだけ」
「お仕事で来られなかったの?」
「違うよ。ママしかいないの」
「どうして?」
「わからないよ。パパって何?」
「すごく大きくて優しいんだよ。それに、怖いものから守ってくれるの」
まるで、王子様でも見るかのように目をキラキラさせている。
『守ってくれる?』
私には意味が分からず、案山子のように立っていることしかできなかった。
「パパがいないなんて、理愛ちゃんのお家は、変なの」
スタート音が鳴ったと同時に、その子は走り出した。
『変なの』
その言葉に占領された私は、白いテープを一番に切ることはできなかった……。
夜になってもその言葉は消えてくれない。
そんなことを知らないママはエプロンをヒラヒラさせ、ハンバーグを作ってくれた。
「やっぱり、赤い靴下を履いていってよかったわね」
「……うん」
「そのおかげで、すぐに見つけられることができたんだもの」
大好きなハンバーグまで『変なもの』に見えてしまいお箸を握りしめたままでいる。
「ご飯、進んでないけど疲れちゃったの?あ、そうだ!それなら元気が出るもの食べよう」
「なぁに?」
ママは軽やかにキッチンに向かい、運動会の話を続けた。
「でも、残念だったわね。絶対に理愛が一番だと思ってたのに」
「……あ」
言いかけたが私の声は届かなかったらしい。
「スタートも遅れちゃって心配だったのよ。何かあったの?」
「あのね……。走る前に変なことを聞かれたの」
「意地悪されたの?」
きっと、子供ながらに聞いてはいけないことだとわかっていたが、モヤモヤしたものを早く消したかった。
そして迷わず言った。
───「パパはどこ」
ガシャン。
ケーキをのせようとしていたお皿を落とし、一瞬で部屋の温度が下がる。
「……あいつは、捨てたのよ。私たちを」
振り向いたママの白目が赤くなっていく。
「……そうだわ。思い出した。理愛ちゃんにもあいつの血が流れているのよね。だから、あなたも私を捨てるのね」
「どうしたの……。捨てるってなに?」
「うるさい。あなたも同じよ」
もう一度キッチンを向いたその背中は、ブルブルと震えている。
「捨てられるなんて耐えられない」
抑揚のない言葉をつぶやきながら、ゆっくりと振り向く。
その手にはクリームがついたギラギラしたものを握っていた。
────「理愛ちゃん。死んで」
私の『ママ』はどこかに消えてしまったようだ。
先の尖ったものがジリジリと近づいてくる。
「捨てられるくらいなら……一緒に死んだ方がいい」
「ごめんなさい。捨てない!ごめんなさい!」
言葉の意味など理解出来ていなかった。ただ、ママに戻ってほしくて聞いた言葉をそのまま繰り返していた。
「ぜったいに、すてないよ」
尖ったギラついたものを目の前にし、下半身に生暖かさを感じる。
────「ママもすぐに逝くからね」
空気の吸い方が分からなくなる。酸素を必要とする体はハァハァと小刻みに震えだす。
そして……耳元で囁かれた言葉を抱えたまま、暗い地獄の道へ落ちていった。
下半身がヒヤリとして目が覚めた。
見覚えのある天井が映り、どうやら地獄の底には行かなかったらしい。
……右手とお腹に温もりを感じる。
両手で小さな手を包み、お腹に頭を乗せ深い息を繰り返している。
ママの頬には涙の跡であろう一本の筋が残っていた。
ギザギザしたものは椅子の下で持ち主を失っていた。
────だからお願い。
理愛ちゃんって呼ばないで。
ポケットの中で通知を知らせる振動で記憶を閉じ込めた。
一華:『カラコンつけたけど、親から大不評!気持ち悪いって』
理愛:『何か見えた?』
素早く文字を打った。
天国と地獄の曲はいつになったら止めるのだろう。足音を立てずそっと後ろに下がり、その場を去った。
────チクチク。
今朝も同居人に起こされる。
スマホを片手にキッチンを覗いたが、ヒラヒラのエプロン姿は見当たらない。
「とりあえず、トイレ」
静かな時間を堪能できることに喜びを感じていたが、なぜか落ち着かない。
お店のことを気にしてしまっている。無関心ではいられない自分に腹を立てた。
『自分の人生だよ』
一華の言葉を反芻する。
しかし、簡単に獲物にされてしまうような私が生きていける場所などない。
「変わらないといけないんだ」
片目の赤い少年が怪物になったように……。
リンリン。
微かにドアについている鈴の音が聞こえる。
「やば!お休みにしてないじゃん」
反射的に動いてしまう体が憎い。
「よし!目の色を変えてやる」
身支度を済ませ、お店へ続く階段を忍者のように足を忍ばせる。
『不機嫌様ではありませんように』
胸の前で両手を合わせる。
「……残念だわ」
半分降りたとき、話し声が耳に届いた。
「川島さんだ!」
胸が踊り、思わず声に出してしまい、忍者は存在を隠すことに失敗した。
「その声は、理愛ちゃんね」
「いらっしゃいませ。今日もありがとうございます」
「姿が見えなかったから心配したのよ」
川島さんは『アイディール』を贔屓してくれている。
「すみません。荷物を取りに行ってました。今日はお一人ですか?」
カチカチとトングを鳴らす音が背中を刺す。
視線の主は見なくてもわかった。
「そうなの。啓介は今、机とお友達なの。テストが近いんですって。……もしかして、会いたかった?」
口元を緩ませ、少し意地悪な表情を向ける。
「そ、そうじゃなくて」
一気に体温が上昇してしまった。
「恥ずかしがらなくてもいいわよぉ。啓介も理愛ちゃんに『よろしく』って言ってたのよ」
「……本当で──」
────バサバサバサ。
店内が一瞬、静止画のように空気の流れが止まる。
不機嫌様が割り箸をばらまいたのだ。
「京香さん?大丈夫?」
「大丈夫です。……ごめんなさい。手元が滑ってしまって」
うそつき。わざとに決まってる。
いじわる。捨てられたくせに。
「そうだわ!前から聞きたかったことがあるのよ」
空気の流れを戻してくれたのは川島さんだった。ママは眉を下げ、穏やかな表情を作る。
「どうしました?」
「『ろーすとびーふ』って普通、カタカナで書かない?」
「そうですよね。子供でも読めるように平仮名で書いてみたんですけど……。やっぱり変ですよね」
思わず笑いそうになる。ママは『普通』じゃないの。
「あ、ごめんなさいね。変って言いたかったわけじゃないの。珍しいなって思ったのよ。こうして字を見ていると、カタカナより平仮名の方が柔らかい感じでいいわね」
質問をしてくれた川島さんに感謝した。私が聞いても答えてくれることは一度もなかったから。
「そう言ってもらえて嬉しいです」
ご丁寧に腰を曲げている。表情を隠すためだとしか思えない。
「明日は『ろーすとびーふ』あるかしら?」
「はい。ご用意してお待ちしています」
「よかったわ!啓介に褒美したいの」
「寄ってくださったのに、申し訳なかったです」
「京香さんが謝らないで。お肉屋さんがお休みだったなら仕方ないじゃない」
ほら。やっぱり嘘つき。
「今日は、切り干し大根をいただいていくわ」
「ありがとうございます」
リンリンと鈴の音を鳴らし、川島さんは啓介くんが待つ家へと帰って行く。
その背中から目をそらせずにいた。
なんて愛が溢れた母親なのだろう。
なんて穏やかな母親なのだろう。
啓介くんは幸せものだなと心から思った。
店内の温度は急降下している。
「羨ましいのよね」
突然投げられた言葉に、同居しているチクチクに似た刺激を受けた。
「何が?」
「とぼけないで。私のこと毒親だと思ってるんでしょ。嘘ついても無駄。あんたの顔を見ればわかるわよ」
「思ってない」
「嘘つきね」
部屋の温度とは反対に、私の体温は急上昇する。ついレジカウンターに拳を振りおろしてしまった。
「嘘つきはママでしょ!」
もう無理。感情を押し込めるスペースはない。
……ベチャ。ベチャ。
不快な音が耳にまとわりつき、床が何かで侵食されている。
「そうね。悪いのは私。全部ママが悪いのよ」
陳列されているデリを面子のように床に叩きつけた。
「やめて」
「やめない。嘘つきが作ったものなんて捨てればいいのよ」
「ごめんなさい!私が悪い。だからお願い。やめて!」
アウト。もう手がつけられない。
床に散りばめられたものたちは形を失い、ぐちゃぐちゃな姿に変えられてしまった。
まるでママの心を映し出すかのように……。
そんな物体たちを目の当たりにしても、心は麻痺していた。
私は、変わらなければならない。
私は、自分の人生を歩んでいく。
空っぽになったデリケースを指差し、言葉を放った。
「これと同じ。心が満たされることは一度もなかった」
「……」
「今までありがとう」
背を向け、ドアを引く。最後にもう一度だけ振りかえる。
────床にしゃがみ込むママの目は、座らされたフランス人形のようだった。
もう関係ない。
あっという間に冷えた手で文字を打つ。
理愛:『今すぐ会いたい。私、強くなれそうだよ。……片目を赤色にしたからかな』
スマホの振動を待ちながら、軽やかに足を進めた。
ほんの一瞬、世界が私を許してくれる気がした。
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