旅人は神社へ走る

ユウユウ

第1話

 けたたましく鳴り響くクラクション。瞬間、私は腕を掴まれ引き戻された。振り返れば黒いスーツを着た見知らぬ男が立っている。丸顔で黒縁メガネの男は言った。


「良く見て、交差点の信号は赤です」

「あっ、すみません。ボ〜ッとしていました」「そんなに急いでどこに行こうとしていたのですか?」

「隣町の神社までです。待ち合わせをしていまして」

「待ち合わせ?誰とですか?」

「私の想い人です。滅多に彼とは会えない。今日がその日なのです。だから急いでいました」


「そうですか」男は緩く微笑んで路面に指を差す。「まずは靴を履いて下さい」


 視界を下げる。いつの間に脱げたのだろう、そこにはキチンと並んだネズミ色のサンダルがあった。素足をサンダルに押し込むと、男の声がした。


「アナタの名前は?何歳ですか?」

「そんなこと、見知らぬ他人に教えられません。とにかく急いでいるのです。手を離して下さい」


 私は掴まれた手を振り解こうともがく。でも、男の手は大きく女の力ではビクとも動かない。男は言った。


「アナタ一人では危ないので、僕が神社まで同行します」


 この人は赤の他人。でも男性だ。


「いいえ、一人で大丈夫ですから。それにアナタが一緒では神社で待っている彼に誤解されてしまいます」

「誤解されたら、僕がキチンと説明しますから大丈夫。あっ、信号が青になりました。行きましょう」


 男は力強く私の手を引く。なんなのだ、この人は?私はかなり困惑しながらも男に従うことにした。いえ、違う。従わざるを得ない状況という方が正解だろう。


 男は歩きながら誰かと電話しているようだ。「大丈夫」前方からそんな声が聞こえた。


 横断歩道を渡ると、男の歩くペースが緩まった。どうやら私の歩幅に合わせてくれているみたい。


「もう一度、聞いても良いですか?」と、男が顔を向けた。私は、自分よりだいぶ背の高い男を見上げる。


「何をですか?」

「アナタの名前と年齢です」


「私は……」自身の胸に手をあてる私。「雪乃ゆきのと申します。年齢は十六歳です」


「ずいぶんと若いですね」男は緩く微笑む。「で、神社で待つ想い人の名と年齢は?」


「彼は吉田周五郎よしだしゅうごろう。私と同じ年です」

「彼とは、どうやって知り合ったのですか?」「周ちゃんとは家が近所で幼馴染です」

「なぜ、滅多に会えないのですか?」

「それは、周ちゃんが東京へ出稼ぎに行ったからです。でも手紙がきて、今日、帰省するので神社で会う約束をしました」

「なるほど」

「手紙には、私に直接会って話したいことがあると書いてありました。……何だろう?」


 意地悪そうに口角を上げる男。「告白だったりして」


 瞬間、心臓が跳ねた。「バッ、バカなこと言わないで下さい!」 私は頬に異常な火照りを感じながら首を振る。告白だったら、どんなに嬉しいか、と思った。


 間もなく神社に到着。樹齢を重ねた杉の大木が私を出迎えてくれた。日陰になっている境内に座り、風に揺れる緑の葉を眺めていると、隣に座る男がポツリ呟く。


「一時間経ちましたけど、周五郎さん、来ませんね」

「そうですね、どうしたんでしょう」

「待ち合わせは今日ではなかったりして」

「そんなはずは……」


 俯く私。刹那、ハッとなり顔を上げた。


「私は、とんだ記憶違いをしておりました」「記憶違い?」

「はい、十六歳のあの頃、私はこの場所で周ちゃんに告白されたのです」


『雪乃、俺は都会でたくさん稼いで必ずここに戻る。そしたら結婚しよう』


 頬を染めた眩しい笑顔で、そう約束してくれた彼を思い出す。


「私は縁談の話を断り続け、ひたすら周ちゃんが帰ってくるのを待ちました。そして六年後、彼は約束通り帰ってきてくれた。私達は初恋を実らせ結婚したのです」

「なるほど。……で、アナタの名前と年齢は?」

「私は結婚し、吉田雪乃になりました。二十三歳です」

「新婚生活はどうでした?」

「はい、古い長屋を借りて新婚生活は始まりました。実を言いますと、夫は長男ではありませんが、都会で稼いだ給金のほとんどを実家に送金していたため、貯蓄はありませんでした。ですから夫の仕事が見つかるまで、独身時代、私が繊維工場で働き貯めたお金で食い繋いでいたのです」

「大変でしたね」

「大変なんて思ったことはありません。夫と結婚できただけで私は幸せでしたから」


 ああ……思い出す。裁縫途中、頭皮に溜まった僅かな油を針先ですくい取っていると、ガラガラと勢いよく扉が開かれた。


ーーーー


『雪乃!仕事が決まったぞ!』

『まあ、それは良かった。どんな仕事ですか?』

『トラックの運転手だ!隣組の倉田さんが口を聞いてくれたんだよ』

『トラック?まさか遠くへ荷を運ぶのですか?』

『ああ、そうなる。だが給金は良い方だ。これで安心して生活ができる』


 それから、夫は日本中を走り回る長距離のトラック運転手になった。家に帰宅できるのは良くて週に三日だけ。一か月間、全く帰れない日もザラにあった。


ーーーー


「だから会える日が貴重で大切な日々でした」私は睫毛を伏せる。

「子宝にも恵まれましたし、幸せでしたよ」


「お子さんは何人ですか?」

「子供は三人です。長男の健太郎けんたろう、長女の糸子いとこ、次男の次太郎つぐたろうです。ワイワイと賑やかな家庭になりました」


「ふふっ」と、私は口元に手をあて思い出し笑いしてしまう。「長男の健太郎には悩まされました」


「なにを、ですか?」

「オネショですよ。小学生になっても治らないんですもの。雨の日などは布団が干せなくて困りました。でも夫は笑ってこう言いました。『しょうがない。俺もそうだったから遺伝だ』ってね」


「困った子でしたね」男は額をポリポリ掻きながら私に問いかける。「アナタは今、何歳ですか?」


「三十六歳です」


ーーーー


 芝生にレジャーシートを敷き、皆でピクニック。毎回だけど唐揚げと卵焼きは争奪戦だ。おにぎりを頬張りながら夫は言った。『五人家族に二間しかない長屋は狭い。いつかマイホームを建てたいな』


 私達は未来を見据えて贅沢をせず貯金に励むことになる。次男が小学生になるタイミングで私も働きに出た。そして五年後、頭金を入れ、数十年のローンを組み、念願のマイホームを手に入れたのだ。長男、十五歳、長女、十二歳、次男、九歳だった。


 二階に三部屋、一階はリビングと和室。子供達は自分の部屋ができたと酷く喜んだ。夫は『これで、一国一城の主だ』そう言って笑っていたっけ。


 ある日、次女の糸子からこんな質問が飛んできた。


『お母さんは、お父さんのどこが好きなの?』『なによ、いきなり』

『お母さんは美人だと思うけど、ハッキリ言って、お父さんはカバみたいな顔してるから、どこが好きなのか気になったの』

『あははっ』


 私は腹を抱えて爆笑した。次女の言葉が的を射ていたからだ。夫は決して褒められた容姿ではない。だけど……。


『カバは働き者で優しいよ』と、私は言った。『お母さんはカバが大好きなんだよ』


 見た目なんてどこ吹く風。顔なんてついていれば良い。肥満を注意するのは、見た目ではなく健康で長生きして欲しいからだ。


ーーーー


 ふと、男が私に聞いた。

「アナタは今、何歳ですか?」


 私は迷わず答える。「五十歳です」


ーーーー


 昭和五十九年は、私にとって忘れられない年になる。なぜかと言えば、夫の浮気疑惑が浮上した年だからだ。


 知ったのは、去年。開園したという遊園地の話を次女と談笑している時に鳴った電話だった。


受話器を耳にあてると、女性の声が聞こえた。『周ちゃんと別れて』それだけ言ってプツリと切れる通話。


 帰宅を待ち、私は夫に聞いた。


『どこぞの女と浮気してますの?』


ーーーー


 その時「あっ」と短い声を発し、男が立ち上がる。前方から見知らぬ女が駆け寄ってきたからだ。


「やっぱりここか」女はそう言った。「打ち合わせがあるから戻って。アナタがいないと始まらない」


「ああ、分かったよ。後は宜しく頼む」男は私に振り返り微笑んだ。「この人は俺の妻だよ。続きはこの人に話して」


 言い置いて去って行く男。女は「宜しく」と頭を下げてから横に腰を降ろした。


  私は女に尋ねた。


「どうして、私が夫の浮気を許したのか分かる?」

「えっ?」


 女は瞳をしばたいてから顔を傾ける。


「どうして確信犯を許したんですか?」

「夫が嘘を吐いたから」

「嘘……ですか?」

「ええ、夫は『俺は絶対に浮気などしない』と言い張り『バカなことを聞くんじゃない』と私を叱ったの。だから許した」

「でも、浮気してるのは本当だったのでしょ?わたしなら許せませんけど」


「いい、良く聞いて」私は女の前に人差し指を立てた。

「夫が妻に浮気を隠すのは、家庭を壊す気が更々ないという証明なのよ。だから放っておいても大丈夫。男は必ず妻の元に戻るわ。責めれば男は逃げるだけで逆効果。家庭を壊したくなかったら平然と待つのが得策なのよ」


「なるほど。……勉強になります」女は一旦、下を見てから顔を向ける。

「で、アナタは今、何歳ですか?」


「そうねぇ〜、何歳かしら?」私は空に視線を上げる。動かない千切れ雲。そして呟いた。「いったい、私は誰なのかしら?」


 瞬間、ボコボコッと音が聞こえ、私の世界は無音になる。少しの間、ボ〜ッとしていると、女に肩を叩かれた。女を見る。忙しく口を動かしているが何を言っているのか分からない。


 女が私の耳に何か異物を入れた後、やっと声が聞こえた。


「お義母さん、補聴器、落としてますよ」


(お義母さん……)瞼を落とし、闇を作ってから上げてみる。なんと、そこには息子、健太郎の嫁、郁子いくこがいた。


「郁子さん、面会に来てくれたの?」


 郁子は、酷く優しい笑顔を私に向け、こう言った。


「はい、今日は家に帰る日ですよ。お義父さんも待っていますから帰りましょう」

「夫は、私と一緒にホームにいたはず……」「忘れたんですか?今日、一緒に帰ってきたじゃないですか!」


ーーーー


『雪乃、健太郎達に迷惑はかけられない。今日からこの施設で暮らすのだよ。終の住処ってヤツだ。死が二人を別つまで一緒にいような』『雪乃、今日は何をして遊ぼうか?お手玉か?隠れんぼか?』

『ここの食事はマズい。雪乃の料理が食べたいなぁ〜』

『雪乃!』『雪乃!』『雪乃!』


ーーーー


 憎らしいほどの可愛い笑顔。夫と過ごしたホームでの生活が蘇る。


「周ちゃん……」私はヨロけながら立ち上がる。郁子が私の右手に杖を握らせてくれた。


(周ちゃん、待っててね。今、会いに行くから)


 歩を進めるが、心ばかりが急いて上手に歩けない。途中から、私は郁子におぶさり帰宅した。出迎えてくれたのは、次太郎と糸子だった。二人とも暫く見ぬうちに老けたな、と思う。それを伝えると、二人は泣きながらこう言った。


「おかえり、お母さん」


 家の中では黒い人達が忙しそうに動いている。リビングに入ると、むせかえるような百合の匂いと線香の香りが鼻をつく。奥の和室から健太郎が姿を見せた。


「母さん、やっと思い出してくれたんだね」「健太郎……お前もずいぶんと老けたね」

「そりゃ、老けるよ。もう六十四歳だもの。母さんは?今、何歳?」


 私は迷わずに答えた。


「九十歳だよ。母親の年も忘れたの?」


「ははっ、忘れん坊は母さんだろ?」健太郎は薄く笑うと、私の手を引いた。「さあ、こっちへ来て。父さんが待ってるよ」 


 見ると、白い布団の盛り上がりが視界に映る。まさか……。頼りない足がヨロヨロと進み、布団の横で止まった。ペタンと尻が畳に落下。同時に顔に被されられていた白い布が外される。


 健太郎の低い声が聞こえた。

「母さん、父さんだよ」


「あっ……」


 昏睡に入る前、私の手に大きい骨太のしわくちゃな手が重ねられたのを思い出した。


ーーーー


『雪乃、今日は何歳だ?』

『忘れたんですか?アナタと同じ八十九歳ですよ』

『そうか。……ならば今日を最後に、現実には戻らなくてよい。その方が楽だからな』

『何を言っているんですか?私はいつも現実にいますよ。アナタの隣にいます』

『もう、俺はお前を守れない。だから、雪乃は俺の側を離れて旅立つのだ。そして二度と戻るな』


 最後の夫の言葉。それは


『行ってらっしゃい』……だった。


ーーーー


「周ちゃん……」


 私は両手で夫の顔を包み顔を近づけた。手のひらから、青い目の人形に初めて触れた時の冷たさが伝わってくる。


「こんな痩せたお爺さんになって、こんなに冷たくなって……」


 まるで眠っているような死に顔。


 夫は、私を【旅人】だと言っていた。『いつ帰るか分からぬから、俺はずっと帰りを待っているしかない』


 そんな夫にかける言葉は一つだけ。私は夫の鼻に自分の鼻の先端を重ね合わせた。


 言葉をかけたい。でも胸が焼けるように燃え盛り、言葉をあっという間に灰にしてしまう。


 そういえば、一度も『愛してる』と言ったことも、言われたこともない夫婦だったね。だけど、確かにあったの。アナタと私の間に、それは偉そうにあぐらをかいて座っていたんだよ。遠くても近くても、どんな場所でも瞬間でも。アナタを愛さない秒針は存在しなかった。


 落ちるのは、多分、涙。近づきすぎて、滲んでボヤけて分からない。


「うっ、ああぁぁっ」


 年をとると嫌だね。体力がなくて大声で泣きわめくこともできやしない。私は濡れた夫の輪郭を何度も摩りながら蟻の啜り泣きしかできなかった。


 言いつけに背き、帰宅した私を夫は叱るだろうか?是非とも怒って欲しいと願う。遠くない未来。……天国で。


 葬儀の夜、健太郎と郁子がこんな会話をしていた。


「これ以上、問い詰めるのはやめます。アナタの『浮気はしていない』という言葉を信じることにしましたから」

「郁子……」


 健太郎は俯いたまま沈黙していた。男とは、つくづくバカな生き物だと思う。一番大切な花は『平凡』という名で自分のすぐ横に咲いているのに、谷底に滑り落ちる覚悟なくして断崖に咲く妖艶な花に手を伸ばす。


 まあ……健太郎は、女と手を切り妻の元へ戻るだろう。



 後日、白い扉にガリガリと爪を立て引っ掻いていると、背後から声をかけられた。


「今日はどちらまで?」


 私は振り向いて、見知らぬ他人に答える。「想い人と待ち合わせをしている神社に行きたいのです」


 他人は眉をハの字に下げ、私に尋ねた。


「アナタの名前は?今は何歳ですか?」


 私は胸を張り、自信を持って言い放つ。


「私は雪乃、十六歳です!」


 東京に出稼ぎに行った幼馴染の周ちゃんからの手紙にこう書かれていた。『直接、私に会って話したいことがある』と。


(なんだろう?告白だったら嬉しい)


 私の初恋。ああ……想像すると胸の高鳴りが抑えられない。


 それを伝えると、他人は頬を緩めてこう言った。


「行ってらっしゃい、旅人さん」


ーーーー


 数年後、私は花畑を走っていた。六文銭を支払い川を渡った先、そこで想い人が待っているからだ。


 間もなく約束の神社が見えたので、私は立ち止まり、近くの池に自身を映した。


 水面に映る私、それは薄い白髪を垂らしたシワだらけの老婆ではなく、黒いお下げの三つ編みにセーラー服の赤いリボンを下げた少女だった。


 十六歳の私。


 石段を上がると、すぐに見えるのは白いワイシャツに茶色いズボンを履いた後ろ姿。


「周ちゃん」と、声をかける。すると襟足の黒い毛先が揺れた。あの日と何一つ変わらない少年が振り返る。決して端正ではないカバに似た顔。でも、誰とも比べものにならない世界で一番に愛しい容姿。


「雪乃」彼は、はにかむように微笑んだ。

「旅は終わったかい?」


『ええ、旅を終えて帰ってきました』そう言いたかったけど、既に私の唇は彼の胸で塞がれている。背中に回された両手は逞しく、私をぎゅうぎゅうと締めつけた。


 耳元で囁かれた声は掠れていて甘い。


「おかえり、雪乃」


 私も両腕を回し、周ちゃんを抱きしめた。彼に返す言葉は、先に逝ったアナタに涙で断念した言葉、ただ一つしかない。今度はハッキリと聞こえるように言おう。


「ただいま、周ちゃん」


 刹那、川向こうで、お鈴がチーンと鳴った。


「アハハハ」「うふふ」


 鼻先をくっつけて二人で笑い合う。


 今、私の長い長い旅、命生が終わった。


 


 


 

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