灯のあとで

@kageharu241

prologue

 蛍光灯の白い光が、床に積まれたダンボールの角を乾いた色に照らしていた。

 六つ。うち五つはきちんと封がされていて、側面には黒マジックで番号と行き先が書いてある。


 ひとつだけ、口を開けたままの箱の前で、私はしゃがみ込んでいた。


 軍手を外した指先が、段ボールの縁のざらつきに少しだけひっかかる。

 さっきまで本棚があった壁には、四角く日焼けの跡が残っていて、その外側だけが新築みたいに白い。

 コンセントだけ取り残された壁が、急に広くなったように見えた。


 開いた箱の中には、変に似たものばかりが集まっている。


 輪ゴムでとめられた写真の束。

 メモ帳から雑にちぎられた走り書き。

 封を切られたまま、折り目のついた手紙。

 取っ手にだけ色のついた、欠けたマグカップ。


 どれも、今日一度は「捨てる」山に置かれて、やっぱり戻されたものたちだ。


 箱の底には、白地に小さなロゴの入った紙ナプキンが何枚か重なっている。

 油染みの丸い跡が、ばらばらな時間を閉じ込めているみたいだった。


 ――全部、捨ててしまいたいんです。


 昼間、この部屋で向かい合った依頼人の声が、蛍光灯の唸りに混じって聞こえた気がした。


「全部、捨ててしまいたいんです」


 そう言ったときの彼女は、ちゃんと笑っていた。

 膝の上で組んだ指先だけが、笑いと別のリズムで震えていた。


「でも、何を捨てたら“全部”になるのか、よく分からなくて」


 あの一言のあと、彼女はすぐに視線を落とした。

 床の木目の一本一本を数え直しているみたいに、長いまつげが動いた。


 全部。


 そんなものが本当にあるのかどうか、私はいまだにうまく信じられない。


 本棚も、ベッドも、洋服も、ほとんど外に出したあとのこの部屋でさえ、

 まだどこかに「取りこぼし」が隠れている気がしてしまう。

 空気の中に滞留しているものまでは、ダンボールに詰められない。


 私は写真の束のいちばん上だけを、そっとめくった。


 ピントの甘い、夏の海。

 水平線の上に、白く薄い雲がいくつか浮かんでいる。

 写っている人の顔は、わざとなのか、たまたまなのか、ちょうど切れていた。


「……」


 それきり言葉にならない声が喉まで上がってきて、私は写真を元に戻す。


 依頼書には、「可燃ごみとして処分」とだけ書いてある。

 この箱も、本当は他の五つと同じように、ただの荷物になってしまうはずだった。


 それでも、こうして最後まで残ってしまう。

 誰かが一度は迷ったものたちは、簡単には「ごみ」になりきれない。


 ポケットの中で、スマートフォンが小さく震えた。


 画面には「朝倉灯あさくらともり」の名前。

 この時間の着信は、だいたい作業の進捗確認か、帰りの交通手段の確認だ。


「はい、白石です」


『お疲れさま。もう終わりそう?』


 スピーカーフォンに切り替えるほどでもない、柔らかい声。

 廊下の蛍光灯の低い唸りと、遠くの通りから聞こえる車の音のあいだに、朝倉さんの声が滑り込んでくる。


「だいたい片付きました。あと一箱だけ、ちょっと迷ってて」


『迷ってるなら、まだ触ってていいわよ』


「……はい」


 返事をしながら、自分の声が少し遅れて胸の奥に届く。


 電話の向こうで、キーボードを打つ音がかすかにした。

 朝倉さんは、きっと事務所で別の案件のメールを見ている。

 私たちがいまここで迷っている時間の分だけ、画面上の案件進捗のバーは止まったままになる。


『迷ったぶんだけ、依頼人と向き合っているってことだから。あなたはいい仕事をしているわよ』


 朝倉さんはそう言って、ふっと笑った。


久世くぜくんは? 無理してない?』


「久世さんは、とっくに大物を搬出し終わってます。最後の確認中です」


『そう。じゃあ、鍵閉めたら連絡ちょうだい。気をつけて帰ってきてね』


 通話が切れると、部屋の音が少しだけ大きくなった気がした。

 蛍光灯の唸りと、段ボールの紙がこすれるかすかな音。

 窓の外からは、商店街のどこかのシャッターが降りる金属音が響いてくる。


 私は立ち上がり、ガムテープの端を探して指で押さえる。


 テープは、引きはがされるのを少しだけ嫌がるように、ざらりと鳴った。

 それから、一気に勢いをつけて箱のふちを横切っていく。


 びり、びり、びり――。


 この音は、いつ聞いてもよそよそしい。

 誰かの名前も事情も知らないまま、「ここまで」と線を引いていく音だ。


 でも同時に、少しだけ救いみたいでもある。


 ここまで、と決めることで、どこかで誰かが明日に進めるなら。

 私自身も、今日のどこかに区切りをつけられるなら。


 テープを貼り終えて、手のひらで箱の天板を軽くたたく。

 中身は見えなくなった。

 重さだけが、腕に移ってくる。


白石しらいしさん」


 振り向くと、ドアのところに久世さんが立っていた。

 軍手をはめた手で、すでに封のされた箱をひとつ抱えている。

 額にはうっすら汗がにじんでいて、作業用のマスクの跡が頬に残っていた。


「そっちは、それで最後ですか」


「はい。今閉めました」


 久世さんは私の足元の箱に視線を落とし、無言のまま軽く持ち上げてみる。


「……大丈夫そうですね」


 腰を落として、ひょいと抱え上げる。

 あっさりと持ち上げたその動きにどことなくほっとする。仕事の延長線で、当たり前の動作なのに。


「終わりました。あとは鍵、お願いします」


 それだけ言って、久世さんは廊下に出ていった。

 足音が遠ざかる前に、「段差、暗いんで気をつけてくださいね」と小さく付け足す声が聞こえる。


 私は部屋の中をぐるりと見回した。


 空になったカーテンレール。

 何も掛かっていないポールハンガーだけが、窓辺に取り残されている。

 壁の四角い日焼け跡が、薄暗い中でかすかに浮かび上がっていた。


 玄関へ向かい、靴を履きながら、部屋の照明のスイッチに手を伸ばす。


 ぱちん、と小さな音がして、蛍光灯の唸りがぷつりと途切れた。

 窓の外から差し込むコンビニの光だけが、床の一部をうっすらと照らす。


 ドアを閉め、鍵を回す。


 金属同士がかみ合う感触が、指先から腕まで伝わる。

 その一瞬だけ、今日一日のすべてが圧縮されて、鍵穴の向こう側に閉じ込められるような気がした。


 廊下の蛍光灯も消すと、階段の踊り場は夜の色に沈んだ。

 下の階の窓から、向かいのビルの自販機が、青白く光っているのが見える。


 外に出ると、商店街のシャッターはほとんど降りていた。

 数少ない開いている店から漏れる話し声と、遠くを走るバスのエンジン音。

 そのあいだを縫うように、コンビニの看板だけがやけに明るく浮かんでいる。


 軍手をポケットにねじ込みながら、私はさっき閉めた箱のことを思い出す。


 中身はもう、見えない。

 でも、そこに詰め込まれた時間までは、どうやっても運び出せない。


 私たちの仕事は、きっとそういうものなのだ。


 誰かの物語の、本編が終わったあと。

 その明かりが完全に消えてしまう前に、

 せめて、残った形だけでも整えておくこと。


 それが、灯見堂とうみどうの仕事で。

 今夜の私が、ここを歩いている理由だ。

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