あの願いの届かぬ星。
社不。
あの願いの届かぬ星
「じゃあね、元気でね」
そう言って彼は飲みかけのコーヒーを机に置いた。ペアルックで買ったマグカップから指を抜いて。あたしのコーヒーの熱も冷めないうちに、彼は2年間住んだ2人の家を去って行ってしまった。茶色の水面に移るその顔は、大粒の涙を流していた。
一体いつからこうなってしまったんだろうか、初めの頃は優しかったのに。最近では返事も淡白になってきていたし、携帯を下向きに置くことも増えていたと思う。私は今でもこんなに愛しているのに、この愛情を可視化できていたならどんなに楽だろうかわからない。涙と共に、過去の2人が溢れるように思い出される。
同棲して半年が過ぎた頃、友達と飲みに行くと、そう言って出かけることが増えた彼の帰りを待つ時間は、日に日に伸びていった。2時を過ぎ、冷めた味噌汁を飲む。終電前にはと約束した彼は、どこまで遠くに言ってしまったのだろうか。食器にしがみついたラップを無理やり剥がし、今日も生ゴミが増える。
彼のスーツから通りのお店の名刺。昨日は残業だと言っていたのに。目に見える裏切りに、心臓がバクバクと痛む。甘いブラックローズの香水が染付くその紙切れの匂いで吐きそうになる。溢れ出る嗚咽をこらえ、私はトイレに駆け込んだ。
何度目かの紙切れ。何かが壊れる。私は耐えきれずにリビングに向かう。だが彼を攻め立てる勇気も満足にない私は、恐る恐る彼を問い詰める。
「はいはい、悪かったよ」
これで満足かと言わんばかりに投げやりなセリフが捨てられる。でも負けじと言葉を返す。こんなことを言って嫌われてしまったらどうしようと、何度も頭によぎる。初めて彼にする反抗の緊張感と、捨てられてしまうことへの不安感で声が震える。でも、もう耐えられない。留めていた気持ちを、ひねり出すように叫ぶ。
「も、もう我慢できないよ!い、いつも私ばっかr−−−−−
そうして言いかけた言葉をねじ切るように、彼の手のひらは私へと飛んできた。呆然となり、目の前が白くなる。頬にじわじわと広がるその熱さに、ようやくハッと引き戻される。
驚きと恐怖で立てない。怖い。痛い。私はただ好きなだけだったのに。なんで。叩かれたくない。恐い。怖い。嫌だ。私の惨めな涙色の思考の後ろ側では、彼の怒鳴り声だけが響いていた。
その日から、私は逆らえなくなった。小さな反抗心も摘み取られてしまった。メイド、家政婦、奴隷、ロボット…それらの言葉が似合うようになってしまうほどの扱いをされてもまだ、私は彼への恋心を捨てることはできなかった。今日も彼は味噌汁が冷めた頃に帰ってくるばかりだった。吐き気はひどくなっていった。
土曜の朝。彼から話があると呼びかけられた。あまり気乗りはしなかったが、彼からの誘いは本当に久しぶりだったので、私は彼のお気に入りのコーヒーを入れ、席についた。淡い、脆い期待を込め、おそろいのマグカップに入れて…
「婚約したい人がいる、俺と別れてくれ」
急に告げられたその言葉に、私は頭が真っ白になった。今までそういう兆候がなかった訳ではない、むしろ何故付き合っているのかすらわからなくなる日だってあった。でも私は好きだった。私だけかもしれないが、確かに彼を心から愛していた。信じてすらいた。たとえ蔑まれ、他の女と遊び歩く日々だったとしても、私のことは捨てずに居てくれると。信じていたのだ。
信じていたのに。
別れ際の彼は、今までで一番優しかった。付き合いたてを思い出すほどに。とても優しい声色で、柔らかい目をしていた。私以外の誰かを見る目だった。誰なんだろう。その女は。
私は家中を歩き回った。彼との大切な時間を一つ一つ思い出しては噛み締めた。もう引き払う準備はできたから、最後にと焼き付ける。一緒にカレーを作った台所。漏れそうで何度も催促したトイレ。髪を乾かしてもらった洗面台。寒い冬に抱き合って寝た寝室。離れたくなくて、玄関で駄々をこねて、彼が遅刻したなんてこともあったなぁ。そんな思い出。
星に願ったところで、もう彼は帰ってこない。 移ってしまった心は戻らない。どうすればよかったとか考えてしまうが、もうどうしようもできない。彼はもう居ない、もうどこにも、どこにも居ない。でも、ずっと一緒だから。私は誰より愛しているから。本当に好きだったよ、これでずぅっと一生だよ。
彼への愛の言葉を唱えながら、最後に浴室の扉を開ける。浴槽には、血まみれの彼が気持ち良さそうに眠っている。彼は星になった。もう願いの届かない星へと。浴室には乾いた血液と、少しの腐敗臭。でもあたしはそんなの気にしない。服を脱ぎ、彼と浴槽に入る。一つキスをして、思い出話をして、そうして、彼の腕の中で眠るのだった。外ではサイレンが泣いている。
その後、私は病院に入った。裁判は何度かあるので、そのたびに出なければならないらしい。調査によると、彼の長年によるDVと浮気などが発覚したので、私の刑期が少しは軽くなるかもしれないと、母の知り合いの弁護士に言われた。最も、この狂った頭を見てもらうのが先らしいが。
あの日、彼と出会った日から、すべてが崩れてしまった。泣いてばかりの日々だったし、不安でどうしようもなく、奴隷のような扱いを受けた。最後には彼を手にかけ、両親は泣き崩れ、友達は消え、親族さえも私を見捨てたが、それでも私は平気だ。なぜならあたしは、この世で唯一、彼を心から愛した女なのだから。
そうしてあたしは大きく膨らんだお腹をなでた。
fin
あの願いの届かぬ星。 社不。 @Syafukasu
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