第9話 前触れ
《プルルルル……》
舶灯館の帳場に、電話の呼び出し音が反響した。
その音にかぶさるように——玄関の自動ドアが静かに開いた。
乾いたヒールの音。
ほのかに広がる高級な香水の匂い。
黒いロングコートの裾が揺れ、蒼ヶ崎には似つかわしくない都会の空気が流れ込んだ。
「——すみません。チェックインの予約をしている、
黒瀬 麻耶(くろせ・まや)です。」
千尋の手が受話器の上で止まった。
「……黒瀬さん?」
蓮も無意識に、その名に反応する。
(黒瀬……どこかで聞いた気がする)
麻耶は穏やかな微笑を浮かべた。
その笑顔には柔らかさと、鋭い温度差が同居していた。
「一泊で。素泊まりで構いません。お部屋、空いていますよね?」
「……はい。ご案内します。」
千尋の声には、わずかに緊張がにじんでいた。
蓮は、自分の中に理由のわからないざわつきを覚えながら、階段へ向かう麻耶を目で追う。
すらりとした背中。
磨かれた所作。
何かを測るような視線。
階段に足をかけた麻耶が、ふと振り返った。
「天城蓮さん、ですよね?」
蓮の心臓が跳ねた。
「俺の名前を——」
「知っています。東京で、何度か耳にしましたから。」
柔らかい言葉とは裏腹に、
その目は鋭い刃物のようだった。
「また改めて——ご相談があります。」
そう言い残し、麻耶は静かに二階へ消えていった。
階段の影に飲み込まれる直前、
その瞳の奥に、冷たい光が走った。
(……ただの客じゃない)
蓮の背中に、寒気が落ちた。
千尋が小さく息を呑む。
「蓮くん……今の人、何者?」
蓮は答えられなかった。
ただ胸の内に、重苦しい予感だけが残った。
——嵐の前触れのように。
―― 第9話 了 ――
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