第6話 承継
板長の料理が消えた翌日――
舶灯館の帳場で、電話が三件続けて鳴った。
「えっ……板前の料理、ないんですか?」
「そうですか、ではまた今度……」
「楽しみにしてたんですが、すみません、キャンセルで」
受話器を置く千尋の指が、細かく震えていた。
蓮は電話台の横に置かれた予約台帳を覗き込み、愕然とした。
「……こんなに、キャンセルが?」
昨日まで埋まっていた週末の部屋が、ほとんど白紙になっていた。
「『料理長が辞めたなら、もう行く意味がない』って」
千尋は肩を落としたまま、かすれた声で答えた。
「料理の評判で来てくれたお客さんが多かったから。
口コミサイトにも、もう書かれ始めてる。
『あの旅館は終わりだ』って」
画面に浮かんだ文字を見た瞬間、蓮の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
数字ではなく、言葉で傷つけられる痛み。
「時間がない……」
千尋は呟いた。声は震えていた。
「灯りを消さないって言ったのに、私……」
「消させません」
蓮は強く言った。
「まだ終わったわけじゃない」
その時だった。
帳場の自動ドアが、かすかな音を立てて開いた。
「すみません、料理長いますか――?」
振り向くと、制服姿の少女が立っていた。
紺色のブレザーに白いマフラー。
蓮が思わず言った。
「高校生?」
「はい。高校の観光ビジネス科の実習で来ました。
料理長の“あら炊き”が食べたくて」
蓮は戸惑いながら答えた。
「料理長は、昨日で退職されたんだ」
「そっか……残念。でも、素泊まりできます?」
「高校生でしょ?」
蓮は驚きの目を向けた。
「地域観光のフィールドワークなんです。
地域の宿泊事業の課題研究で。
部屋、空いてますか?」
千尋は戸惑いながらも頷いた。
「ええ、事情があるなら大丈夫。学生証だけ見せてもらえる?」
少女はカードケースから学生証を差し出した。
斉木 瑠夏(17)〈さいき・るか〉
県立 蒼ヶ崎商業高校 観光ビジネス科
その顔を見た瞬間、どこかで会ったような気がした。
「一泊、お願いします。あと、Wi-Fi、使えますか?」
「使えるけど……何か調べもの?」
瑠夏は小さく笑った。
「ちょっと、やりたいことがあるので」
柔らかな笑顔だったが、その奥には確かな意志の光が宿っていた。
◇
夕方。
蓮がロビーの照明を交換していると、瑠夏がスマホを手に近づいてきた。
「ねえ、ここ、写真撮ってもいい?」
「ここを……写真に?」
「うん。雰囲気がいいから」
許可を得ると、瑠夏は館内だけでなく、
外観や通りからの眺めまで丁寧にシャッターを切った。
やがて玄関前のベンチに腰を下ろし、
スマホを操作しながら言った。
「ここは、いい場所だよ」
「……まだ来たばかりだろ?」
「わかるよ。
こういう場所は、灯りがあれば人が来る」
蓮は思わず息を飲んだ。
「大人が見てる“数字”とか“効率”とか、
そういうのだけで決まる場所じゃない。
だって、“好き”でつながる場所だから」
海から吹く風に、瑠夏の髪が揺れた。
「だから、消しちゃだめだよ。灯り」
その言葉は、料理長の――
『灯りを消すなよ』
と重なった。
胸の奥にあった火が、ゆっくりと蘇るのを蓮は感じた。
「君は……どうして、この旅館を?」
「内緒」
茶目っ気のある笑顔だった。
そしてスマホ画面を蓮に向けた。
#灯りを消さない
古い旅館で、あったかい光を見つけました。
今週末、泊まりませんか?
素泊まり歓迎 / 地元食堂と連携準備中
投稿ボタンを押した瞬間、通知音が次々と鳴り始めた。
「え、なにこれ……?」
「観光ビジネス科の仲間とか、青年団のみんな。
商店街の人たちも拡散してくれる。
こういうの、得意なんだ」
「お客さん、呼ぶつもり……?」
「うん。だって、困ってるんでしょ?」
自然な言い方だった。蓮は言葉を失った。
「助けになりたいって思ったから」
その言葉に、蓮の胸が熱くなった。
裏口から戻ってきた千尋が、
鳴り続ける通知音の画面を見て、目を見開く。
「な、何これ……?」
「ちょっと宣伝、してみました」
と瑠夏。
「まずかったですか?」
千尋は泣き出しそうな顔で小さく首を振った。
「……ありがとう」
瑠夏は満面の笑みを浮かべた。
「灯りは、まだ消えてないですよ」
その夜、舶灯館の玄関の灯は、
昨日より少しだけ明るく見えた。
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