第5話

 世界は手のひらの中から変わり始めていた。

 今年二月、NTTドコモがサービスを開始した『iモード』。

 携帯電話でインターネットに接続し、メールをやり取りできるこの革新的なシステムは、瞬く間に若者たちのコミュニケーションツールとして浸透しつつあった。

 教室のあちこちで、折りたたみ式の携帯をパカパカと開閉する音が響き、着メロの和音自慢が聞こえてくる。

「モバイル・インターネット革命」の夜明けだ。


 だが、俺の視線は、もっと海の向こうを見据えていた。

 昼休みの屋上。俺は愛機であるノートPC『VAIO』を開き、アメリカのベンチャーキャピタルとのメールを確認していた。

 母、エリス・アシュフォードの名義を使ったエンジェル投資の案件だ。


「……Google。ようやく見つけた」


 画面に表示されているのは、昨年創業したばかりの、まだ赤字続きの検索エンジン会社の名前だ。

 Yahoo!やAltaVistaが全盛の今、そのシンプルなトップページは見向きもされていない。

 だが、俺は知っている。このアルゴリズムが、数年後に世界を支配することを。

『出資比率は確保した。契約書を送る』

 代理人からのメールに、俺は満足げに頷いた。これで、俺の将来の資産は天文学的な数字になることが確定した。

 310億円どころの話ではない。国家予算レベルの富が約束された瞬間だ。


「さて……問題は、未来の富より今の喧騒か」


 俺はPCを閉じ、眼下の校庭を見下ろした。

 歓声と砂埃。

 今日は、新入生歓迎を兼ねた球技大会の日だ。

 俺のクラス、1年A組はサッカーに出場している。


 グラウンドに降りると、熱気が渦巻いていた。


「いけえええ! 日野!!」


 クラスメイトの叫び声と共に、日野恒一郎がサイドラインを疾走する。

 速い。元サッカー部という経歴は伊達ではない。粗削りだが、推進力のあるドリブルで相手ディフェンスを置き去りにし、ゴール前へと切り込む。


「……ここだ、日野!」


 俺、朝倉恒一もまた、フィールドの中央を疾走していた。

 ポジションはボランチ。攻守の要だ。

 前世で培った「盤面を俯瞰する目」が、ピッチ上の選手たちの動きを完全に予測している。

 俺は日野からの折り返しを予測し、完璧なタイミングでスペースに飛び込んだ。


「朝倉ッ! 頼む!」


 日野からのパスが足元に吸い込まれる。

 俺は迷わず右足を振り抜いた。

 ジムで鍛え上げた体幹と、計算し尽くしたインパクト。

 ボールは美しい弾道を描き、ゴールネットに突き刺さった。


「っしゃあああ! ナイスシュートだ朝倉ァ!!」


 日野が吠えながら飛びついてくる。クラスメイトたちが雪崩れ込んでくる。

 汗と土の匂い。ハイタッチの痛み。そして勝利の瞬間の爆発的な高揚感。


「……悪くない」


 俺は荒い息を吐きながら、日野の肩を叩き返した。

 全身の筋肉が熱く脈打っている。

 これだ。

 デスクワークと数字の羅列に忙殺され、前世で失っていた「生の実感」。

 俺は今、誰にも遠慮せず、全力を出し切り、この瞬間を支配している。

 これこそが俺の求めていた「最高の青春」だ。


 だが、その勝利の余韻を引き裂くような怒号が響いた。


「何やってんだ貴様ァ!!」


 隣のコート。2年生の試合会場だ。

 試合中ではない。ハーフタイムのベンチだ。

 ジャージ姿の教師が、一人の男子生徒の胸ぐらを掴み、立たせていた。


 鷹森恒一。

 この学校の体育教師であり、サッカー部顧問。

 そして、日野が部活を辞める原因となった男だ。


「今のパスミスは何だ! 遊びでやってるなら帰れ!」

「す、すみません、足がもつれて……」

「言い訳をするな!」


 パァン!

 乾いた音がグラウンドに響き渡った。

 鷹森の手が、生徒の頬を張ったのだ。

 一瞬、周囲の空気が凍りつく。だが、誰も動かない。

 生徒たちは怯え、他の教師も「またか」という顔をして見て見ぬふりをしている。

 この学校において、鷹森の指導は「熱血」という名目で聖域化されているのだ。


「立て! 根性が足りないからミスをするんだ!」


 鷹森は倒れ込んだ生徒のジャージを掴み、引きずり起こそうとする。

 暴力による支配。恐怖による統制。

 それは教育ではない。ただのサディズムだ。


 俺の横で、日野が動こうとした。


「あいつ……! やめろよ!」


 直情的な彼のことだ。飛び込んで行って、逆に返り討ちに遭い、退学処分になる未来が見える。


「止まれ、日野」


 俺は日野の肩を掴んで制止した。


「離せよ朝倉! あいつ、殴ってんぞ!」

「お前が行っても火に油を注ぐだけだ。下がってろ」


 俺はタオルを投げ捨て、ゆっくりと鷹森の方へ歩き出した。

 感情のままに動くのではない。

 最短最速で、この場の「リスク」を排除するために。


 鷹森が、再び手を振り上げた瞬間。

 俺はその手首を掴んだわけではない。ただ、二人の間に割って入り、静かに言った。


「タイムアウトです、鷹森先生」


 鷹森の手が止まる。

 充血した目で俺を睨みつけた。


「……なんだ新入生。私の指導の邪魔をする気か?」


 威圧感。並の生徒なら、この視線だけで萎縮するだろう。

 だが、俺には通用しない。前世で対峙したハゲタカファンドの連中の方がよほど目が怖かった。


「指導? いえ、先生。私は学校の『リスク管理』の話をしています」


 俺は周囲を見渡すように視線を動かした。

 多くの生徒が携帯電話を手にしている。


「先ほどから、何人もの生徒が携帯を向けています。iモードの普及で、動画や画像の共有は簡単になりました。もし、今の平手打ちが画像付きで教育委員会やマスコミにタレ込まれたら、この学校の進学実績はどうなるでしょう?」


 ハッタリだ。

 iモードで動画が送れるようになるのはまだ先の話だ。だが、ITに疎いこの世代の大人にとって、「携帯電話=何でもできる未知の機械」という恐怖心がある。


 鷹森の表情がピクリと動いた。


「……口の減らないガキだ。これは愛の鞭だ」

「司法はそれを暴行と呼びます。それに、殴られた生徒の鼓膜が破れていたら、傷害罪です。学校法人の理事会は、ブランドを守るために先生をトカゲの尻尾切りにするでしょうね」


 俺は淡々と、事務的に告げる。


「この場は収めてください。これ以上続けるなら、私が目撃証言者として、詳細なレポートを理事長宛に提出します」


 鷹森の顔が赤から青、そしてどす黒い色へと変わる。

 彼は俺を睨みつけたまま、掴んでいた生徒の手を離した。


「……フン。怪我がないか確認しただけだ。大げさな奴め」


 捨て台詞を吐き、鷹森はベンチの奥へと下がっていった。


 助け起こされた生徒が、震える声で礼を言おうとするのを、俺は手で制した。


「礼はいらない。次はもっと上手く避けろ」


 それだけ言い残し、俺は自分のクラスのベンチに戻った。


 日野が信じられないものを見る目で俺を見ていた。


「お前……マジかよ。あの鷹森を引かせやがった」

「引かせたわけじゃない。損得勘定を教えただけだ」


 背中に、粘着質な視線を感じる。

 鷹森恒一。

 完全に目をつけられたな。

 だが、後悔はない。俺の青春の舞台に、あんな理不尽な暴力は不要だ。


 放課後。

 球技大会の喧騒と、鷹森との対峙で消耗した俺は、糖分を求めていた。

 向かった先は、駅前デパートの食品フロア。

 いわゆる「デパ地下」の片隅にある、人気のクレープ店だ。


『スイート・エンジェル』。

 ピンク色のポップな看板の前には、女子高生たちの行列ができている。

 俺はスーツに近い制服姿で、その列に並んだ。

 傍から見れば浮いているだろうが、今の俺には生クリームとカスタードが必要なのだ。


「いらっしゃいませー! お次のお客様、どうぞ!」


 カウンターの中から、甘く、よく通る声が聞こえた。

 忙しいはずなのに、その声には一切のトゲがない。

 レジに立っていたのは、同じ高校の制服にエプロンを着けた少女だった。


 月島こはる。

 二年B組。原作ゲームのサブヒロイン。

「癒し系」と呼ばれる彼女だが、実物はその言葉の枠を超えていた。

 ふんわりとした栗色の髪をシュシュでまとめ、少し汗ばんだ額が照明に反射して輝いている。

 大きめの瞳はタレ目気味で、見ているだけでこちらの肩の力が抜けるような柔らかさがある。

 ふっくらとした唇、健康的な血色。

 「触れたら温かそうな」質感を持った美少女だ。

 だが、その手元は驚くほど速い。

 レジ打ち、クレープの受け渡し、次のオーダーの伝達。

 無駄がない。それでいて、客への笑顔を絶やさない。


(……良いオペレーションだ)


 元経営者の視点で、俺は彼女を評価していた。

 自分の番が来る。俺は「イチゴチョコバナナ、生クリーム増量で」と注文した。


 だが、トラブルは起きた。

 夕方のピークタイム。狭い厨房でスタッフが交錯し、オーダーの伝達ミスが発生したのだ。

 俺に渡されたのは、「ツナマヨサラダクレープ」だった。


「はい、お待たせしまし……あッ!」


 こはるが青ざめる。

 伝票と手元のクレープを見比べ、彼女の顔から血の気が引いていく。


「す、すみません! 注文間違えて……! すぐ作り直しますから!」


 行列の後ろからは「まだー?」「遅くない?」というプレッシャーがかかる。

 店長らしき男性が、舌打ちをしてこちらを睨んでいるのが見えた。

 普通の高校生なら、ここで焦ってパニックになるか、客に平謝りして時間を浪費する場面だ。


 俺は渡されたツナマヨクレープを見つめ、瞬時に判断を下した。

 作り直せば三分かかる。その間、レジは止まり、後ろの行列は伸び、彼女は店長に怒鳴られる。

 全体の効率が落ちる。


 俺はクレープを受け取らず、しかし怒ることもなく、静かに言った。


「作り直しで大丈夫です。ただ、俺の分は後回しにして、後ろの方のオーダーを先に通してください」


「え……?」


 こはるがキョトンとする。


「俺は急いでいないですから。今ここで俺のを作り直すと、ラインが止まります。そのツナマヨは、次のツナマヨ注文が入るまで冷蔵ストックへ。廃棄ロスを出す必要はありませんよ」


 俺は一歩横にずれ、後ろの女子高生に場所を譲った。


「お先にどうぞ」


 こはるの瞳が大きく見開かれる。

 彼女が見ているのは、俺の「優しさ」ではない。

「この人、現場の回転を守ってくれた」という、プロとしての共感だ。


 彼女は一瞬だけ真剣な、仕事人の顔になり、深く頷いた。


「……はい! ありがとうございます! 次の方、お待たせしました!」


 彼女は瞬時に切り替え、笑顔で接客を再開した。

 その手際は先ほどよりも滑らかだった。

 俺という「待ってくれる客」がいる安心感が、彼女のパフォーマンスを最大化させている。


 数分後。

 行列が落ち着いたタイミングで、俺のイチゴチョコバナナクレープが出来上がった。


「お待たせしました……!」


 こはるが差し出したクレープは、規定量よりも明らかにイチゴと生クリームが増量されていた。

 ずっしりとした重み。


「本当に、助かりました。……あの、怒ってないですか?」


 上目遣いで尋ねる彼女の顔は、至近距離で見ると破壊的な可愛さだった。

 甘い匂いと、エプロン越しに伝わる体温のような温かさ。

 これが「生活感ヒロイン」の魔力か。


「怒る理由がないです。ミスは誰にでもあります。重要なのはリカバリーすることだと思います」


 俺はクレープを受け取り、一口かぶりつく。

 甘い。脳髄に染みる甘さだ。


「……美味い。良い仕事です」


 俺の言葉に、こはるは花が咲いたように破顔した。


「よかったぁ……! あ、あの!」


 彼女は身を乗り出し、俺の胸元の校章を見た。


「同じ学校だよね? ……私、二年の月島こはる。君は?」


「一年の朝倉です」

「朝倉くん……。ありがとう。君のおかげで、リズム崩さずに済んだよ」


 彼女は小さくガッツポーズをした。


「また来てね。次はサービスするから!」


 手を振る彼女に見送られ、俺はデパ地下を後にした。

 口の中には生クリームの甘さが残っている。

 球技大会の暴力と、クレープ屋の甘さ。

 苦味と甘味が入り混じる一日だったが、悪くはない。

 俺は口元のクリームを拭い、雑踏の中へと消えていった。


 だが俺はまだ知らない。

 この「現場を壊さない」という対応が、バイト戦士である彼女の心にどれほど深く刻まれたかを。

 そして、彼女が学校で見せる「先輩」としての顔が、俺の平穏をさらに脅かすことになる未来を。

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