第6話 Googleマップの亡霊と宝の地図

【カイの視点】

 14時30分。俺はエレナのホテルに戻った。

 スイートルームのリビングでは、エリナがバスローブ姿で優雅にタブレットを眺めている。

 俺のスーツ姿との対比が痛い。


「早かったわね。……ま、日本の会社の『入社手続き』なんて、判子を押すだけの儀式だものね」


「ああ。14時退勤なんて、社会人になって初めてだ。……で、これからどうする?」


 俺はネクタイを緩め、ソファに沈み込んだ。

 エリナは手元のコーヒーを一口飲み、顎でテーブルの上を示した。


「オリエンテーションを始めるわ。……そのスマホに入っているGってアイコンのアプリを開いて」


 俺は支給されたスマホを手に取り、画面をタップした。

 立ち上がったのは、『G-Scan(グローバル・スキャン)』というアプリだ。


 画面には、見慣れた東京の地図が表示されている。

 だが、通常の地図アプリとは異なり、地図上のいたるところに「荒い切り抜き画像」がアイコンとして浮かんでいた。


「これは……?」


 画像をタップしてみる。

 表示されたのは、Googleマップのストリートビューから無理やり切り抜いたような、画質の悪い写真だ。

 錆びついた歩道橋。

 ひび割れた雑居ビルの外壁。

 古びた団地の給水塔。

 どれも、俺が現場監督として見飽きるほど見てきた、この国の老朽化した日常風景だ。


「投資家たちが欲しがっているのは『真実』よ」


 エリナが解説を始める。


「ネット上の地図データは古すぎるの。彼らは、今現在のインフラがどれくらい腐っているか、あるいはまだ使えるかを知りたがっている。

……あなたの仕事は、その場所へ行って、『現在の写真』を撮り、簡単な劣化診断レポートを送ること。防災士の資格は生きてるわよね?」


「ああ、それは大丈夫だ、自然災害調査士もある」


 俺は画面をスクロールした。

 画像の横には、意味ありげな『数字』が表示されている。


 『30』  『50』  『120』


「なんだこの数字は? 整理番号か?」


「報酬よ」


 エリナが短く答える。


「報酬? ……まさか、30円とか50円ってことか?」


 俺は失笑した。

 いくら簡単な撮影仕事(ギグワーク)とはいえ、電車賃にもならない。

 ポイ活アプリでも、もう少しマシな稼ぎになる。


「カイ。……よく見なさい」


 エリナが呆れたようにため息をつき、画面を指差した。

 俺は目を凝らす。

 数字の右端に、小さく、しかし明確に刻印されている記号があった。


 『USDT』


「……は?」


 思考が止まる。

 USDT。

 テザー。

 米ドルと連動するステーブルコイン。

 つまり、単位は「ポイント」や「円」ではない。


「ドルよ」


 エリナが宣告する。


「『30』は、30ドル。『120』は、120ドル。……たかが写真数枚の単価よ」


「たかが写真に、こんな……」


 俺はスマホを取り落としそうになった。

 今のレートで換算すれば、橋の写真を数枚撮るだけで、俺が今日半日かけて稼いだ「正社員の月給(日割り計算)」を軽く超える。


「な、なんでだ……? たかが写真に、こんな……」


「言ったでしょう。円はゴミだと」


 エリナは窓の外、東京タワーを見下ろした。


「海外の投資家にとって、30ドルなんてランチ代のチップにもならない端金よ。

でも、今の日本人にとっては命綱になる。

……これが『経済格差(アービトラージ)』よ」


 俺は呆然としたまま画面を見つめる。

 すると、エリナが鼻で笑った。


「喜ぶのは早いわ、カイ。……あなたが今見ているのは、あくまで『ニュービー(初心者)』向けのインターフェースよ」


 彼女は、膝の上のラップトップを俺の方に向けた。

 同じ『G-Scan』のロゴが表示されているが、画面の構成はまるで違っていた。


「な……なんだこれ?」


 地図はない。

 そこにあるのは、黒い背景に高速で流れる文字と数字の羅列(ストリーム)だ。  英語、中国語、アラビア語、ロシア語。

 世界中の言語が入り乱れ、まるで証券取引所のティッカーのように点滅している。


 『Request for Detailed Diagnosis(詳細診断依頼): Bridge No.402』  『Reward: 1,500 USDT』


「1,500ドル……。日本円で20万以上か?」


「ええ。これは、あなたが撮ってきた写真を見て、投資家が『もっと詳しく知りたい』と思った時に発生する二次依頼(セカンド・オピニオン)よ」


 エリナは解説する。


「ただの写真は、誰でも撮れる。だから安い。

 スナップ写真なら当然報酬はない。

 ……でも、

『このひび割れは構造的に致命的か?』

『あと何年保つか?』という専門的な診断は、プロにしかできない」


 彼女は俺の目を見た。


「アメリカから専門家を呼べば、渡航費と滞在費で1万ドルはかかる。

でも、現地にいる『日本の優秀な技術者』かつ『信頼できる組織に所属している者』に1,000ドルなら、安くて済む。

……彼らにとっては激安のバーゲンセール。貴方にとっては、月給以上のボーナス」


 俺は唾を飲み込んだ。

 俺が手にしているスマホは、ただのカメラじゃない。

 俺がこれまで泥にまみれて培ってきた「技術者としての目」を、世界市場に直結させる端末だったのだ。


 1,000ドル、10,000ドル……

 画面の向こうに広がる桁違いの報酬に、俺の胸は高鳴っていた。


「すげえ……。これなら、借金なんてあっという間だ。いや、美味い飯だって食える」


「チュートリアルは終わり。ここからはビジネスの時間よ」


 日が暮れるまで、手当たり次第に回る。

 ビルの基礎の部分や、壁の状態。定礎なんかも撮影する。


「日が暮れ始めると、撮影しずらくなるのか」


 なんとなくコツらしきものもつかめたような感覚がある。


 俺はスマホの『Wallet』タブをタップした。

 まずは手始めに、テスト稼働で得たわずかな報酬を引き出して、久しぶりに「肉」でも食おうと思ったのだ。


 だが、画面には無慈悲なメッセージが表示された。


 『Error: Withdrawal Restricted(出金制限中)』

 『Status: Managed by Administrator(管理者による管理)』


「……は? なんだこれ、出金できないぞ」


 俺は画面を連打したが、赤いエラー表示が出るだけだ。


 エリナからビデオ通話の着信が入る。


「お疲れ様、カイ」

「誰が『好きに使っていい』なんて言った?」


 ソファで脚を組み替えながら、冷ややかに告げた。


「待てよ。稼いだ分は俺の金だろう? 円に換金してくれないと困る」


「換金?」


 エリナは、汚い言葉を聞いたかのように眉をひそめた。


「カイ、貴方は本当に金融リテラシーが欠落しているのね。……今の日本円に替えるなんて、ドブに捨てるのと同じよ」


 彼女は共有機能を使い、アプリの、設定画面を見せた。


 『Auto-Staking(自動積立):100%』

 『Lock Period(ロック期間):Indefinite(無期限)』


「このアプリで稼いだUSDTは、すべて自動的に年利5%の運用口座に積み立てられる。……そして、引き出し権限は私が持っているわ」


「ふざけるな! じゃあ俺は、ただ数字が増えるのを指をくわえて見てろってのか!?」


「そうよ」


 彼女は断言した。


「貴方に現金を渡せばどうなる? パチンコ? 酒? それともインフレで紙屑になる日本円のタンス預金?」


「週3日の時短勤務。そのわずかな給料(日本円)で、貴方は今の生活を維持しなさい。コオロギを食って、ボロアパートで寝て、泥水をすすりなさい」


 そして、彼女は甘く、残酷に微笑んだ。


「でも、このアプリの中に溜まっていくドルだけは、私が鉄壁のセキュリティで守ってあげる。……これは、貴方がいつか私から『自由』を買い戻すための、あるいはこの沈没船(日本)から脱出するための、『パスポート』なのよ」


 俺は呆然とした。

 日々の糧(円)は、生きるだけで精一杯の端金。

 未来の糧(ドル)は、目の前にあるのに触れることすらできない。


 俺は、完全に彼女の手のひらの上だ。

 彼女が「よし」と言うまで、俺は首輪をつけられたまま、ドルという餌を求めて走り続けるしかない。


「……鬼だな、アンタは」


「褒め言葉として受け取っておくわ。……さあ、行きなさい。時は金なり(Time is Money)よ」


 俺は黙って部屋を出た。

 ポケットの中のスマホが、鉛のように重く感じた。

 だが不思議と、絶望はなかった。

 少なくともこの「重み」だけは、嘘偽りのない、確かな価値があると思えたからだ。



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