第2話 カフェでS株デビュー
駅前のカフェは、ガラス張りでやたらと明るかった。
中に入ると、鼻をくすぐるのはコーヒーの香りと、
聞き慣れない電子音と、若者たちの笑い声。
「ここ、Wi-Fiもコンセントもあるんで、“トレード基地”にちょうどいいんですよ」
真中琴音は慣れた様子でカウンターへ向かい、
訳のわからない呪文のような飲み物の名前をすらすらと唱えた。
「トールサイズのラテと、アイスアメリカーノください。持ってかないでここで」
(今のは本当に、人間の言葉だったか?)
俺がぽかんとしていると、彼女は振り返った。
「ジェイスさん、コーヒー飲めます?」
「飲めるが……今のは何語だ?」
「メニュー語です。大丈夫、そのうち慣れます」
そう言って笑いながら、俺の分まで支払いを済ませてしまう。
「借りができたな」
「じゃあ、その代わりに後で“エントリーの考え方”教えてください。
相場師のリアル思考、めっちゃ興味あるんで」
「公平な取引だ」
席に腰を下ろす。
窓の外には、絶えず人と車が流れている。
だが、ティッカーも、場立ちも、叫び声もない。
この静けさの中で、本当に株が売り買いされているのか?
未だに信じきれない。
「じゃ、始めましょうか」
琴音がスマホをテーブルに置く。
画面には、いくつかのアイコンが並んでいる。
「まずは本物の口座……といきたいところなんですけど、
ジェイスさん身分証ないですよね?」
「ないな。パスポートも免許も、財布さえない」
「ですよねー。じゃあ今日はデモ口座から始めましょう」
「デモ口座?」
「本物そっくりのチャートと注文画面で、仮想のお金を使って練習できる口座です。
本物の相場の値動きに連動して動くけど、損しても財布は痛まない」
「……それはいいな。昔はそんな便利なものはなかった」
俺が現役の頃、練習はすべて「小さく実弾」でやるしかなかった。
安い株を少量買うか、紙の上で“もし買っていたら”と想像するか。
(紙の上の取引では、本当の感情は出ない。
財布と心が実際に痛まなければ、“人間の弱さ”は見えてこないからだ)
とはいえ、今の俺は本当に財布がない。
文句を言える立場ではない。
「じゃ、これ。
“○○証券デモアプリ”ってやつなんですけど——」
琴音は手早くアプリを立ち上げる。
そこには、どこか懐かしい、しかし見慣れない形のチャートが表示されていた。
「ローソク足、か」
「お、知ってます?」
「もちろんだ。
一本で始値・高値・安値・終値を表す……そうだろう?」
「大正解です。あとで配信企画のとき、そのセリフまた言ってもらお」
琴音はそう呟きながら、画面を操作する。
「ほら、ここが銘柄コード。
日本株はだいたい四桁の番号で管理されてるんです。
この銘柄は——某大手電機メーカー。
今の株価は1株あたり、だいたい3,000円くらい」
「ふむ……」
チャートをじっと見る。
日足に切り替えてもらい、過去数ヶ月の動きを眺める。
右肩上がり。
途中何度か押し目を作りながらも、概ね上昇トレンド。
(強い相場だな)
「今、これ“日足(ひあし)”で見てます。
ローソク1本が1日の動きを表してるチャートです。
他にも“5分足”“1時間足”とかいろいろあって——」
「時間軸が短くなるほど、ノイズが増える。焦りや欲で、無駄な売買も増えそうだな」
「うわ、それ、100%刺さる人多いやつ」
琴音は苦笑した。
「で、今日はS株。ほら、ここ。“単元未満株・1株からOK”って書いてあるでしょ?」
画面を指さす。
「さっき言った通り、日本株って普通は100株単位なんですよ。
だから本来、3,000円×100株=30万円必要なんですけど——」
「S株なら、3,000円で1株だけ持てる、というわけか」
「そう。デモだと仮想残高100万円あるから、試し放題ですね」
「100万円……仮想とはいえ、ずいぶん景気がいいな」
「まあ、数字はどうとでもなりますから。
でも、金額が大きすぎると感覚がおかしくなるから、
今日は“10万円だけあるつもり”でやりましょう」
「いい心がけだ」
⸻
ビッドとアスク、そしてスプレッド
「じゃあ次、**板(いた)**を見てみましょうか」
琴音がチャートの横にあるボタンを押すと、画面のレイアウトが変わった。
上半分に数字が縦に並び、その横に細長い青と赤の棒。
下半分には、見慣れたローソク足チャート。
「これが“板”。
いくらで、何株買いたい人がいて、
いくらで、何株売りたい人がいるかが並んでる画面です」
「……」
俺はしばらく黙り込んだ。
これは、俺が生涯追い続けた「テープ(ティッカー)」が、
そのまま視覚化されたようなものだ。
昔は紙テープに流れる約定価格と出来高から、
裏側にある「板」を想像するしかなかった。
今は、最初から板が丸見えというわけだ。
(なんて贅沢な)
「左側が買い注文(ビッド)。
『この値段までなら買いたい』って人たちの集まり。
右側が売り注文(アスク)。
『この値段以上なら売ってもいい』って人たち」
「ビッドとアスク……呼び方は変わらんな」
「で、一番上にある一番高い買い注文と、
一番安い売り注文の差を、スプレッドって言います」
琴音が画面を指さす。
「例えば、
今“買いの一番上”が 2,998円、
“売りの一番上”が 3,000円だったら、
スプレッドは2円」
「つまり、買ってすぐに売れば2円損。
それが“この市場に参加するためのコスト”みたいなものか」
「そういう理解でOKです」
(スプレッド、手数料、滑り……
どの時代も、取引には必ずコストがある)
それを無視して小さな値幅を取りに行けば行くほど、
コストに食い尽くされていく。
短期売買の難しさは、昔から変わらない。
⸻
はじめての現代ロング
「じゃ、ここからが本番です」
琴音が楽しそうに言う。
「1回分だけ、トレードアイデア出してみてください。
どこで買って、どこで損切りして、
どこまで伸びたら利確するか——
ジェイスさんの“教科書的・基本パターン”」
「いいだろう」
俺は日足チャートをじっと見つめた。
上昇トレンド。
短期の押し目から、再び上に向かい始めたところ。
少し前につけた高値が、目の前の小さな壁になっている。
「ここ数日で、やや上昇が鈍っていたが……
直近の安値が、きれいに切り上がっているな」
「安値の切り上げ、ですね」
「そうだ。上昇トレンドの途中で、安値が切り上がって、高値が更新されていく形が続く限り、トレンドは継続しやすい」
「それは今も変わらないですね。教科書に書いてあります」
琴音が笑う。
「じゃあこうしよう。
今日の高値を上にブレイクしたらロング。
その少し下に、損切りラインを置く」
「“ブレイクアウト順張りロング”ってやつですね」
「順張り?」
「トレンドの方向に沿ってエントリーすることを“順張り”。
逆に、トレンドと逆向きにポジションを取るのは“逆張り”って言います」
「なるほど、わかりやすい呼び方だ」
俺は頭の中で、ざっと計算する。
「たとえば——
・エントリー:3,010円(今日の高値を少し超えたら)
・損切り:2,960円(直近の安値の少し下)
この場合、1株あたりのリスク(許容損失幅)は50円だ」
「ですね」
「そして、目標は前の高値を少し超えた水準。
たとえば3,120円を第一目標にするなら、
1株あたりの潜在利益は110円」
「おお、“リスクリワード比”いい感じですね」
「リスクリワード?」
「リスク(負け幅)と、リワード(勝ち幅)の比率です。
この例だと、
負けたら −50円、
勝ったら +110円 だから——」
「大雑把に言えば、1:2以上はあるな」
「そうそう、その感覚!
“1回のトレードで1負ける可能性があるなら、
勝つときは2以上取りに行け”っていう基本発想です」
(……本当に、時代を超えても同じことを言っている)
思わず笑ってしまった。
「じゃあ、今日は“10万円だけある”と仮定して、
1回のトレードで失っていいのはその2%=2,000円まで、としよう」
「私のルールと同じだ」
「リスクが1株あたり50円なら——
2,000円 ÷ 50円 = 40株までいける」
「お、暗算速い」
「だが、今日はS株で様子を見るんだろう?
だったら、まずは1株だけにしておこう」
「え、そんなに減らします?」
「最初の一歩は、小さくていい。
今日必要なのは、勝つことではなく、**“プロセスを確認すること”**だ」
琴音は、少しだけ驚いたような顔をしてから、ふっと笑った。
「……それ、めちゃくちゃ良いこと言ってますね」
「覚えておいていいぞ。
“最初のトレードは、勝つためではなく、正しく負けるためにある”」
「はい、それ動画のタイトルにします」
⸻
クリック一つが、約定一つ
「じゃ、実際に入れてみましょう」
琴音がデモアプリの注文画面を開く。
「**買い(ロング)**を選択して、
“指値注文(さしねちゅうもん)”で3,010円、数量1株。有効期限は“当日”」
「成行ではなく、指値にするのか?」
「はい。
**『この値段以上では追いかけて買わない』**っていう意思表示にもなるんで。
もちろん、絶対ブレイクに乗りたいときは成行も使いますけど」
「悪くない考え方だ」
琴音が画面を一通り入力し、確認画面を見せてくる。
買い 指値
銘柄:○○電機
価格:3,010円
数量:1株
予想約定代金:3,010円
「内容に問題なければ、“注文確定”押してください」
「ここを押せば、本当に——いや、仮想ではあるが——市場に注文が出るのか」
「はい。デモですけど、板の動きと連動して約定します」
俺は一呼吸おいてから、
右上の「注文確定」ボタンに触れた。
カチッという小さな振動。
画面の下に、通知が表示される。
ご注文を受け付けました。
「……静かすぎて、逆に怖いな」
「昔はガチャガチャうるさかったんですか?」
「テープの音と、ブローカーの怒鳴り声と、
床を踏み鳴らす音で、常に地震みたいだった」
今は、静かなカフェで、指先ひとつ。
だが、その一回のタップの裏には、
昔と同じように、見知らぬ誰かの「買いたい」「売りたい」が詰まっている。
「ほら、板に注文が乗りましたよ」
買い板の3,010円のところに、「1」の文字が表示される。
「これが、ジェイスさんの注文。
誰かが“3,010円で売ってもいいや”って思った瞬間に、
**売りと買いがぶつかって約定(やくじょう)**します」
「約定(trade)。そこは変わらん」
⸻
小さな約定、小さな含み益
数分後。
売り板の最安値が、3,005円、3,008円とじりじり上がってきた。
「今、買い勢が強い感じですね」
「売りたい奴が少なくなってきている、ということだ」
さらに数秒後。
売り板の3,010円のところに数字が現れ、
次の瞬間、俺の注文表示が消えた。
「……今のは?」
「はい、約定しました。
誰かが3,010円で売ってくれたので、
その人の売りと、ジェイスさんの買いがマッチした形です」
ポジション照会の画面を開く。
○○電機 買い 1株
取得単価:3,010円
評価損益:−10円
「マイナスから始まっているな」
「スプレッド分ですね。今の“気配値”が、
買い側3,005円/売り側3,010円だとすると、
“今すぐ成行で売ったら3,005円でしか売れない”から、−5円〜−10円くらいからスタートします」
「なるほど」
その後、相場はしばらく膠着した。
3,005〜3,015円の間をうろうろと往復する。
「こういう時間、落ち着かないんですよね」
「それが正常だ。
自分のポジションのことばかり考え始めたら、
余計なことをしたくなる」
「“握力”とか“ガチホ”とか、みんな言ってますね」
「ガチホ?」
「“ガチでホールド”する、つまり何があっても持ち続けるってネットスラングです」
「……それは、場合によってはただの現実逃避だな」
そんな会話をしていると、
ふいにチャートがスッと上に伸びた。
ローソク足が、今日の高値を越える。
板の数字が、あわただしく書き換わる。
「ブレイクした!」
琴音が身を乗り出す。
ポジション画面を見ると——
評価損益:+90円
「お、含み益になりましたね。
(※含み益=まだ確定していない、評価上の利益)」
「まだ喜ぶには早い。
“含み益は、相場が一時的に貸してくれているだけの他人の金”だからな」
「それ名言すぎません?」
しかし、心のどこかが確かに高鳴っている。
銃声の向こうにあった空白の時間を吹き飛ばすように、ローソク足は、淡々と今この瞬間の戦いを描き続ける。
「さっき決めた利確目標は、3,120円でしたよね」
「ああ。
だが、今日はプロセス確認が目的だ。
3,080円あたりで半分利確、……いや、1株だったな。
全部売って構わん」
「じゃあ、“指値売り”で3,080円、数量1株。
注文入れますね」
琴音が操作し、確認ボタンを押す。
数分後。
チャートがさらに一段上がり、
俺たちの指値のところまで価格が到達した。
売り注文が約定しました。
確定損益:+70円
「……終わったのか?」
「はい。
3,010円で買って、3,080円で売ったので、1株あたり+70円。
デモだからお金は増えないですけど、計算上はちゃんと利益ですね」
「たった70円、されど70円だ」
その小さな数字が、
俺にとっては「時代を超えても通用する感覚」の証明に思えた。
(ローソク足の形、板の薄さ、
“買いが我慢できなくなって飛びつく瞬間”——
どれも、俺の知っている相場の呼吸だ)
勝ったから嬉しいのではない。
理解できる領域が、この時代にも確かに残っていることが、何より嬉しかった。
⸻
ノートを開く
「ジェイスさん」
琴音が紙ナプキンを差し出してきた。
「今のトレード、
**“エントリー理由・損切りライン・利確ライン・結果”**を書いてみません?」
「紙ナプキンでいいのか?」
「とりあえずは。
あとでちゃんとしたノート買いに行きましょう。
“未来に蘇った相場師のノート”とか、絶対コンテンツ化できる」
「……相場師のノートが、見世物になる時代か」
少し苦笑しながらも、
俺はナプキンにペンを走らせた。
・銘柄:○○電機(デモ)
・日足上昇トレンド継続中
・直近数日、押し目後の高値更新注目
・エントリー:3,010円ブレイクでロング(順張り)
・損切りライン:2,960円(直近安値の少し下)
・利確:3,080円(本来は3,120円狙いだったが、プロセス確認を優先)
・結果:+70円
・反省:
‐ 初回なのでサイズは1株で正解。
‐ 本来の利確目標まで伸びたことを確認。
‐ 次回からは“最初に決めた出口”も守る練習をする。
書いていると、
昔の習慣がそのまま蘇ってくる。
勝った理由、負けた理由、守れたルール、破ったルール。
それらをひとつひとつ言語化していく作業が、
自分の売買を“ただのギャンブル”から、“再現性のある行動”に変える。
(俺は、またここから始めればいい)
「見せてもらっていいですか?」
「構わん」
琴音はナプキンを受け取り、じっと目を通した。
「……これ、
初心者が最初に見たら死ぬほど役立つやつですよ」
「そうか?」
「はい。
みんな“どこで買うか”しか考えてなくて、
**“どこで負けを認めるか”“どこで欲を抑えるか”**を書いてないんです、最初」
「負けを認める場所を決めるのは、勝ちを夢見るより先の話だからな」
「だからこそ、価値があるんですよ」
琴音はスマホを取り出し、ナプキンをパシャリと撮影した。
「証拠写真?」
「未来の配信資料です。
“伝説の相場師のファーストトレードノート”ってタイトルで」
「おい、勝手に伝説にするな」
「だって、伝説じゃないですか。
一九三〇年代から令和までタイムスリップして、
初日にデモとはいえブレイク順張りちゃんと決めて、
ルール通りに利確した人、世界広しといえどジェイスさんくらいですよ」
むちゃくちゃな理屈だが、妙に説得力がある。
「……好きにしろ」
「やった。じゃあ次は、**“わざと負ける練習”**もしましょうね」
「わざと?」
「はい。
さっきジェイスさん言いましたよね、
“正しく負けるためのトレードが必要だ”って」
「……よく聞いているな」
「相場師の名言は、全部メモりますから」
琴音がにやりと笑う。
(わざと負ける練習、か)
昔の俺は、そんな贅沢を考える余裕もなく、
常に「次の一撃」を試していた。
だからこそ、どこかで大きく崩れた。
(今度は違うやり方で行こう)
銃声の向こうで終わったはずの人生が、
静かなカフェで、また動き出している。
スマホ一台、S株一株。
小さな数字の積み重ねの先に、
今度こそ“破滅ではなく、教訓”を残すために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます