第10話 帰りたくない、でも帰らなきゃいけない

 

 チェックアウトを済ませて、俺たちは並んで駅前を歩いていた。

 少し冷たい風が吹くけれど、隣を歩くアヤの足取りは軽い。


 「動物園なんて、いつぶりだろ……」

 「俺も久しぶり。子どもの頃に親に連れてってもらって以来かも」


 そう言いながら、スマホで行き方を確認して、最寄りのバス停へ向かう。

 昨日までの、涙混じりの通話や暗い相談の声が、遠い世界の話みたいに感じるくらい、アヤは楽しそうだった。


 ***


 入り口でチケットを買い、中に入った瞬間――アヤの目が、きらっと光る。


「わ、キリンだ! 見てよ、シュウ君!」

「はいはい、そんなに引っ張るなって」


 腕を掴まれ、半ば強制的にキリンゾーンへ連行される。

 高いところから器用に葉っぱをもしゃもしゃ食べているキリンを見て、アヤは子どもみたいに笑った。


 「首ながっ……。あー、でもなんか癒されるね」

 「アヤもけっこう負けてないけどな」


 「え、私のどこが!? 首長いってこと!?」

 「いや、スタイルがって意味だよ。褒めてんの」


 むっとした顔をして、すぐに照れて、視線をそらす。

 その一連の反応が可愛くて、俺はつい笑ってしまう。


 園内を歩きながら、シロクマを見て、レッサーパンダの前で立ち止まり、

 ふれあいコーナーではモルモットを膝に乗せたアヤが「かわいい〜」と声を弾ませる。


 その横顔を見ていると、 ――ああ、連れて来てよかった。

 心の底からそう思った。


 「写真……撮りたいな」

 「えっ、顔写るよ? 彼氏にバレたりとか……大丈夫?」

 

 「うん、大丈夫。私以外に見れなくする方法、知ってるし」

 「……わかった。じゃあ一緒に撮ろっか」


 スマホのインカメラを向けられ、二人で無理やり顔を寄せる。

 パシャ、とシャッター音が鳴って画面に映った俺たちは、思った以上に“ふつうのカップル”っぽかった。


 「……なんか、思ったより悪くないな。俺も」

 「プッ……なにそれ……シュウ君はかっこいいよ。もっと自信持ちなよ」


 アヤはそう言いながら、撮った写真を何度も見返して、嬉しそうに笑っていた。


 ***


 お昼は園内のレストランで。少し奮発してステーキを頼んだら、アヤは目を丸くした。


  「え、いいの? 高くない?」

  「たまにはいいじゃん。せっかくの遠出なんだし」

  「……ありがと。じゃあ、遠慮なくいただくね?」


 フォークを持つ手がちょっと震えているのを見て、 ここ最近、ちゃんと“外食で好きなものを食べる”なんてしてなかったんだろうな、と胸が締め付けられる。


 食後は売店でソフトクリームを買った。寒いのに、アヤは迷わずアイスを選んだ。


 「動物園来たら、やっぱりアイスだよね!」

 「その理屈は初耳だけど」

 「ほら、シュウ君も一口食べる?」

 「……ん、うまい」

 「でしょ?」


 差し出されたアイスを一口だけもらうと、ふわっと、甘さが口の中に広がる。

 それと同じくらい、隣で嬉しそうに笑うアヤの気配が、胸に残った。


 ***


 午後になり、太陽が少し傾き始める頃。ふとアヤが時計を見てから、それまでより少し静かになった。


 「……そろそろ帰る時間、だね」

 「そう、だな……電車、遠いし」


 言葉ではそう返しながらも、俺はその沈んだ横顔から目を離せなかった。

 さっきまであんなに楽しそうだったのに、今は口数が減って、歩幅も少し小さい。


 駅までの道のり。

 たわいもない話をしようとするけど、途切れ途切れになってしまう。

 改札の前に立った時、アヤは俯いたまま、力なく笑った。


 「……帰りたくないなぁ」


 ぽつり、と本音がこぼれる。


 胸の奥が、ぐっと熱くなる。

 言うべきかどうか、一瞬だけ迷って――それでも、俺は口を開いた。


 「じゃあさ」

 「え?」


 「このまま、俺のところに来ちゃいなよ」


 一瞬、時間が止まったみたいだった。

 アヤは大きく目を見開き、信じられないものを見るように俺を見つめる。


 「む、無理だよ……そんなの。私、お金もないし、仕事だって……」

 「仕事、こっちで探せばいい。部屋も今は一人用で少し狭いけどなんとかなるよ。お金だって少しぐらい貯金あるし、アヤが来てもしばらくは養えるよ」


 自分で言いながら、覚悟を口に出していく感じがした。あの日、画面越しに泣いていたアヤに、何もしてやれなかった自分から、一歩踏み出すための言葉。


 アヤはぎゅっと唇を噛んで、しばらく黙り込む。


 「……シュウ君、ずるい……そんな風に言われたら、本当にこのまま行きたくなっちゃうじゃん」


 泣きそうな顔で笑うその表情は、今まで見たどのアヤよりも、弱くて、正直だった。


 「でも……今このままは、流石に無理。怖いもん。でもね――」


 言いかけて、アヤは一歩近づいてくる。そして人の流れが少し途切れた瞬間、俺の胸ぐらをそっと掴んで、背伸びをした。


 「え──」


 言葉を飲み込むより早く、唇に、柔らかい感触が触れる。ほんの一瞬の、軽いキス。


 「……また、会いに来てもいい?」

 「……ああ。何回でも」


 そう返すと、アヤは涙をこらえるみたいに笑って、改札をくぐる。振り返りざま、手を振って。


 「またLINEするね!」


 電車のドアが閉まり、アヤの姿が遠ざかっていく。最後の最後まで、俺はホームに立ち尽くして、胸の奥の痛みとも高鳴りともつかない感情を持て余していた。


 ――ちゃんと帰れたか、絶対に確認しないとな。

 そんなことを考えながら、俺は自分のスマホを握り締めた。

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