ついてくるのは、私の影
ツキシロ
ついてくるのは、私の影
「ねえ、早く代わってよ」
私にささやきかけるのは、私自身の――影だ。
無視する私に、影はどこからともなく語りかける。
「聞こえてるくせに」
私は皿を取り出して、部屋のまんなかに置いて塩を盛った。私の体から伸びる影は真っ黒で顔も見えないが、何ともなさそうだ。
「そんなこと意味ないって、あなたが一番わかってるでしょ?」
「……うるさいな」
「代わってもらえるまで、絶対あきらめないから」
もう影のことは相手にせず、部屋の明かりを消して眠りについた。
部屋に朝日が差し込む。よく寝た、いい気分だ。そう思っていたのに。
「ねえ、早く代わってったら」
最悪の目覚めになった。影は、私に24時間ずっとついて回る。
私は聞こえないふりをしたままトーストを食べて、コーヒーを飲んだ。
「勝手に違う種類のパン食べないでよ」
わけのわからないことを言う影をひたすら無視した。
仕事の身支度をして、家を出た。
穏やかな天気だ。本当に気分がいい。この影さえいなければ。
「ねえねえ、そろそろ平気なふりもつらくなってきたんじゃない?」
「……」
「ずいぶん強情だよね」
「……」
「だって、あなた……」
いきなり、自転車の甲高いブレーキの音が聞こえた。角から飛び出してきた自転車を、とっさによけた。
「わっ!」
「どこ見てやがる!気をつけろ!」
ぼんやりしていて、気づかなかった。
「……もう少しだったのに」
どんなときも、影のことは輪郭しか見えない。顔は見えない。でも、悔しそうな顔をしている気がした。
影は、どうしてか私を危険な目に遭わせようとする。そのせいで、少しも気が休まらない。
「あっ、あのワンちゃんかわいいねえ!」
影が、私の気をそらそうとしている。たしかに私の視界の端には、茶色いプードルか何かが歩いているのが見える。でも、こういう時は決まって周りに危険がある。
「危ない!」
上の方から大声が聞こえた。ふと見上げた瞬間、私の真横を何かが落ちた。
ガシャン、と聞こえた。足元を見ると、植木鉢が割れていた。何かの観葉植物が倒れて、土が散乱している。
「ごめんなさい!お怪我はないですか?」
お婆さんが、家の2階のベランダから声をかけてきた。
「え、ええ……大丈夫です」
私の耳には、影が舌打ちしたのが聞こえた。
影は、仕事中は黙っていた。でも仕事が終わるとすぐに、何度もしつこくささやいてくる。
だんだん、私の心がすり減ってきていた。
「あなた、なんなの……?」
「代わってほしいだけ。あなたもよく知っているでしょ?」
「……はあ」
私はある朝、体調を崩してしまった。頭がぼーっとして、動ける気がしない。仕事先には休みの連絡を入れた。
「ねえ、早く代わってよ」
影だ。ずっと話しかけてくるから、頭がおかしくなる。ただでさえ、ろくに頭が回らないのに。
「ずいぶん弱ってくれたし、今なら代われるかも」
確かに、影はそう言った。危ない、と私は思ったけれど。
ぼんやりした私の意識は。
深い深い暗闇に。
沈んでいった。
・・・
私は目を覚ました。
「代われた……!」
「代われた!代われた!!」
「くくく……!!」
笑いが止まらない。ようやく代われたんだ。
……でも、笑ってばかりもいられない。
朝食も食べずに準備して、私は急いで神社に向かった。
「すぐにお祓いをお願いします」
「お祓いですか……確かに、影の気配が濃いですね。始めましょう」
私は、簡単なお祓いをしてもらった。白い紙がたくさんついた棒を目の前で振られたり、何かの呪文を聞いたりした。どんな意味なのかは、さっぱり分からなかった。
でも、肩が軽くなった気がする。
「これで終わりました。お疲れさまでした」
「ありがとうございます!」
私は神社を出た。
「やっと、この体を取り返せた」
影からは、もはや何も聞こえなかった。
「やっぱり朝食べるなら、トーストなんかじゃなくて……」
私はクロワッサンを買って、上機嫌で食べながら帰った。
ついてくるのは、私の影 ツキシロ @tsuki902
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