うつくしい怪物
芥生夢子
うつくしい怪物
梅雨も明けたばかりだというのに、近年に例のない蒸し暑さだった。
荒野に、長い人の列が並んでいる。人々は慣れたもので、しるしもないのに蛇のようなうねりの列を綺麗につくって、口も開かずに、足の向きを揃えて並んでいた。誰もが手拭いや着物を頭から被り、日照りから身を守っていた。
太陽はやたらと黄色く、日射しまでもが色づいて降りそそいでいるように見えた。湿気を含んだ風がひっきりなしに吹いて、熱のこもった肌にまとわりついてくる。
擦り切れて角の毛羽立った所帯証明書を見せ、帽子で顔の隠れた配給係の男から、牛乳四缶と米や乾パンの入った麻の袋を四つ、マッチ箱を一つ受け取った。持参していた風呂敷で包み、胸に抱えて斜めに結んだ。
列を去ろうとすると、男が三和を呼び止め、褪せた朱色の布を一反手渡してくれた。
時折端切れが配給されることはあるが、一反分の布が手に入るなど、今までなかったことだ。それだけ人の数が減ったのだろうと、三和は思った。
配給が終わる頃、日陰で息を潜めていた人々が次々と姿を現し、同じように並んだ。今度はさっきよりも短い列だった。
係の男が順番に車に乗せていく。荷台に二十人ほどが押し込まれ、配給車は大きなエンジンの音を響かせて、来た道を帰っていった。
車が行ってしまうと、草の一本も見当たらない荒れ果てた土地が残された。
荒野から三和の住む集落まで、太い一本道で繋がっている。地平線が視界いっぱいに広がっていた。梅雨のなごりの泥水であちこちに溜まりができ、反射がひどく眩しかった。
道中、三和はいつになく心を躍らせていた。手に入れたばかりの赤い布で何をつくろうかと、考えるだけで楽しかった。日に日に、日没までの時間は長くなっている。暗くなれば針作業はできなくなるが、楽しみが明日に先延ばしになるのもまた、胸の弾むことだ。
一時間かけて日差しの中を歩いていくと、みな同じ形をした、古い長屋の連なった通りが現れる。家と家の間の角を曲がれば、やはりそっくりな路地が入り組んでいる。もし初めてこの場所に入る者がいるとしたら、どこへ行っても元の場所に戻ってきたような錯覚に陥って立ち往生することだろう。だが、ここにいるのは何十年も前から、あるいは生まれた頃からこの地域に住んでいる者たちだけだった。土地も家も、すべて昔に配給され、割り当てられたものだ。三和も、ここで生まれ育った一人だった。
老人たちが路傍に寝転がっていた。日を避けて、石の壁に背をつけ、めったに配給されることのない古新聞で顔を覆って暑さを凌いでいる。
自分の家がないわけではない。住処はすべての家族に割り当たられていたし、出ていった人々の家が何軒も空いている。だが、老人たちはこうして外の路地で寝ることを好んだ。天気の悪い日に限って軒下に入ってやり過ごし、晴れると外に出て、夜も地面で寝る。雨水を飲み、米は炊かず、取引に備えて貯蔵している。時折、思い立ったように何年も大事に使っている互いの新聞を交換し、字の潰れた昔の記事を読み解いて、何度も繰り返した意見のやり取りをおこなっていた。
三和は自分の家に迷わずたどり着き、軋む戸を引いて中に入った。
途端に、一番下の妹のむせび泣く声が届く。着物をぐしゃぐしゃに濡らし、尿の臭いが家中に漂っていた。母は壁際でこちらに背を向けて転がっている。つんざく泣き声は聞こえているはずだが、ぴくりとも動かない。妹を立たせ、乾いた端切れで股を拭いてやり、配給された朱色の反物を取り出した。「これで、あたらしい着物を縫ってあげる」というと、泣くのをやめ、布をよく見せてほしいとねだった。
三和は次の月で二十一歳となる。背は低く、日に焼けた浅黒い肌をして、ごぼうのように痩せていた。母と、歳の離れた妹二人と、四人で暮らしている。父は下の妹が産まれてすぐ、配給車に乗って出ていった。どこの家でも、老人以外の男は地域を離れる。女だけが残されるのは珍しいことではなかった。
採寸をし、少し大きめになるよう尺を取る。妹には汚れものを自分で洗うよういいつけた。三和の隣で音程のない鼻歌を唄いながら、雨水を溜めた桶に衣類を入れて踏み始めた。
六つになる妹は、歌というものを知らないはずだった。この地域では唄う習慣がない。三和自身、聴いたことがあるのはたった一度きりだ。まだ幼い頃、母親が三和を寝かしつけるために小さな声で唄ってくれたのだ。全部は憶えていないが、美しい女が鶴となって空を舞い、山を越えていくという内容だった。三和は鶴も見たことはなかったが、翼は白くて大きく、日の出のような赤色の模様が頭頂部を染めていると、歌の詞にはあった。
母の名前は鶴子という。彼女もこの集落で生まれ、一度もここから出たことがなかった。誰に教わったのか、人々が自分のものを持たないこの地域で、自分の名前と同じ鳥の歌をとても大事そうに唄っていた。
父がいなくなってから、母は声を発することすらしなくなった。妹は足を踏む規則的な動きに合わせて、何かを口ずさもうとしているが、うまくいかないようだった。
三和は錆びた縫い針を茶椀の底で研ぎ、着物の仮縫いを始めた。配給は食糧と最低限の日用品に限られている。薪は貴重だ。暗くなったら寝てしまうしかなかった。
それでなくても、人々は一日中眠っていた。水を沸かして飲むこと、配給品を食べること以外に、とくにやることもなかったからだ。
集落があるとはいえ代表者がいるわけではなく、争いが起こることもない。奪い合うものは、何もなかった。めったに支給されない反物で針仕事ができるのは、唯一といっていい楽しみだった。
針を動かしていると、暗い一間の奥で、大きな影がのっそりと動いた。家に一枚しかない布団で寝ていた真ん中の妹が起きてきたのだ。
「三和ねえちゃん、私にもやらせて」
「じゃあ、鍋じきを縫って」
小さな縫い物だったが、大和はとくに不満もなさそうに左手で針を受け取った。
大和は異形だ。片方の手が肘までの長さしかない。また、額のすぐ上あたりに、頭の三分の一ほどにもなる満月のような円形の大きな瘤がある。そのため、顔は右目と鼻孔がつっぱられ、斜めに歪んでいる。右の視力がないので、左右の焦点がばらばらで定まらない。瘤がある周辺の髪は散らばって、青い血管の浮いた皮膚が透けている。
しかし、瘤のせいもあって三和より頭一つ分も背が高い。痩せているのに骨格も立派だった。出歩かないので、この日差しの強い土地には珍しく肌が白い。三和は十人並の容姿だが、大和は異形でなければ自分よりずっと美しかったかもしれないと、三和はよく思う。
大和は余った布を重ねていき、短い右肘で器用におさえて、鋏で正方形に切り取った。差し止めがなくとも、まっすぐに仮縫いを進めていく。
二人は黙って作業に没頭していた。暗くなり、手元が見えづらくなった頃、大和が口を開いた。
「外の世界を知らないから、みんな何も感じないだけよ」
「なんのこと?」
わかっていながらも、三和は聞き返した。
「こんなことを、ただひとつの楽しみにする人生なんて嫌」
半分ほど縫われた鍋じきを、ひらひらと左手で扇ぐ。
「私は、きっとここを出ていく。父さんみたいに」
何年も前、父が何もいわずに突然地域を出たときからの、大和の口癖だった。
大和が産まれたのは、三和が八つのときだ。母の腹から出てきて、赤ん坊が異形であるとわかったとき、父は濡れた手拭いで瘤のついた顔を覆って殺そうとしたが、出産を手伝ってくれた老婆に「どうせ長く生きられはせんから」といわれて手をおろした。健康な男の子が産まれると思って用意していた大和という名を、「とわ」という読みに変えて名づけた。
大和は片耳も聞こえなかった。下の妹が産まれてからは、父はたびたび「こんなに生きるはずじゃなかった」と、大和の聞こえないほうの耳に向かっていった。その後すぐ、父は配給車に乗った。
無事に大人になると思われた大和も、少しずつできることが少なくなり、最近は床に臥せっている時間が増えた。よく喋る子供だったが、舌が回りづらくなり、頭ははっきりしているのに言葉が不明瞭なことが多くなった。太い骨格が身体にそぐわないらしく、成長するほどに手足はがたがたになっていった。肉瘤も歳とともに大きくなっていた。
短い初夏が過ぎ、梅雨がえりで、また雨の日が増えた。
気温はますます上がっていた。老人たちは一番近い空き家に引っ込み、部屋の中に横になっていた。
ようやくおとずれた快晴の日、三和が妹たちと庭に出ると、濡れた砂の地面が日照りをまばゆく跳ね返していた。大和は着物を縫うのに余った布の切れ端で、末っ子の
あの頃、配給品を受け取りにいくのは、父と三和の役目だった。三和は麻袋に入ったその布を見たとき、きっと自分のものになるだろうと思っていた。父に教えてもらって、花の名前を初めて知った。薄紅色の四角い布の中で、真っ赤な椿が枝からこぼれそうなほど見事に咲いていた。
父は家に帰ると、子供の手の平ほどの布を大和に手渡した。大和は成長が遅く、まだ歩くこともできなかった。もらった布切れを大事に布団の下に隠して、毎晩うれしそうに眺めていた。数年の後、父が地域から出てしまったあと、大和がその布をどうしたのか三和にはわからない。
造花を家の外に並べようと茉がいった。何かを飾るというのは、三和も知らないことだった。だったら枝につけて本物みたいにしましょう、と大和はいった。大和にとって本物の花は、あの小さな布に描かれた椿のことだった。茉は本物の意味もわからず、両手をあげてはしゃいでいた。
薪用の細い枝に花を結びながら、大和が口を開く。
「三和ねえちゃんは、ここを出たいと思わないの」
頭にあるのは、いつも外の世界のことばかりだった。
「私はこの土地で死にたいの。母さんも、家を絶対に離れないだろうし」
不格好な花の木ができあがった。布に描かれていた模様とずいぶん違っていたが、誰も本当の椿を知らなかった。
「母さんは意地になっているのよ。父さんがもう戻ってくるわけがないのに」と、大和は大袈裟に嘆いた。
「今だって、みんな死んでいるようなものでしょ」
ほら、といわんばかりに顎をしゃくって小さな妹を示す。つくった花は早くもばらばらにされ、枝は地面に突き立てられていた。まるで墓だ。近所には墓地があり、木の杭が立った墓が並んでいる。茉は花を知らなくても、墓なら見たことがあったのだ。
「出ていった人は、誰一人戻ってこないじゃない。ここより悪い土地なんてないって証拠だわ」
「戻らないんじゃなくて、戻れないの。ここを出た人たちは、もう二度と帰ってこられないの」と、三和はいった。
赤い着物が仕立てあがった。茉に着せてやると、喜んで飛び跳ねた。そして、すぐに大和の隣に這っていって、布団に寝転がった。
夕方、日が弱くなってから、三和は茉を連れて橋の跡地まで散歩に出ることにした。歩かなくては母のように足が弱って動けなくなってしまう。大和も一緒に行きたいといって、食料と交換して手に入れた綿頭巾を被り、袖の長い着物に着替えた。脚は少しひきずっているが、六つの妹と同じ速さで歩くことはできた。
「ここを出た先は、どんなところだと思う? どんなものがあって、どんな人たちがいるのかな」
大和は歩きながら、ひとりごとのようにいう。
「男の子たちは、希望に満ち溢れた目をしていたわ。いつか自分が違う世界に行けると知っていたから。それと比べて、女たちの目の濁っていること。別に、女がここから出てはいけないという決まりはないもの。誰も、そんな気がないだけで」
男児は父親に連れられ、配給車に乗って出ていってしまう。残されるのは老人だけだ。
仕事と同様、嫁ぐことや子供を産む習慣も、親の代で廃れてしまった。集落で最後の子供になるかもしれない下の妹に茉と名づけたのは、まったく先見の明があると、近所の老人たちが珍しく楽しそうに話していた。
三和たちは父より若い男を見たことがないけれど、大和はいつも自分のそばにいる青年を想像することがあるという。
「できれば私より背丈が高くて、年上の人がいい。そうね、父さんのようだったらいいのに。外の世界には瘤や短い手を持つ人もきっとたくさんいて、私はそういう人と一緒になるの。三和ねえちゃんは?」
三和も同じように思い描いた経験はあったが、口にはしなかった。
「老人や病人を置いてはいけないでしょう。誰かが残らなくちゃ」
「だったら、全員連れていってしまえばいい。ああだこうだと理由をつけて、結局、ここにいるのが楽なのね」と、大和は吐き捨てた。
真ん中に茉を挟んで歩き、三和が大和のほうを振り向くと、顔の左半分だけが頭巾から覗いているのが見えた。白い肌、高い鼻梁、瞼に沈む黒い瞳。
やはり美しい子だ。綺麗な顔立ちと、輝くばかりの若さを持っている。外の世界に憧れを抱くのも無理はない。だが、頭巾の上部は不自然に大きく浮いていて、中に潜んでいる肉が詰まった瘤を思い出させた。
大和がまだ幼い頃は、近所の男の子によく石を投げられていた。男児の数がめっきり減ってからはそれもなくなった。残された者たちは誰も大和の異形について、陰口を叩いたりしない。興味や関心を抱くにも気力がいる。この地域は、それすらもすっかり失ってしまっていた。
元々川が流れていたという橋の跡地は、大きな石がそこら中に転がり、地面がへこんで窪みのようになっている。茉が姉から手を離して走りだした。石と石どうしをぶつけたり、白い石灰で線を描いたりしていたが、すぐにあきらめて戻ってきた。
三人は崩れた石橋の日陰で休みながら、ぼんやりと時を過ごした。
月初め、また配給車がやってきた。係がトラックの後ろの錠を外すと、食料品の積まれた奥から男が出てきて、荒野に降り立った。
三和と同じ年頃の若者で、立派な生地の服を着ている。見あげるほど背丈が高く、顔つきは険しい。肩下まである髪を、後頭部でひとつに結わえていた。
配給係以外の人間がやってくるのは、三和の知る限り初めての出来事だ。行列に並んでいた者たちもみな驚いていた。いつもは無言で品物を受け取るだけだが、その日、人々の会話が止むことはなかった。
集落は彼の話題で持ちきりとなった。向こうの世界ではひとかどの人物で、ここへは視察にやってきたのだという。毎日、配給係を連れて地域を見廻っている姿を見かけた。男は一度も名乗らなかったが、胸に鷹という鳥の刺繍が入っていたので、年寄りの誰かがその名で呼び始めた。女たちは、そろって鷹に夢中になった。
大和も例外なく、彼にのめり込んだ。だが、どれだけ話しかけられても、彼は集落の者の言葉には一切答えなかった。視察に関連した疑問があるときに限って、配給係を通して質問を投げかけた。
大和は引きずる足で必死に鷹につきまとっていたが、彼の眼にはまったく映っていないようだった。彼を取り囲む好奇心に満ちた女たちの中の、ただの一人に過ぎなかった。
だが、ある雨の降った日、いつものように鷹について回っていた大和が、ぐっしょりと水を含んだ頭巾を彼の前で脱いだ。
これまで他人に関心のなかった集落の女たちは、鷹が来てから、互いに敵対心を持つようになっていた。頭巾を取った大和を忌々しそうに眺めたあと、額の瘤を見て、安堵した表情で視線を鷹に戻した。
しかしそのとき、鷹の黒い瞳は、まっすぐに大和の姿を捕らえていた。
その日を境に、二人がともにいる姿を見かけるようになった。今まで布団に寝たきりだった大和は、毎日着物を天日干しし、湿気のにおいをとって出かけていった。
ある夕方、すっかり日が落ちて暗くなっても大和が家に戻らず、三和は母と茉を家に置いて捜しに出かけた。
橋の跡地の近くにある柳の木の下で、二人の姿を見つけた。鷹はいつも結っている髪を下ろしていた。隣でいつもの頭巾を被った大和が、うやうやしく体を寄せていた。鷹が大和の頭巾にそっと手をかける。大和はそれを嫌がり、笑いながら一悶着していたが、やがて観念して顔を見せた。鷹の表情は、三和がこれまでに見たことがないほどやさしかった。彼らの後ろでは、枯れて葉のつかない垂れ下がった柳の枝が、しっとりと風にはためいていた。
その夜、大和はうちに帰ってこなかった。
翌朝、大和はおごそかな顔つきで、そっと家の扉を開けて入ってきた。それでも喜びを隠せないといった様子で、眼を輝かせ、はずんだ声で三和にいった。
「鷹さんと、向こうの世界に行くの。私を迎える準備をして、戻ってきてくれると約束したのよ」
数日後、視察を終えた鷹が帰る日がやってきた。女たちが荒野へ見送りに来たが、大和は誰も寄せつけなかった。すでに妻になったような顔をして、背中から鷹に上着を着せ、車が走り去って見えなくなっても、タイヤの残した跡を眺めていた。
しかし、約束の秋を過ぎても、彼が戻ってくることはなかった。
厳しい冬がやってきて、集落は新しい年を迎えた。年数を数えるわけでもなく、この土地にあるのは、一年ごとに繰り返される月日だけだ。
秋になった頃から、目に見えて配給量は減っていた。牛乳はただの水となり、麻袋から米が消えた。車が来るのは月に一度となっていた。人々の間では、もうすぐ配給が止まるとさえ噂になっていた。
「男たちがいなくなったからよ。ここはもう、死んだ土地だと見なされたんだ」と、大和がいった。「次の配給車がきたら、私はここを出て行く」
そして、「三和ねえちゃんも行こう」といった。
「母さんとあの子を置いてはいけない」
「配給が減っているのよ」
「それでも、なんとか生きていけるから」
配られた乾パンの缶を、錆びた缶きりで開けた。
それから二ヶ月間、配給車はこなかった。寒さと飢えで、さらに人は減っていった。路肩で寝ていた老人たちは寒さで家の中に閉じこもり、二度と出てこない者もいた。
冬の真っ只中、母が肺を病んで死んだ。最期のときまで、一言も喋らなかった。
母は目を閉じる直前、これまで三和が見たことのない表情をしていた。車に乗っていった人々と同じ、希望に満ちた顔だった。近所の者たちが手伝ってくれて、墓地に埋められた。誰もが埋葬に手馴れていた。
その後すぐ、元々身体の弱い大和が母からの感染病を患った。
雪は幾日もやむことなく降り続けていた。火を焚く薪はすでにない。三和は雪を溶かした水を器にいれ、肌であたためてから少しずつ飲ませた。乾パンを水でふやかし、食べさせた。茉がうらやましそうにその様子を眺めていた。
「三和ねえちゃん、私はここを出るの」
布団に横になった大和が、苦しそうな声で言った。熱が引かず、頭の上の瘤は真っ赤に染まっていた。腫れて脳を圧迫し始めた肉瘤が、手足を麻痺させていた。
三和はなるべく優しい声でいった。
「あっちの世界はここみたいに、何も与えてくれないよ。自分だけが頼りなんだよ。人に騙されるし、人を騙さないと生きていけないのよ」
大和がいった。
「私は、自分の力で生きてみたい。きっと何年かに一度の針仕事なんかよりも、ずっと楽しいことだと思うの」
大和は身体全体で息をしていた。外が、人の声で騒がしくなった。茉が小走りで様子を見にいき、すぐに戻ってきて叫んだ。
「はいきゅうしゃがきたよ!」
それを聞いて大和は身を起こし、声を張りあげた。裾から覗いた左手が激しく痙攣していた。
「お願い、三和ねえちゃん。あっちの世界に行って。今じゃないといけないの。いつ、生かしてもらえなくなるかわからない」
口の端からは血が一筋洩れていた。顔は高熱で赤く腫れ、鬼のような形相だったが、瞳は黒く澄んでいた。
「家族を置いていけるわけないでしょう」
「いって、お願い、私はいいから。いって」
血を吐いて後ろに倒れ、ぴくりとも動かなくなった。
三和は大きな声で何度も名前を呼んだ。大和は動かなかったが、大和はもう片方の耳でちゃんと全部聞いていることを、三和は昔から知っていた。大和は自分がここから出られないことを、ずっと昔から知っていた。
大和の短い手を固く握った。配給車が去る時刻は迫っていた。外は動きだした人々の気配で、一層ざわめいていた。
三和は最期のときまで迷っていたが、茉を背におぶると、家を出た。
強い風が細かな雪を激しく地面に打ちつけていた。何人もが、走って三和を追い越していった。嬉しそうに声をあげている者もいた。普段は動かない老人たちも、家族に手を引かれて雪の中を歩いている。
あたらしい世界に行こう。
人々は祈りのように唱えた。
あたらしい世界に行こう。
三和は道の真ん中で立ち止まって、戸惑っていた。
どうしよう、私は大和を、置いてきてしまった。私たちを別の世界に送り出そうと必死だった、やさしい大和を。すぐにでも、家に戻らないと。
激しい後悔が襲ってくる。病気も異形も、関係ない。すぐに死んでしまってもかまわない。もっと早く、大和も連れてここから出ていこうとしていれば。
突然めまいを感じ、まっすぐな道がぐにゃぐにゃと曲がって見えた。道の先から、いるはずのない何台もの車が、三和に走って向かってこようとした。それは配給車しか知らない、三和がこれまでに見たことのない車たちだった。白や黒、赤、青で彩色され、また、大きさも様々だった。車たちは明確な形を持っていなかった。色のついた絵の具を筆で走らせたようであり、ときには大きな岩のようだった。それらがみな、三和に向かって走ってくる。
三和は必死でそれを逃れた。だが子供を背負い、疲れきった体は巨大な車の群れに次々と轢かれていった。上半身をタイヤに潰され、息を殺された。心臓の鼓動が耳のなかで激しく鳴っていた。手足は固いゴムの鋭い摩擦にもぎとられ、体中の血がすべて流れ出てしまった。三和は叫んだ。
あぁ、死んでしまった。私は今、死んでいるんだ。
そう思ったとき、三和は一瞬で白銀の世界に帰された。雪が空を覆い、地面を隠していた。背中では大和の頭巾を被った茉が静かに寝息を立てている。
生きている、と三和は思った。片手で茉を背負いなおし、目の前に掌をかざす。手首から指の先まで、透けた血管を血がめぐっていた。腕はしっかりと茉を抱きかかえ、自分自身の足でそこに立っていた。
人々の群れはすでに過ぎ去っていた。その場所には三和と茉の二人きりしかいなかった。道は雪で覆われ、足跡すらもすでに消えていた。空も地面も、どこまでも白く、雪の落ちる音が聞こえてきそうなほど無音だった。
この雪のなかに、赤い花が咲いていたらきっと綺麗だろうと、三和は思った。大和といっしょにつくった、花に枝をさしただけの不完全な椿が、一面に咲いていたら。それは額の赤く染まった、白い大きな鶴が舞い上がって北の山に帰っていくような美しさなのだろう。同時に三和は、大和の口から洩れた鮮血の色を思い出した。
「おねがい、ここから出て、外の世界にいって」
遠くで、大和の声が聞こえた気がした。
いつのまにか目を覚ましていた茉が、耳元で呟いた。
「むこうには、ほんとうの花、あるかな」
三和は自分の心を見透かされたようで驚いたが、この小さな妹も、ずっと三和や大和と同じ気持ちを抱いていたのだろうと思った。
「あるよ、きっと」
三和はふたたび歩き出した。
白く染まりきった荒野に、見慣れた大きな車が停まっているのが見えた。配給を終え、人々は荷台に乗せてもらうため、列を作っているところだった。
一番後ろに並び、順番を待った。人で溢れた荷台に乗ると、隅のほうに座った。そして茉を背から下ろし、胸に抱いた。配給係の男が、くすねていたらしい牛乳を妹に与えてくれようとしたが、三和は断った。袂から水と乾パンを出し、茉に食べさせた。
車が大きな音を立てて動き出す。白い風景に、道筋はなかった。だが、まっすぐ前に進んでいた。茉は腕の中でまた瞼を閉じた。三和は小さく歌を唄った。鳥の歌、花の歌、山の歌、見たこともないものの歌を、でたらめな調子で唄って聴かせた。
やがて、雪は降り止んでいた。車の向かっている先の空は、地平線から放射状に光を発し、目を開けられないほど明るかった。
あの下に外の世界があるのだと、三和は荷台から体を乗り出し、光を眺め続けていた。
うつくしい怪物 芥生夢子 @azami_yumeko
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